2015年8月12日水曜日

日本軍の市街戦要領

日本軍と言えば広漠とした中国大陸•モンゴル、鬱蒼とした木々に囲まれたシベリア近辺、ジャングル地帯のビルマ•南洋諸島、または、特異な地形として中支、つまり上海近辺の有名な水濠(クリーク)地帯…

このような地形での戦闘ばかりで市街戦の印象が薄い。
勿論、全く無かった訳ではないので、戦闘綱要や作戦要務令には市街戦についての記述がある。
戦闘綱要』及び『作戦要務令 第二部』の第八篇 特殊ノ地形ニ於ケル戦闘第三章 森林及住民地ノ戦闘がその箇所であるが、文量が非常に多くなるのでここでは扱わない。

今回紹介するのは、昭和7年4月の偕行社記事第691号附録に掲載された『済南事変に於ける市街戦より得たる教訓』である。量的には多くないが、一資料としては非常に参考になるものだと思う。


第一 要旨

一、市街地の戦闘に於て各部隊は指揮官の手裏を脱し易し故に指揮官は部下を掌握するに努むると共に各部隊は指揮官の掌握下に入ることを努め仮令指揮官の手裏を脱することあるも独断専行以て任務を積極的に遂行すべし

二、電話は屡々故障を生ず故に煙火、単旗、鳩等の副通信を必要とす

三、市街地に於て敵と衝突したる時は路上に兵力を使用することなく速に附近の適当なる家屋又は圍壁を求め且成るべく屋上の高所を占領するを可とす

四、市街地の戦闘に於ては各家屋の窓硝子は之を開放し置くか除去するを適当とす是砲弾の為破壊せらるる時は大なる音響と共に飛散し志気に影響を及すを以てなり
市街地に於ては敵弾は反跳して一定の方向より来るものにあらず故に陣地の設備に際しては之を顧慮するを要す

五、市街戦に於ては一分隊以上の部隊には十字鍬其他破壊器具を携帯せしめ尚梯子、縄、鎌等の準備必要なり
何となれば交通連絡の為或は損害を避けて前進し又は敵の側背に迫る等の為圍壁、家屋を破壊するを要する場合多ければなり

六、市街戦に於ては個人の服装を左の如く改装せしむるを要す
軍帽は鉄兜とし軍靴は厚底足袋若は支那靴とし背嚢を除く

(省略)

第三 市街内の攻撃

一、市街の内部に拠る敵を攻撃するには軍隊を攻撃隊と掃蕩隊とに区分するを可とす
攻撃隊には成し得れば一部の砲兵を配属し独立の性能を附与するを要す

二、家屋に防御工事を施せる敵を攻撃するには防者の拠れる家屋に近接する高所を利用し火砲、迫撃砲、機関銃等を布置し攻撃歩兵の前進を援助するを可とす

三、道路上を前進するには道路の両側を躍進す此際沿道家屋より狙撃を受けざることに注意し若し不意に高層家屋より射撃せらるる時は沈着して其窓牖に向ひ軽機関銃を以て反撃するを可とす此際は伏臥するは却て不利にして家屋の脚に拠るを可とす

四、敵の占拠せる家屋内に侵入せんとする時は先づ道路両側に所要の兵を配置し其射線を交叉し反対側を射撃及手榴弾を投擲し得る如く準備せしめ且家屋の周圍には敵の逃走を防ぐ為所要の監視兵を附したる後実行するを要す

五、家屋内の各室に侵入せんとする時は直に開扉突入することなく開扉と同時に身を外側に隠蔽し応急の準備を完了したる後突入するを可とす蓋し窮鼠猫を咬むの被害を除くと共に敵の抵抗を断念せしむるの利あり

六、市街地内の攻撃に於ては家屋の脚に接して行動する時は比較的損害を避くることを得るものとす而して道路上の並木、電柱等を利用することは却て敵に好目標を与へ敵弾の集中を受くるものとす

第四 市街内の防御

一、市街地の防禦に於て防禦の主線を市街地の城壁に撰定するや或は城外に撰定し市街地を複廓として利用すべきやは一に情況に依る

二、防禦の主線を城壁上に撰定し陣地を構成する為には成し得れば隅角部又は城門附近に於て外方に複廓陣地を撰定し壁下の側防に任ぜしむるを可とす

三、壁上に於ては突出部を利用し側防の手段を講ずると共に拠点を編成し以て一連配備の害を除去すべし

四、市街地に在りて砲兵は射界を大ならしむる為特に高所に配置するを可とす若し山砲を有する時は之を分割して壁上拠点又は城外の側防陣地内に配置するを有利とすることあり

五、市街地に於ける防禦戦闘の為道路上中央に閉鎖堡様の工事を施すが如きは敵の好目標となり且屋根上より瞰射せられ不利なり寧ろ道路両側に接し家屋、圍壁等を利用して工事をなすを可とす


