2015年12月9日水曜日

戦闘群戦法の構成要素考察

旧軍が1937年に導入し始めた「戦闘群戦法」。各投稿でも平然とこの用語を使用しているが、明確な定義がなされていないため案外内容があやふやな戦法であるその細い中身まではあまり触れることはなかった。

「17年9月10日発布仏軍大本営教令に歩兵半小隊を以って歩兵の最小戦闘単位となし、此の内に軽機関銃手と小銃手を編入し、是等小単位の機宜に適する敏活なる運動並びに戦闘により、某小範囲の戦闘を独力にて遂行せんとするに至り、歩兵戦術は茲に根本的に変化するに至りたるなり。
之れ即ち、戦後の一新原則とする戦闘群戦法の最初の教令とす。
この教令による戦闘群は半小隊を以って単位とするものにして、歩兵各小隊は之を全く同一編成の2半小隊に分かち、各半小隊の定員は、
軽機関銃 1(弾薬手と共に3名を以って1組とす)
擲弾銃 3(銃榴弾を発射する小銃なり)
擲弾歩兵 約7(小銃並びに手投榴弾を携行する歩兵とす)
より成り、1下士を以って之が長とす。該戦闘群は攻撃前進中、例えば、大弾痕内に位置する敵の1機関銃の抵抗を受くる時は、先ず軽機関銃をして之に応ぜしめ、その間に群内の他兵は地形を縫うて之に近接し、擲弾銃の有効射程(150m乃至200m)に入り、敵尚抵抗する時は直ちに其の擲弾を以って我が軽機関銃火を増援し、以って之が制圧を図り、此の間に擲弾歩兵は更に之に近迫して手投榴弾の有効射程に入る。此の際、敵尚抵抗する時は直ちに手投榴弾を以って之を鏖殺し、或いは之を圧伏し、機を見て白兵を振るって之に突入するを理想的の戦闘要領となす」(『世界大戦の戦術的観察 第3巻』, pp.124-125)

世界大戦の戦術的観察』では戦闘群戦法をこのように説明している。これはそのまま概要として扱えるが、そもそも「戦闘群戦法」(という用語)は、日本軍がフランス軍の編成運用等を見て独自に定義した戦法であり、色々な要素をまとめて「戦闘群戦法」(という概念に詰め込んでいる)と呼んでいるため、海外(英語圏)でよく使われる概念等と絡めた話をする際には不便である。
また、当の旧軍でさえ、他国の戦闘群式戦法と自軍の新戦法(戦闘群式の戦法には違いないが)は違うものである。と述べている書籍もある。
個人的にWW1以降の戦闘群戦法は「戦闘群戦法」となって、(基本的には同じものではあるが)仏軍のオリジナルの戦闘群戦法と部分的に異なる箇所もあるような印象を受ける。

今回は旧軍が言うところの「(WW2の頃の)戦闘群戦法」がどういった要素で構成されているのか考えてみる。
まずは、考えるに当たって必要となりそうな情報を列挙したので、それを見てもらおう。

ここで扱うのは(旧軍の目を通して見た)一般的な戦闘群式戦法について。
旧軍式の戦闘群式戦法(?)については「旧軍式戦闘群式戦法」の方で扱っています。


分隊の重武装化

旧軍が「戦闘群」 と訳した"Groupe de Combat"、一見すると分隊に軽機関銃を持たせただけ。というような単純なものに見えるが、これは分隊になかなか大きな影響を与えている。更に「戦闘群編成」を導入するかしないかに関わらず、重武装化の流れとして、分隊は手榴弾や擲弾も装備している場合がほとんどなので、旧来の小隊分隊と比較すると非常に重武装となっている。
ひとまず小銃と軽機関銃の性能に焦点を当てて見てみよう。

歩兵操典草案 中隊教練ノ研究 上下合冊(陸軍歩兵学校将校集会所,1927,p.174)
「軽機関銃分隊は...発射速度も外国に於て見る所を以てすれば概ね五、六十発の程度(本校の実験射撃に於て中等射手の点射を以てする射撃は概ね外国のものに相似たり)にあり...小銃分隊は一分間の発射速度一人平均五、六発として十人内外の分隊を以てせば一分間五、六十発の射弾を送り得て...」

一九三二年新編制に基く 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案(教育総監部,1939)では、軽機関銃の一分間の発射数を150発以内、小銃は10発としている。(本書はソ軍の教令草案の翻訳)

FM 7-5 IFM Organization and tactics of infantry the rifle battalion(1940,p.11)では、

" b. The semiautomatic rifle, M1, is capable of approximately 20 to 30 aimed shots a minute. The M1903 rifle is reloaded by hand operation of the bolt and is capable of a rate of about 10 to 15 rounds a minute."

半自動小銃であるM1ライフルは概ね20〜30発、ボルトアクション式小銃のM1903ライフルは10〜15発を、それぞれ一分間に射撃できるとしている。

時代を遡ること明治時代、『戦術綱要 全(軍事鴻究学会,1902,附録p.84)の「歩兵射撃の速度」によれば、1分時(1分間)に徐射撃が2〜3発、並射撃が5〜6発、急射撃が8〜12発、連発一斉射撃が8発となっている。

小銃の射撃は、(米軍のM1ライフルのような半自動小銃等を除き)明治期からWW2まで大して変化が無く、1分間に5発前後は射撃可能。
WW1以降、特に海外では、運動する散兵に有効な命中弾を与える必要性から最大限の射撃速度が求められ、1分間に概ね10発が標準となっている。

一方、軽機関銃はどうか?
例えば、旧軍の軽機関銃(弾倉式弾薬30発:九六式軽機関銃)の射撃速度は、引鉄を引きっぱなしにすればものの3〜4秒で弾倉内の弾薬を撃ち尽くしてしまう。(歩兵教練の参考(各個教練) 第1巻,p.63)
個別に調べてすらいないが、他国の軽機関銃も5秒前後で全弾を射撃できるだろう。

軽機関銃が一分間射撃を行うとして、仮に射撃後の再照準や装填等に毎回15秒かかると考えた場合、全弾連続発射の射撃を3回行う事が出来る。射弾は90発、小銃兵9人分の射数である。
装填等に25秒かかったとしても射撃は2回でき、射弾は60発で小銃兵6人分となる。
単純な話、軽機関銃は弾倉に装填されている弾丸の数だけ撃てるので、弾倉内に30発あれば小銃兵3人分、単純に射数のみを参考に考えても、軽機関銃1丁で小銃兵数人分の火力があるということになる。