操典には市街戦に関しての規定はない。
一方、戦闘綱要と作戦要務令には市街戦に関する記述があるが、これらは大部隊の運用を中心に記述したマニュアルであるため、分隊や小隊規模の戦闘に関しては希薄である。
小部隊に主眼を置いたものは典範令以外の書籍資料に掲載されていることが多い。

2015年8月11日火曜日

戦傷者統計と白兵戦

歩兵操典の綱領にこの様な文がある。

第十一 …歩兵ノ本領ハ地形及時期ノ如何ヲ問ハズ戦闘ヲ実行シ突撃ヲ以テ敵ヲ殲滅スルニ在リ…

突撃を重要視しているともとれるし、そもそも「突撃」自体が戦闘の一つの最終局面だからそれをここで明らかにしている。とも考えられる。 

『歩兵は縦ひ他兵種の協同を欠くとも射撃を以て敵を制圧し、最後に於て銃剣を以て再三再四突撃を敢行して敵を殲滅するの意気がなくてはならぬ。是れ即ち歩兵の本領である。』(齋藤市平 著,1941,『軍隊精神教育の参考』,p.114)

「意気がなくてはならぬ」というのは、操典の記述よりも若干緩められた表現ではあるが、旧軍が突撃をある種特別視していたというのは良く聞く話だろう。

それでは、その突撃は実際にどれくらい行われていたのだろうか?
軍隊がどれくらい突撃を行ったのか?ということを調査した話は聞かないし、調査は事実上不可能だろう。
そこでひとまず、資料は少ないが参考になるであろう戦傷者についての統計を見ていこう

まず、戦争における軍人の被害に関する有名な話として、第一次世界大戦から戦傷者の大多数が砲撃等による砲創である。というものがある。
軍陣外科学教程(陸軍軍医団,1940)によると、第一次世界大戦の戦傷の割合は、

英陸軍医務局長Goodwinの調査では、銃創25%、砲創75%
仏陸軍軍医総監Mrgnonの調査では、銃創21%、砲創79%

とある。これは恐らく銃創と砲創だけを取り上げて比較したものだと思われる。見ての通り、砲撃による創傷は8割近くを占めている。
同書には上記の統計と並んで、日本軍側の各戦争時の戦傷を種類で区分し、その割合を示した統計もある。
それによれば、

日清戦争は、銃創88%、砲創9%、白兵創3%
北清事変は、銃創91%、砲創8%、白兵創1%
日露戦争は、銃創80%、砲創17%、白兵創1%、爆創(2%)、介達弾創2%
日独戦争は、銃創37%、砲創51%、爆創6%、介達弾創6%

となっている。
※「介達弾創」とは、弾丸が当たったり、榴弾の爆発などによって飛散する物体(石や木片などなんでも)による傷。

また、日露戦争の野戦と要塞戦を分けた統計を見てみると、

野戦銃創84.4%、砲創14.2%、白兵創1%、爆創0.4%
要塞戦銃創67.7%、砲創23.5%、白兵創0.8%、爆創8%

国と時期によっては装備の状態などが大きく異なるので一概には言えないが、少なくとも日本軍では、年を経るごとに砲創による戦傷者が増えていることが分かる。(北清事変を除いて)

戦時衛生勤務研究録(陸軍軍医団,1927) にも、上と似たような統計が記載されている。

日露戦
日本軍(%)
銃創80%、砲創17%、その他3%

露軍(%)
銃砲創98.35%{銃丸75%、弾片14%、弾子11%}、その他1.65%{白兵創:斬創21%、刺創79%}

日独戦
日本軍(%)
銃創37%、砲創57%、その他6%

欧州大戦(第一次世界大戦)
仏軍
銃創23%、砲創75%、その他6%  (1914年)
銃創11%、砲創56%、その他33% (1917年)
銃創15%、砲創54%、その他31% (1918年)

英軍
銃創20%、砲創75%、その他5%  (Goodwin)

米軍
小銃13.31%、榴弾12.48%、榴霰弾23.68%、瓦斯49.85%、手榴弾0.68%

ハンガリー軍
小銃70-75%、榴弾8-10%、榴霰弾20-22% (セルビア戦場)
小銃22%、榴弾50%、榴霰弾28% (イタリア戦場)

日露戦争に関しては、"Weapons and Tactics" (初版は1943年)という書籍にこのような記述がある。

In the Russo-Japanese War of 1904 about two and a half per cent of the total casualties on both sides were caused by spears, swords and bayonets.
(Tom Wintringham, J.N. Blashford-snell, Weapons and Tactics, pp.146-147. 1973)

"1904年の日露戦争では、双方の総死傷者の約2.5%が槍、剣、銃槍によって引き起こされた"