また、軽機関銃は射数の多さに加え、二脚等で据え付けの射撃を行うなどの種々の理由から命中率は小銃より良いとされている。
旧軍の『諸兵射撃教範 総則第一部』に収録されている「命中公算表」を一つの参考として見てみよう。

第四十二 実用半数必中界を基礎とし各種目標に対する小銃、軽機関銃、重機関銃の命中公算を算出せるもの附表第四乃至第八の如し
実戦に在りては精神上の影響に依る半数必中界の増大に伴い命中公算は前項に示すものに比し減少するを通常とす」

詳細は個人で見てもらうとして、ここでは小銃・軽機関銃・重機関銃が各種人像的を射撃する場合の命中公算の一部を見てみよう。

三八式歩兵銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 71.0%  46.2%  35.7% 200m
55.3% 30.9% 21.2% 300m
39.8% 19.5% 12.4% 400m
27.0% 12.6% 7.7% 500m
19.2% 8.7% 5.1% 600m
13.6% 6.1% 3.4% 700m

十一年式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 39.4%  24.0%  15.3% 200m
30.2% 13.6% 8.0% 300m
18.6% 8.3% 4.9% 400m
11.0% 5.5% 3.9% 500m
8.0% 3.7% 2.2% 600m
6.4% 2.8% 1.6% 700m

九六式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 54.3%  33.0%  22.5% 200m
39.6% 21.6% 13.7% 300m
26.9% 13.4% 7.8% 400m
19.1% 8.4% 5.1% 500m
13.3% 5.7% 3.4% 600m
9.7% 4.1% 2.3% 700m

九二式重機関銃(軸心間隔1m対散兵、薙射)
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 38.2%  24.4%  15.1% 200m
36.3% 20.5% 12.3% 300m
33.5% 17.0% 10.0% 400m
30.4% 14.6% 8.5% 500m
27.7% 12.5% 7.4% 600m
25.0% 11.1% 6.4% 700m

この命中公算表の数値を見ると、軽機関銃や重機関銃よりも高い三八式歩兵銃の命中公算の高さに驚かされる。
これを見ると、小銃の方が命中公算が良いように思われるかもしれないが、上に載せておいた「諸兵射撃教範総則第一部』の第四十二に記述のある通り、

実戦に在りては精神上の影響に依る半数必中界の増大に伴い命中公算は前項に示すものに比し減少するを通常とす

となる。
つまり、この命中公算表の数値は平時の人像的に対する命中公算であり、実戦について考える場合はこの数値は当てにならない。

では、実戦における命中公算はどうなのかというと、教範には記述が無いようだが、『射撃学教程 全(1938年)にはこれに関する記述がある。
この射撃学教程は、諸兵射撃教範が施行される前、つまり『小銃、軽機関銃、拳銃射撃教範』に準じたものである。
諸兵射撃教範が施行された後に出た射撃学教程では数字等が変わっている可能性があるが、無い物はしょうがない。

これによれば実戦における命中公算は、

「小銃射撃の効力は射手の精神状態に関すること特に甚大にして日露戦役の発射弾数と死傷者とに依り推算するときは戦時効力は平時効力の約十五分の一なるが如し」(p.49)

「軽機関銃は結構上戦時効力は平時効力の約四分の一なるが如し」(p.53)

「重機関銃は結構上射手の精神感応を受くること少なきを以て戦時効力は平時効力の約二分の一なるが如し」(同上)

※これらの記述に関しては一抹の不安がある。これらを読んだ時に同じような疑問を抱く人がいるかも知れないが、文中の「効力」が「命中効力」のことなのか「効果」のことなのか判然としないのである。
『諸兵射撃教範』では、「命中公算」となっているが、『小銃、軽機、拳銃射撃教範』の頃はこれを「命中効力」と呼んでいた。
諸射教範でこれが「命中公算」となったのは、弾丸の効力なのか命中率のことなのか分かりにくいからだそうだ。(諸兵射撃教範改正要点に関する説明,p.39)

上掲の射撃学教程中の文章は、
1、射撃学教程中では、命中効力に関する記述箇所に付随して記述されている。
2、小銃、軽機、拳銃射撃教範の第162において「平時に於ける...命中効力...」、「戦時に在りては精神上の影響を...命中効力を減少する...」といった記述がある。
3、文脈からしてこれが弾丸の効力に関しての記述であるというのはおかしい。
という3つの理由から個人的に「命中効力(公算)」に関しての記述であると判断した。


命中公算表の各数値を、小銃は15分の1、軽機関銃は4分の1、重機関銃は2分の1とし、これを命中公算表に反映したものが以下である。(小数点第3位以下は四捨五入)

三八式歩兵銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 4.73%  3.08%  2.38% 200m
3.69% 2.06% 1.41% 300m
2.65% 1.3% 0.83% 400m
1.8% 0.84% 0.51% 500m
1.28% 0.58% 0.34% 600m
0.9% 0.41% 0.23% 700m

十一年式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
  9.85%  6%  3.83% 200m
7.55% 3.4% 2% 300m
4.65% 2.08% 1.23% 400m
2.75% 1.38% 0.98% 500m
2% 0.93% 0.55% 600m
1.6% 0.7% 0.4% 700m

九六式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 13.58%  8.25%  5.63% 200m
9.9% 5.4% 3.43% 300m
6.73% 3.35% 1.95% 400m
4.78% 2.1% 1.28% 500m
3.33% 1.43% 0.85% 600m
2.43% 1.03% 0.58% 700m

九二式重機関銃(軸心間隔1m対散兵、薙射)
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 19.1%  12.2%  7.55% 200m
18.15% 10.25% 6.15% 300m
16.75% 8.5% 5% 400m
15.2% 7.3% 4.25% 500m
13.85% 6.25% 3.7% 600m
12.5% 5.55% 3.2% 700m

一転して小銃の命中公算は一番低い数値となった。
軽機関銃は小銃の概ね2倍〜それ以上の命中公算があるようだ。
仮に、小銃の戦時効力を平時効力が10分の1だったとしても、まだ軽機関銃の方がその公算は優位である。

ただし、そもそもこの命中公算表は射撃の命中率に関する“一つの参考”でしかない。この数値があてになるのかと言えば、それほどあてにはならないだろう。
あくまで一つの参考・目安であるということに注意が必要である。


「紙上に兵を談ず」というべきか、これらは現実にそのまま当てはめることができない完全な数値上の話ではあるが、分隊は軽機関銃を装備することによって、小銃のみの分隊と比較すれば倍以上の火力を持つことになる。
分隊の兵員は大抵10人前後であるから、軽機関銃を装備した分隊は小銃のみを装備した分隊2個分に相当すると考えることもできる。
これに加え、戦闘群式の分隊は手榴弾やライフルグレネード等を装備していることがほとんどなので、分隊の総合的な火力は散兵線戦闘の頃やWW1の初期と比べれば非常に大きいというわけだ。

WW1の頃の軽機関銃や擲弾銃、手榴弾といった兵器は、軽機関銃分隊・手榴弾投擲部隊・擲弾銃分隊といったそれぞれ専門の分隊として編成、運用されていた。
小銃分隊が手榴弾や擲弾銃を装備したり、手榴弾投擲部隊(擲弾兵※擲弾兵は擲弾銃兵のことを指している場合もある)の中に小銃兵が組み込まれている。といったようなことも当然あるが、これらの部隊を一つの分隊に組み込んだものがフランス軍の「戦闘群」、つまり戦後(WW1)型の分隊であると見ることができる。

ちなみに、各国での擲弾筒・擲弾銃の運用法は二つに分かれる。
1つは、旧軍のように「擲弾筒分隊」といったものを一般分隊(軽機関銃と小銃装備)とは別に設け、この一つの分隊にまとめて配備してしまうものである。
旧軍の他には1930年代のソ連軍(※)やポーランド軍がこの形態。軽迫撃砲も含めれば、イギリス軍やWW2初期のドイツ軍(Granatwerfer 36)、スウェーデン軍(Granatkastare m/40)等もこちらの運用法を採っていた。
※『狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案』では、射程が少なくとも600m程度はあるような記述がなされている。一般的な擲弾銃とは思えない射距離を持つこの擲弾銃は"Гранатомёт Дьяконова":「Dyakonov擲弾銃」であると思われる。

2つ目は小隊の各分隊が装備するもので、フランス軍の戦闘群はこの形態。(擲弾銃を集めて擲弾銃分隊のような運用も可能)
こちらの方がどちらかといえば一般的である。

分隊の分業

これまでは兵器に焦点を当てた話だったが、今度は編成や運用に焦点を当てて行こう。

分隊規模の"Fire and Movement"
旧軍は戦闘群戦法を導入する前に、WW1当時、欧州各国が行っていた部隊運用を導入した。これが昭和3年歩兵操典から昭和15年まで旧軍の制式であった「疎開戦闘方式」である。

この時期の旧軍の小隊には軽機関銃分隊と小銃分隊の2種類の分隊があった。
軽機関銃分隊は専ら火力戦闘のみを行い、小銃分隊は火力戦闘と白兵戦闘を行うこととされていた。
軽機分隊は敵を射撃で制圧、小銃分隊は他の分隊の前進を援護するため敵に対して射撃を行いつつ、自身も他の分隊の射撃によって前進する。
一般に "Fire and Movement" あるいは "Fire and Maneuver" と呼ばれているものである。
単純に訳せば「射撃と運動」となるが、日本でこれを指しているであろう呼称は色々ある。

射撃と運動との連携(最新英和軍事用語辞典)
射撃と運動との協調(昭和3歩操第264)
射撃に連携して前進(昭和12歩操第162)
射撃及運動を調和(昭和15歩操第111)
火力と運動との結合(旧軍)等。

ちなみに、旧軍の操典には「運動と射撃」、「運動及射撃」といった語があるが、これらは単純に「移動と移動後の射撃」や「部隊の移動と部隊の射撃」ということを指しているようである。

疎開戦闘方式における"Fire and Movement"は小隊規模(分隊単位で射撃、前進)であった。

第百六十四 疎開戦闘に於ける小隊は小隊長統轄の下に其小銃分隊及軽機関銃分隊の射撃、運動及突撃を密接に連繋せしむべきものとす...」(昭和3歩操)

第百七十六 小銃分隊は軽機関銃分隊及他の小銃分隊と密接に協同し特に其運動をして各種火器就中軽機関銃の射撃に連繋せしむる如くするを必要とす」(同上)

第二百十 軽機関銃分隊は小銃分隊及他の軽機関銃分隊と密接に協同し其射撃をして他分隊の運動と調和せしめ特に小銃分隊の攻撃を容易ならしむるを主眼として行動するものとす」(同上)

第二百六十四 小隊長は各分隊をして射撃と運動との協調を適切にし絶えず前進し絶えず有効に射撃し得しむることに留意し以て成るべく速に敵に近接することに勉めざるべからず...」(同上)

これが、昭和12年の歩兵操典草案配賦以降、つまり「戦闘群戦法」の導入後は下位の部隊単位である分隊規模(半分隊単位で射撃、前進)で行われるようになった。(ただし旧軍の場合、射撃を行うのは専ら軽機関銃班で、小銃班は射撃をしないという方針が主流。海外の「軽機班が射撃、小銃班が前進、小銃班が射撃、軽機班が前進」というモデルとは異なる。詳細は「旧軍式戦闘群式戦法」を参照。)

第百六十二 散開せる分隊の運動は速に敵に近接するを主眼とす然れども勉めて地形を利用し且我が各種火器の射撃に連繋して前進するを要す」(昭和12歩操草)

第百十一 分隊は白兵力と火力とを統合せる最小の単位にして分隊長以下挙止恰も一体の如く射撃及運動を調和し突撃を実施す...」(昭和15歩操)

一方で、小隊規模の"Fire and Movement"はどうなったのかというと、
新歩兵操典草案ノ研究 第二巻(戦術研究会,1937,p.45)

「一、新戦闘法に於ては従来の如く分隊相互の密接なる協同連繋は必ずしも必要とせず各分隊が一意迅速に敵に向い近迫することに依りて其の目的を達成し得べく分隊の運動の主眼此所に在り」

となったようだ。
とはいえ、擲弾筒分隊や重機関銃の支援もあるので、小隊規模のものも完全に無くなったというわけではないだろう。

歩兵操典には"Fire and Movement"の理論をまとめて説明しているような条項はないため、ある程度詳細な説明は操典の研究本等を見るしかない。

新歩兵操典草案ノ研究 第二巻(p.46)

「三 、火力と運動との協調は敵に近迫するが為に緊要欠くべからざるものにして砲兵、重火器等の射撃と協調しつつ分隊内に在りては主として軽機関銃と小銃手との連繋を図らざるべからず
此所に附言したきは散開せる分隊の運動は砲兵、重火器及軽機関銃の射撃援護の下に自らは一弾も発せずして突撃距離に迫るを以て理想とすべく長時間の火戦は弾薬を浪費し、時間を消耗し、損傷を増大し、散兵の身神を疲労せしむるのみなるも敵火の状況之を許さざるを以て已むを得ず自ら火器威力を発揚するに至るものとす、此理論は分隊内に於ても同様なり」