昭和十七年印刷 戦例集 全』には「世界大戦ニ於ケル戦傷兵」という戦傷者の割合等を表にしたものがある。
(第一次世界大戦の戦傷者統計(右)はフランス軍のもの)


これらを見ると、第一次世界大戦から「砲」が戦闘の中心となり、猛威を振るうようになったことが見てとれる。
※第一次世界大戦の統計で「その他」が2割3割を占めている。内訳が示されていないので判然としないが、少なくとも、この「その他」の内訳で高い割合を占めているのは、時期等から推察するに、おそらく毒ガスだろうと思われる。

第一次世界大戦の初期から中期、つまり陣地戦主体の期間は7割以上が砲創。
ドイツの1918年春季攻勢以降の運動戦主体の期間は砲創の割合が減るが、それでも銃創より優位である。
前後の戦争を見比べても、第一次世界大戦で大きく状況が変わったのは確かだろう。

いくつかの統計の数値を挙げ、まとめのような文章を書いたが、そもそも本投稿は白兵戦についての投稿なので今度は白兵創に注目して各統計を見て欲しい。
白兵創は軒並み一桁、多くても3%を超えていないことが分かる。
読んだ人も多いであろうデーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』でも取り上げられていたが、白兵戦による死傷者は一般に思われているよりも少ないということになる。
こうなってくるといよいよ問題になるのが日本軍である。
上掲の統計のほとんどは紛れも無い、日本軍で使っている資料から引っ張ってきたものである。『戦時衛生勤務研究録』と『軍陣外科学教程』は、軍医の為の書籍であるが、『昭和十七年印刷 戦例集 全』は士官候補生辺りの参考書である。
つまり、少なくとも尉官程度なら近代の戦争では、突撃どころか白兵戦による戦果が非常に少ないことを知っている可能性はとても高いわけだ。佐官、将官ともなれば尚更だろう。
それではなぜ、日本軍は白兵戦(突撃)を重要視したのだろうか?
ひとまず二つの話を紹介しよう。

『最後に百米以内に接敵せば、敵の動揺を認めて突入するのであるが、突撃の号令を掛けたる後は全くの聾盲で、敵陣地の後端迄無我夢中に部下と競走するのみである。そして尖筆山の戦闘では陣地の後端に出る刹那、逃げ後れたる敵の一人を大袈裟に切り落して初めて夢覚め、眼前算を乱して敗走中の敵に対し、『止れ、急ぎ打かかれ』と号令し、確に其三四十を倒した筈だが、現場実査の結果は、僅に数個の屍を認めたに過ぎぬ。蓋し敵は我が追撃を緩めんため、若者に詐りの死を装ふたのであった。』
(陸軍少将 山田軍太郎、北清事変)

『…午後七時頃になると、第四師団方面から一人の下士か兵卒かが、銃の先に日章旗を掲げ、づんづん敵線を乗り切て進む者がある。第一線の我々之れを望見するや、将校も兵卒も期せずして起て突撃を起し、隣師団の者に名を成さしてなるものかと猛然として進んだのである。所が直前の敵は、我れが近づくや、散兵壕より出て諸所にばらばらと退却を始めた。其数は一中隊正面に僅か五六名位のものであろう。中隊は之れを目撃し、益々勇気百倍して、遂に第一の散兵壕に突入したのである。
見ると此の線を守備して居た敵は、目の前に逃げた数名丈であって、余の者は皆散兵壕の中に枕を並べて死で居るのである。中隊は尚も進んで第二第三の散兵壕を占領したが、何れも敵兵の死屍を以て埋められている。斯くて山上を占領し、部隊を集結して、同夜は敵陣地内に露営した。』
(TH生、日露戦争)

この二つの話は、偕行社発行の『初陣の戦場心理』に集録された話の一部である。
どちらもおそらく指揮官の立場だが、前者は、突撃について「部下と競走」と言っている。一人は斬り殺したようだが、最終的には数人が死んでいる程度だったという話。
※しかもこの倒した敵兵の死因が射撃なのか白兵なのかははっきりとは分からない。

後者は、突撃してみたら既にほとんどの敵が(おそらく突撃の前の射撃で)死んでいたという話だ。
この二つの話は『初陣の戦場心理』に集録されている話の中では特に白兵戦が不調だった話である。むしろ、他の話では普通に「敵を刺殺」といった話は出てくる。
例えば同書の「南嶺戦闘の回顧(陸軍歩兵中尉 佐々木榮三郎,満州事変)では、
『…時に正午を過ぐる数分、再び斬る、刺す、撃つの三巴の白兵戦が、演ぜられた。「アイヤア アイヤア」と叫ぶ悲鳴、屍山、血河、実に惨たる修羅場となる。…かく格闘の後、午後二時頃には全く占領した。…敵の遺棄した死体約二百、傷者を数ふべくもなかったが、少くとも三、四百を下らなかった事だらう…。』