歩兵操典詳説 初級幹部研究用 第一巻(干城堂,1942,p.57)

「分隊は主として軽機関銃と狙撃手とを以て火戦に任ぜしめ其の適切なる運動と射撃とにより敵を圧倒しつつ之に近接し、後方散兵群亦前方散兵群の射撃の掩護と自らの適切なる運動とにより損害を避けつつ之に跟随し、以て火力と白兵力との調和を最高度に発揚し、遂に分隊長を核心として一体となりて敵陣に突撃するの本旨を明確にし、訓練上に的確なる指針を与えられたのである。」

一九三二年新編制ニ基ク 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案(1939,p.66,本書はソ軍教令の翻訳)

「分隊の攻撃は火力と運動との結合にして小銃手は軽機関銃の掩護射撃に依り、軽機関銃は隣接軽機関銃、重機関銃手の掩護射撃に依り前進す」

フランスは1918年から。その他の国(英・独)でもWW1後から導入が始まり、1930年代前半にはソ連が導入を始めた。
日本では1937年の歩兵操典草案で導入が始まり、1940年の歩兵操典で正式に導入され、他国と同様に"Fire and Mivement"は小隊規模に加えて(制限はあるが)分隊規模でも行うものとなっている。

ちなみに、分隊規模での"Fire and Movement"は、必ずしも軽機関銃が必要というわけではなく、小銃のみの分隊でもできる。
米軍のFM 7-5を見てみると小銃分隊の項に"Fire and Movement"の説明がある。
理論的には、自動小銃はボルトアクション式小銃の倍近い射撃が可能なので、小銃手だけであっても戦闘群式編成(軽機+ボルトアクション式小銃装備)並の射撃が可能であるとも考えられる。
ボルトアクション式小銃のみを装備した小銃分隊でもできないことはないだろうが、相手が軽機を装備する戦闘群であった場合、例えば敵の軽機班+若干の小銃手がこちらの半分隊を射撃し、残余(こちらの半分隊と同兵数)の小銃手がこちらのもう一方の半分隊を射撃すれば、硬直状態になるならまだしも、撃ち負ける可能性も十分にある。
アメリカ以外の小銃分隊(ボルトアクション式小銃装備)が"Fire and Movement"を行うのは、なかなか骨が折れそうである。

米軍は他の列強とは異なる変遷をとっている。
1940年以前は戦闘群戦法式の編成(分隊にBAR×1、他は小銃を装備)を採っていたが、M1ライフルの登場によって(M1ライフルの火力で十分だと判断され)BARが分隊から分離、小銃のみ装備した小銃分隊(×3)とBAR×2を装備した自動小銃分隊からなる小隊編成を採った。(小隊規模の"Fire and Movement")
その後、有効的ではないことが判明。1942年から分隊にBAR(×1)が戻った。
ただし、軽機関銃装備の分隊と比べると火力が若干少なめだったため、分隊規模の"Fire and Movement"は、軽機関銃装備の分隊ほど上手くはできなかったようだ。

地物から地物への移動
これは案外重要な要素である。
散兵線戦闘の時代は、前進となればいくら敵弾が降っていようとも身を晒して歩くか走るかといったもので、散開隊形であれば、各兵の間隔は1〜2歩で横一列に並んでの前進となる。
中隊や小隊規模というように、運動を行う部隊の単位も結構大きいので、遮蔽物から遮蔽物へ少数の兵士がスルスルと移動していくような前進は、不可能ではないにしろ非常に難しい。

これがWW1を経て一変し、戦闘時の前進は分隊以下、数群、各兵単位が常態となった。

戦闘群戦法における分隊の移動は、
・分隊の兵全員での前進(同時前進)
・いくつかの群や班に区分しての前進(区分前進)
・兵が1人ずつ前進(各個前進)
の3種類がある。
射撃時や停止時は地形地物に拠って敵眼から遮蔽しつつ、前進の際にはなるべく敵からの捕捉や射撃を避けるため、上記の「区分前進」か「各個前進」で別の地形地物に移る。というのが基本的となっている。
特に戦闘群戦法では、軽機関銃を装備した散兵群と小銃装備の散兵群に別れて戦闘するのが普通なので、戦闘群編成を採った時点で区分前進は言ってみれば「デフォルト」の前進方法となる。

副分隊長
分隊を分割して効果的に運用するには、分隊長一人では負担が大きすぎる。となれば、副分隊長が設けられるのは当然の流れだろう。WW1の早い段階、場合によってはその前から似たようなものが存在していたかもしれない。

新歩兵操典草案ノ研究 第二巻(p.44)

『二、五番以下は分隊長と相当離隔することあるを以て状況に依りては之れ戦闘群戦法に於て副分隊長を設くるや否やに関して大に議論の別るる所にして諸列強に在りても之を設くるものあり、設けざるものあり、其利害は相交錯す
仏軍の如きは上等兵の副分隊長を設くるものにして接敵間分隊の正面及縦長は「百米を越ゆべからず」と規定し攻撃に方りては分隊は半分隊にて攻撃する場合多きものの如く(半分隊は軽機関銃のみが戦闘する場合に用う)突撃に方りては軽機関銃の援助下に前進す、即ち小銃部隊と軽機関銃部隊とが各個の戦闘を行う場合多き戦闘法則に於ては副分隊長を設くるを有利とすべく兵の素質不良なる場合に於ては益々其必要を感ずるものなり』

とはいえ、1940年頃までに、少なくとも主要な列強国では分隊に副分隊長が設けられていたようである。
この時期、戦闘群編成を採っていなかったアメリカ軍の小銃分隊(小銃のみ装備)でも、

"■ 2. RIFLE SQUAD (pars. 216 to 235, incl.).
ーa. Composition.ー
The squad at full strength consists of 1 sergeant (squad leader), 1 corporal (second-in-command), and 10 privates and privates, first class." (FM 7-5,p.313)

といった具合に、副分隊長(次級指揮官)が分隊内に設けられている。

旧軍では元来、「分隊は分隊長を核心として挙止恰も一体の如く戦闘を行う」といった主義から、分隊を分割することになる副分隊長を設けることに乗り気ではなかったが、現実的にはこれが必要であると認め、分隊長が分隊内の兵から「指揮者」を任命するという形態を採っていた。
指揮者」は、分隊の5番以下(後方散兵群:小銃兵)を誘導することが任務。
操典は「白兵貯存の主義」から、小銃兵はなるべく射撃せず敵から隠蔽して前進、場合によって小銃兵も射撃を行い、分隊の兵(軽機含め)全員で突撃。ということを要求している。
後方散兵群の射撃は控えめ、分隊長とはなるべく連絡を取るよう努める、射撃の指示は基本的に分隊長、「指揮者」の任務は後方散兵群の「誘導」、つまり、分隊長に示された目標に向かってなるべく速く、なるべく隠蔽して前進することが主である。
場合によっては「独断」を行うかもしれないが、分隊長と離隔することがそうそうないだろうことを考えると、「指揮者」の権限は案外小さいものであると思われる。

下級指揮官の権限の増大
前進する際に砲火の被害を軽減するため、中隊の各小隊が距離間隔を広く採り、小隊の各分隊が散開することを旧軍では「疎開」と言った。
疎開戦闘方式」という名称もここから来たわけだが、WW1以降は、「大疎開戦闘方式時代(新歩兵操典草案の研究 第一巻)と呼ぶような、更に部隊が疎開をするという形態になったと旧軍は認識している。

大疎開戦闘方式時代」とはつまり戦闘群戦闘のこと。

個人的には、「戦闘群編制」に主眼を置いた名称の「戦闘群戦法」よりも、「疎開戦闘方式」が更に発展したことを明示している「大疎開戦闘方式」あるいは「大疎開戦闘」という呼称の方がわかりやすくて良いと思うのだが、一般的にはならなかったようで残念である。

初級戦術講座(稲村豊二郎,1931年,p.2)

「次に疎開戦法の採用は歩兵科准士官、下士の戦術能力を大に向上せねばならぬ直接の大原因であると共に、歩兵に密接なる協力をせねばならぬ他兵科准士官、下士諸君も亦之を知らねばならぬ必要な事項である。欧州大戦中から各種の重、軽機関銃や火砲やが異状の発達をして来たので遂に歩兵は従来の散開戦法を捨てて、現時の疎開戦法を採用せねばならない様になった、其結果部隊は広正面に分散して戦闘する様になり指揮が甚だ困難になった、之が為に現時の中隊長は昔の大隊長、小隊長は中隊長、分隊長は小隊長のやったことをやらなければならなくなり軍隊指揮の方法が変って来た、否其よりも尚一層六ヶ敷くなって来た。のみならず広く分散して戦うのと戦闘の性質が複雑になって来たので適時に上級指揮官の命令を受けることが昔よりも困難になり、各級指揮官の独断動作せねばならぬ場合が増加したのである。...」

散兵線戦闘の頃は装備も小銃のみで、戦闘時の隊形も大まかに分ければ中隊の兵が横一線に広がる散開隊形、移動や対騎兵戦闘等(場合により突撃)に使われる密集隊形くらいである。散開隊形にしても、兵の間隔は1〜3歩程度、移動は中隊規模。射撃は小隊規模だが射撃の号令は中隊長。小隊長は中隊長の補佐役であり、分隊長は小隊長の補佐役程度でしかない。
小隊長や分隊長の仕事は中隊長の号令の復唱が主で、独断も小隊長まで。
戦闘正面幅は明治42年歩兵操典以前は、第一線の中隊で100〜150m(場合により増減)。(戦術綱要第二部及び第四部)
明治42年歩兵操典では中隊の戦闘正面は概ね150mが標準となっている。(第179)

これが疎開戦闘方式では、分隊は軽機関銃と小銃の2つになり、隊形も密集隊形と散開隊形の間に疎開隊形が出現し、兵の間隔は4歩と広くなった。

部隊の運動と射撃は、

第二百五十八 火戦の運動及射撃は小隊長之を統轄し各分隊の前進、停止及射撃は分隊長をして直接指揮せしむるものとす』(昭和3歩操)

となり、「いつ撃ち始めるか」といった指示や、小隊長が分隊の前進・停止の号令を行う等、まだ小隊長の権限は多いものの分隊へある程度の権限が降りてきている。また、独断は分隊長まで出来るようになっている。(主として突撃・陣内戦)
前操典で150mだった中隊の戦闘正面幅は、50m増えて概ね200mが標準となっている。(昭和3歩操第723)

小隊の戦闘正面についても目を向けてみよう。

第二百五十六 火戦の構成に方り軽機関銃分隊相互の間隔並隣接小隊の軽機関銃分隊との間隔は多くの場合五十米を標準とす...(中略)此等間隔内に小銃分隊を軽機関銃分隊との混淆(こんこう) を避けて散開せしめ...』

小隊は『通常火戦と援隊とに区分』(昭和3歩操第253)し、火戦の分隊は横一線に並べる。
基本的に小隊は小銃分隊4、軽機関銃分隊2という編制で扱われていることが多いので、この編制を使う。
例えば、小銃分隊2個と軽機関銃分隊2個を火戦とし、残りの小銃分隊2個を援隊とした場合、2つの軽機関銃分隊の間に1つの小銃分隊を挟み、どちらか一方の軽機関銃分隊の隣に1つの小銃分隊が並ぶ。(援隊は火戦の後ろ)

軽機関銃分隊と軽機関銃分隊の間隔が50mなので、小銃分隊2個と軽機関銃分隊2個を火戦として並べれば、100mを超えるか超えないかくらいの戦闘正面幅を持つことになる。
この小隊が2つ並ぶと約200mの戦闘正面を持つことになる。(昭和3年歩兵操典の第723に示されている中隊の戦闘正面幅)

戦闘群戦闘ではどうなったか。
疎開戦闘方式の時の軽機関銃分隊と小銃分隊が1つの分隊の中に組み込まれ、分隊が軽機班と小銃班で別個に動けるようになり、兵の間隔も6歩となった。
また、運動と射撃は小隊長が統轄することには変わりがない。ただし、疎開戦闘の頃は小隊長が分隊の前進や停止を命じることができたが、昭和15年歩兵操典ではそういった記述は無く、完全に分隊長の権限となっており、小隊長が分隊に攻撃目標を与えれば、各々独自に判断して前進し、指示された射撃開始時期となれば射撃を行う。(とは言っても、完全に好き勝手できるわけでは無いので、小隊長が命令すれば前進も射撃も止めるだろう)

その一方で、昭和12年歩兵操典草案から戦闘正面幅の規定に関する記述は無くなっている。
戦闘群戦闘は分隊を横一線に並べるといった単純なものではなく、分隊が地形や状況に応じて適宜兵の距離間隔等を変えたり、分裂したりするような「不定形」の部隊となって定義し辛くなったのだと思われる。
(戦闘正面について書いている書籍は存在するかもしれないが、少なくとも昭和12年歩兵操典草案以降、典範令には記述されていない)
そもそも戦闘正面というのは、状況に応じて広くしたり狭くしたりするものなので、今までの数値も「標準」。単なる目安なので、厳密に「何mだ」と定義する事自体あまり適当ではないのだが...。

とはいえ、フランス軍の戦闘群が『接敵間分隊の正面及縦長は「百米を越ゆべからず」』となっており、米軍のFM 7-5では、分隊の戦闘正面幅(Frontage)は50〜75、小隊は100〜200、中隊は200〜500ヤードと示されている。
また、『狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案』では「攻撃の為分隊は方向を与えられ戦闘隊形の正面幅は二十乃至三十米とす」とある。

旧軍の小隊は疎開の際、各分隊の間隔を50m空けて疎開する。
菱形配置であれば小隊の幅は100m程度。戦闘に入る場合、この状態から各分隊が散開に移る。

旧軍の傘形散開時の前方散兵群(軽機部隊)は、1〜4番の兵が約6歩の間隔で散開する。
一歩の距離は「速歩の一歩は踵より踵迄七十五糎を」(昭和15歩操第20)とあるので、一歩の距離を70cmと考えると、6歩は約4m。
1〜4番の兵が散開した際には、6歩の間隔が3つできるので前方散兵群の幅は12m。各兵が占める幅を1mとすれば16m。

後方散兵群(小銃部隊)は基本的に前方散兵群の後方50m地点に位置しており、あまり横には広がらないので、分隊の戦闘正面幅は前方散兵群が占める「約20m」と考える事ができる。ただし、後方散兵群が前方散兵群より前に進出する場合、おそらく前方散兵群の脇を通らざるを得ない事、また、隣の分隊の運動や重火器の射撃を邪魔しない程度に各分隊がそれなりの戦闘正面幅を確保しなければならないことも考えれば、旧軍でも50m程度が分隊の戦闘正面幅であると考えて良いと思う。

仮に分隊の戦闘正面を50mとし、火戦に出す分隊を3個とすれば、小隊の戦闘正面は150m。
散兵線戦闘時代は中隊の戦闘正面が150m。それが戦闘群戦闘では小隊がその幅を使っている。
それまで中隊長が担当していた戦闘正面幅を小隊長が受け持っているのだから、これだけを考えても権限が下級指揮官に移っていくというのも理解できる。

これに加えて、各部隊は広く間隔をとって、1番小さい部隊である分隊でさえも半分に別れて行動している。
既に中隊長どころか小隊長でさえ完全に指揮下部隊の統制を執るのは難しい。

ここで、疎開戦闘の小隊を思い出して欲しい。疎開戦闘では小隊内に小銃部隊と軽機関銃部隊がいた。
戦闘群戦闘では、これが分隊内に移動したわけである。

現時の中隊長は昔の大隊長、小隊長は中隊長、分隊長は小隊長のやったことをやらなければならなくなり」という文章がなんとなく理解できると思う。(しかもこの文章は疎開戦闘方式の頃の書籍のものである。戦闘群戦法となってどうなったかは推して知るべし)

戦闘群戦闘を行うには、下級指揮官の能力というのが非常に要求される。
旧軍が散兵線戦闘から脱却する際、すぐに戦闘群戦法を導入できなかった理由の一つでもある。
下士官の能力が不足していたため、下士官の能力が戦闘群戦法を行える程度になるまでの「つなぎ」・「教育用」として疎開戦闘方式を採用したわけだ。(軽重機関銃や砲兵不足等々の理由も大きいが)

独断
【独断】
命令を待つことの出来ないような場合に、自己の任務と一般の状況に鑑み、之に適応するように、自分一己の考えにて決断すること。(典範令用語ノ解)

下級指揮官の権限が増大したといってもその権限には当然限度がある。しかし、状況によってはその権限以上のことを行わなければならない状況が発生する。
その際に上級の指揮官と連絡がとれない、事が急を要するといった場合に、現場の判断としてこれを行うと決断することを「独断」という。
この「独断」を実際に行動に移すことを「独断専行」という。


散兵線戦闘時代は中隊(小隊)辺りまでが「独断」を行えたようだが、戦闘群戦闘では分隊、場合によっては兵個人単位でも「独断」を行うことが奨励されていたりする。
下級指揮官の権限の増大の一環として、旧軍の書籍では大いに推奨されているのが目につくと思う。
WW1を経て、戦闘群戦闘の時代となって重要な地位を占めるようになり、列強でも下級指揮官の独断は推奨されていたようで、旧軍もそれに習って推奨しているようだ。
歩兵操典を見る限りでは、戦闘全般において「独断」を行えるような記述がなされているが、分隊規模では突撃〜陣内戦が「独断」活用の主舞台のようである。

また、この「独断」とは若干違う(?)「独断」もある。

戦闘綱要 全(pp.46-47)
第二 訓令
訓令は受命者遠隔して時々所要の命令を与うる能わざる時、或は一定の任務を与え長く独立動作を為さしむる時に用ゆる者にして、必竟命令の範囲広き者に過ぎず、故に全く受令者に委任し、之れに十分の自由を与るを要す
任務を確示し其施行の方法に至っては、指揮官の干渉せざる所なりと雖受令者の任務施行に関する教示を与うるは妨げなし、其教示に対し受令者は適宜に之を取捨し得るものとす
◯訓令に記すべき要点
一、敵状並びに我軍の状況(命令に比し稍々精密に指示するものとし殊に受令者の参考となるべきことは必ず示すべし)
二、我目的(受令者時機に応じ独断の基礎となる者なれば充分に指揮官の現在に於ける目的を示すものとす)
三、受令者の任務
四、指揮官の要求する所の条件
五、指揮官の将来に於ける概略の意図並びに希望
六、報告を送るべき場所或は指揮官の所在地

この「訓令」は、命令自体に余裕を持たせて下級指揮官に対して「独断」の余地を与えるもので、後年の旧軍にもそれらしいものは見られる。

幹部候補生 実兵指揮の参考(佐々木一雄,1942,pp.67-72)
第一節 命令作為の要訣
各級の指揮官は、其の任務にしたがって状況を判断し或は下達せられたる命令によりて更に自己の決心をなし、そして其の決心を基礎として適時に適切なる命令を下さねばならぬのである。
命令作為の要訣
1 発令者の意思及受令者の任務を明確適切に示す。

2 受令者の性質と識量とに適応せしむ。

3 受令者の自ら処断し得る事項は妄りに之を拘束すべからず。

4 受令者に到達する迄の状況の変化に適応するものであるか、どうかを考察することが必要である。

5 命令に理由を記載すべからず。

6 又臆測に係ることを示すべからず。

7 種々未然の形勢を挙げて一々之に対する指示を与うべからず。

8 命令の受領より之が実行迄に状況の変化測り難きとき又は発令者が状況を予察すること能わず、受令者をして現況に応じ適宜に処置せしめんとするが如きときの命令にありては、全般の企図及受令者の達成すべき目的を明示するの外は細事に亙り其の行動を拘束せざるを要す。

9 前項の場合受令者の識量に応じ或は状況に依り行動の準拠となるべき大綱を示すを可とすることがある。
(省略)
3の説明
警戒にしても掩護にしても亦攻撃にしても其の手段方法の細部に亙りて之を示すことは其の人を拘束することとなり、却って自由に思い切った行動をなさしめることが出来ないようになるものである。
即ち◯◯より◯◯の線に於て本隊の展開を掩護し、敵状地形を偵察し、特に某点、某点、某点を捜索すべし。
展開の掩護をするからには、命令なくとも敵状及地形を偵察するのは当然のことである。それに更に地点を示して捜索せしむる如きは寧ろ拘束し過ぎるのである。
4の説明
一部隊が仮に五里前方に出されてあるとする。其の時に命令を持たせて、一時間半で到着するとしても、其の間の時間に状況が変化するかも知れぬと云う場合には、細かの命令を発しても効力がない、まして現地の地形は全く未知である場合に於ては、一層然りである。こうした場合には、大体の主目的たる大方針を示せば足るので、あとは全く其の指揮官に委すことにならねばならぬ。
(省略)
8の説明
支隊の如きものが遠く離れて側面を掩護して居ると云った場合で全く該方面の状況は発令者に不明である如き場合に於ては、詳細の命令を発することは出来ないから、我が軍の当時に於ける大目的、(例えば前面の敵を攻撃す)(現在に於て攻撃を準備明払暁を期し攻撃を開始す)の如きを示し、貴官は現在地にありて敵を拒止すべし。と云った主目的を示す如きである

(これは作戦要務令第1部、第10〜第12の解説のようだ)


前者の命令外の行動を行う「独断」と、後者の訓令における「独断」は厳密に見れば異なるものだと個人的には思うが、旧軍では特に区別はしていないように思える。
独断」という単語自体は「自分個人の考えで動く」というものなので、前者・後者どちらでも問題なく意味は通る。

歩兵操典や作戦要務令の独断に関する綱領を見てみると、

第五 凡そ兵戦の事たる独断を要するもの頗る多し而して独断は其の精神に於ては決して服従と相反するものにあらず常に上官の意図を明察し大局を判断して状況の変化に応じ自ら其の目的を達し得べき最良の方法を選び以て機宜を制せざるべからず」

この綱領の説明として、『軍隊精神教育の参考(斎藤市平,1941,p.112)を見てみると、

「独断とは自己に与へられた任務に就て、上官の意図に反ぜざる範囲内に於て活用し得る程度についていふのである。それ故に決して服従と違背するものでない。動もすれば自由、放縦などと誤解し。勝手気儘の行動を以て独断と心得るものがある。それ故に平素から上官の意図を詳知し、専恣に陥らぬやう注意すべきである。」

この説明の「上官の意図に反ぜざる範囲内」という文章は非常に悩ましい。

単純に見た場合、与えられた権限内で判断しろと言っているように見えるが、それを示すのであればむしろ「上官の命令に反せざる範囲内」と、ハッキリ書かれていたはずだ。
これを「上官の意図」という、見ようによっては若干ぼかしたとも取れるような言い回しをしているということは、おそらくそうではないのだと考えるべきだろう。

つまり歩兵操典等の綱領に述べられている「独断」は、主として命令外の行動をとる「独断」について述べているのだと考えられる。
だが、「権限内の独断」について述べているとしても何らおかしくは無い記述である。

この二者を明確に区分しているような様子が見えないのは、そもそも区分する必要が無いからなのか、意図的に区分していないのか。
訓令が使われるのは結構大きな部隊(中隊以上)であるような印象も受ける。


なんにせよ、旧軍では「独断」を推奨しているわけだが、実際に下士官等は「独断」を頻繁に行っていたのか?という疑問が浮かぶ。
これに関しては、一つ考慮しなければならないことがあって、歩兵操典は小隊長や中隊長が最前線近くにいることを要求しているため、基本的に小隊長は分隊と連絡を取れるような距離にいる場合が多い。
突撃や陣内戦以外の場面で、下士官や兵が命令外の行動をとる「独断」を行う機会は実際にはあまり無かったのではないかと思う。
(「どこをどう移動するか」といった「権限内の独断?」であれば、常に行われていただろう)


戦闘群戦法の構成要素は何か?ということを考えるに当たって参考となるであろう情報はこんな具合である。

次はWW1の流れを上記の情報も参考にして、戦闘群戦法の成立までの流れを整理してみる。(基本的に英仏軍が中心となる)

まず、WW1勃発時の各国の戦闘は「散兵線戦闘」である。
中隊規模で戦闘を行うもので、移動は密集隊形。戦闘が近くなれば散開隊形を採り、兵は横一列に数歩の間隔を取って広がる。
移動や射撃は小さくても小隊単位。地形地物の利用も限定的で、移動時は敵に身を晒す場合が多い。
WW1の最初期、散兵線戦闘式に攻撃を行った歩兵は機関銃の射撃によって粉砕され、砲兵の性能向上・増加も相まって戦闘は膠着。
長期戦、総力戦、塹壕戦へと移行。
攻撃時に受ける砲兵の射撃や機関銃の射撃の被害を軽減・避けるため、大きな部隊(〜小隊)では部隊の間隔を広く採って移動するようになる。(疎開)
分隊等でも各兵の間隔が以前よりも広くとられるようになり、いよいよ中隊単位での指揮が困難となり、小隊長や分隊長といった、より下級の指揮官の指揮権限が増加。
相応の能力も求められ、下級指揮官の「独断」も必要になってくる。
膠着状態打破のため、兵器の分野でも試行錯誤が行われ、各種新兵器が登場する。
手榴弾と擲弾銃は、それを専門あるいは併用で運用する分隊が編成される。(1915〜)
軽くて運用のしやすい機関銃、「軽機関銃」が登場し1916年頃から小隊内に軽機関銃分隊として編成され始める。
(この辺りが旧軍が言うところの「疎開戦闘」の始まり?)
時期や国によって異なるが、1916年末には小隊は小銃分隊・軽機関銃分隊・擲弾銃分隊・手榴弾投擲分隊の全部、あるいはいずれかの分隊で編成されるようになる。(旧軍の「疎開戦闘方式」がこの系列)
この辺りから小隊規模(分隊単位で運動・攻撃)での "Fire and Movement" が有効に行えるようになったのだと思われる。(小隊規模での戦闘はこれ以前の小銃分隊のみの頃でもおそらく行われていたと思う)
1917年9月にフランス軍で小銃・手榴弾・擲弾銃・軽機関銃を装備した半小隊が誕生。つまり、戦闘群戦法の誕生。
終戦間近の1918年10月、上記の半小隊が "Groupe de Combat" (戦闘群)として正式な編制となり、これ以降「戦闘群戦闘/戦法」の時代となる。
分隊規模(半分隊で運動・攻撃)での戦闘が可能となり、 "Fire and Movement" も分隊(分隊内)で出来るようになった。

ざっとこんな感じだろう。

結局、戦闘群戦法とはなんなのか。
目に付く要素を列挙してまとめてみる。

分隊規模で見ると、
分隊の近代的装備(戦闘群編制)
・一丁で1個小銃分隊以上の火力を発揚出来る軽機関銃
・攻防両用、近距離戦闘で非常に便利な手榴弾
・歩兵部隊の砲兵たる擲弾銃
(擲弾銃/擲弾筒は、小隊内に専門の分隊として編制される場合がある)

半分隊での戦闘
・軽機関銃部隊と小銃(小銃擲弾兵)部隊による "Fire and Movement"。
・兵員が少なく、運動も隠蔽もしやすい。基本的に敵から遮蔽しながら戦闘を行うことが常態に。
・副分隊長が設けられてより効率的に。

下士官の指揮権限・能力向上
部隊の強度の疎開・散開、小部隊戦闘の発展に伴い、各級部隊は自身の大きさに比べて非常に広い戦闘正面を受け持つこととなり、上級の指揮官の命令や指揮を受けることが困難になったため、より下級の指揮官に上級の指揮官が持っていた権限を委譲することになった。
これにより、現場の判断(独断)が重要となった。
また、分隊が複数の兵器を装備しているため、疎開戦闘時代の小隊長のような指揮を行わなければならなくなった。

隠蔽・遮蔽
掩蔽物から掩蔽物へ少人数で駆け抜ける。敵に捕捉されないように出来る限り遮蔽状態を保つために地形地物の利用は不可欠。
戦闘は掩蔽物から掩蔽物への運動、射撃、再び掩蔽物へ。というのが定型。また、移動の際に匍匐前進が頻繁に使われるようになった。。

分隊以上の規模で見ると、
疎開
中隊・小隊は戦闘前(敵砲撃圏内)の段階で部隊間の間隔を広く採って移動し、戦闘開始前後で分隊が散開する。
散兵線戦闘時代は密集(中隊)→散開(中隊→小隊→分隊)。
疎開戦闘以降は密集(中隊)→疎開(中隊→小隊)→散開(分隊)。

下級指揮官への権限の移動
小部隊が広く戦場に散って戦闘を行うため、ある程度の権限が下級の指揮官に移動した。
小隊長は指揮下の分隊に対して細かく逐一指示を出すようなことはなくなり、小隊の戦闘を統轄的に指揮する。小隊戦闘の調整役と言ったところか?

一応これが、個人的に考えて抽出した戦闘群戦法の構成要素である。
特に重要そうなものは太字に下線、他は下線のみ。
旧軍の歩兵操典研究本を読む限り、このようなものから成り立っているように思う。(各書籍でもこのような感じに分かれて説明されているので)
あまり細かく分解しても面倒なので、結構粗めに区分したが。

分隊に軽機関銃を持たせただけで軍の戦法が戦闘群戦法となるのかといえば、おそらくそうではないだろう。
これに限らず、戦術関連は一つの要素を取ってみても、様々な他の要素が絡み付いて一緒についてくるので、解説するとなるとこの投稿のようにとてつもなく長くなる。ここまで読み進める猛者はどれ位いるのだろうか?


本投稿は各種書籍の記述を切り取ってスクラップ帳に乱雑に貼っているようなもので、いわば個人的なメモ書きである。
基本的に旧軍の資料が中心なので、普遍的な概念を抽出するというよりは、旧軍ではこういう認識だった。といった感じになってしまったが、それはしょうがないので、ご理解を頂きたい。

気を使ってはいるが、間違い等は多々あると思うので、是非各自でも調べてみて欲しい。


参考文献

・相澤富蔵『兵卒教程』厚生堂,1897
・軍事鴻究学会『戦術綱要 全』軍事鴻究学会,1902
・『歩兵操典』 川流堂,1909
・陸軍歩兵学校将校集会所『歩兵操典草案 中隊教練ノ参考 全』岩田文修堂,1927
・『歩兵操典』 兵用図書株式会社,1928
・稲村豊二郎『初級戦術講座』琢磨社,1931
・在波蘭陸軍武官室訳『波蘭軍歩兵操典』偕行社,1936
・『歩兵操典草案』武揚堂書店,1937
・軍事学研究会編纂『歩兵必携』武揚社書店,1937
・戦術研究会編『新歩兵操典草案ノ研究』(第1巻第2巻第3巻)兵書出版社,1937
・軍事研究会編纂『初級幹部 戦術学教程(基本戦術)』川崎満韓堂,1937
・『昭和十二年改訂 学生用 射撃学教程 全』1938
・成武堂編纂部『歩兵中隊新戦闘法の研究』成武堂,1938
・陸軍歩兵学校訳『一九三二年新編制ニ基ク 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案』教育総監部,1939
・『歩兵操典』 小林又七,1940
・關太常編纂『歩兵全書』川流堂,1940
・安西理三郎編纂『改訂 最新歩兵戦闘法表解』軍事学指針社,1940
・帝国在郷軍人会本部『千九百三十八年制定ソ軍歩兵戦闘教令 第1巻』軍人会館図書部,1941
・佐々木一雄『幹部候補生 実兵指揮の参考』軍用図書出版社,1942
・陸軍歩兵学校『歩兵教練ノ参考(教練ノ計画実施上ノ注意 中隊教練 分隊)第二巻』軍人会館図書部,1942
・同上『歩兵教練ノ参考(中隊教練 小隊)第三巻』軍人会館図書部,1942
・『歩兵操典詳説 : 初級幹部研究用』 (第1巻第2巻第3巻)干城堂,1942-1944
・FM 7-5, Infantry Field Manual, organization and tactics of infantry; the rifle battalion, War Department, 1940