初年兵の突撃戦(陸軍歩兵少佐 佐々木慶雄,満州事変)では、
『…(10) 第一小隊の一分隊は(イ)土壁を底部より突入し、将に逃げんとせし敵兵六名を刺殺す。第一小隊長猪瀬少尉亦土壁北側に於て敗残兵二名を斬る。
…1. 両小隊は直に部落北側に進出し、逃げ後れたるものを刺殺し、…』
この書籍に限らず、軍が発行した書籍には突撃や白兵戦に関する事柄が掲載されていることが多い。
軍としては突撃、白兵戦を重要視している訳だから、当然積極的に取り上げるだろう。
針小棒大に書き立てているとか、実際には殆ど白兵戦は起こっていないにもかかわらず、報告や戦闘詳報では激烈な白兵戦を演じた。ということになっている可能性もあり得る。
数少ない事例でも拾い集めれば頻繁に発生していたように見えるというわけだ。
とはいえ、仮に白兵創の割合が1%だとすると100人に1人は白兵創ということになるので、考えようによっては案外多いような気がしないでもない。

他方、支那事変では敵の死傷の原因の6割が白兵傷という話もある。
「現に今次の支那事変では、敵の死傷原因の六割が白兵創であることでもその必要が判ります。」 (青木保 著,兵器読本,1937,p.15)
さすがにこれはあり得ないとは思うが、特に否定できる資料を持ち合わせていないのでなんとも言えない所ではあるが、6割とまでは行かないまでも、日中戦争においては白兵戦が多かった可能性はある。(数%程度?)

白兵戦までの道のり
ここで白兵戦が起こり得る状況というものを考えてみよう。
当然のことだが白兵戦を行うには、格闘ができる距離まで近づく必要がある。
その距離に到達するまでは射撃が行われるはずなのでから、上の「TH生」の話のように突撃前の火力戦で敵をほとんど殺してしまうといったことも起こるわけだ。

また、このようなこともあるだろう。

『わが分隊は既に数個の榴弾を撃ち込み、小隊に追随して進む。約一時間後、我々は汗にまみれ、銃剣を構え村落に突入した。敵は姿を消し、鎮まりかえった無人村落がそこに横たわるだけであった。』
(朝香進一 著,1982,『初年兵日記』,p.172)

著者の朝香氏は擲弾筒分隊なので、先陣を切って突撃を行うわけではないが、突入したら敵が退却していて、もぬけの殻だったというパターンである。
日本軍に限らず、どこの国でも火戦(射撃)→白兵戦というのがマニュアル的な流れとなっている。

歩兵同士の戦闘が始まる前に砲兵や迫撃砲などの砲撃や航空機による攻撃が行われて守備側の兵力が減り、その後の歩兵の射撃によって守備側の兵力はさらに減る。
この段階で守備側が戦意を喪失したり、現状の戦力で攻撃側を撃退できる公算が小さいと判断すれば撤退、後退することになる。(独ソや日本のように死守命令があったり、島嶼戦でそもそも撤退できないといった場合を除き)

仮に守備側が攻撃側を撃退できないほど兵力が減った状態で白兵戦が行われたとしても、双方(特に守備側)兵力が減った状態で行われるから、おのずと白兵創の数は少なくなる。

また、それとは逆に守備側に攻撃側の前進を止めることが出来る程度に充分な兵力や強力な火器等が残っていた場合は、特に攻撃側が無理矢理白兵戦へと持っていけるくらい強大な戦力を持っていない限り、攻撃側は白兵戦に移行出来ず戦闘は火戦のまま硬直してしまう。

デーヴ・グロスマンが取り上げたような心理的な原因による白兵戦の忌避を一切排除して、白兵戦が少ない理由というものを考えた場合、下記のような要素が考えられる。

⒈白兵戦は戦闘の最後に行われるため、火戦で終わるか止まるかした場合は白兵戦自体が発生しない。
また、攻撃側と守備側の戦力や装備の質等に差があるとそれだけ白兵戦の可能性が減る。

⒉基本的に火戦を経てから白兵戦が行われる関係上、火力戦の際に兵力が減るため、そもそも「白兵創を受けるかもしれない兵」の数自体が少ない。
特に攻撃側の火力が大きければ大きいほど守備側の兵力が減りやすくなり、白兵戦の可能性と白兵戦が行われた際に「白兵創を受けるかもしれない兵」の数が減る。

⒊守備側が必ずしも白兵戦を行うとは限らず、むしろ状況が許せば後退を選ぶ可能性がある。白兵戦に自信があれば白兵戦を選択するかもしれないが...

Wikipediaなら「独自研究」タグのオンパレードになるような個人の妄想に過ぎないので、上の話は間違い等、多々あるだろうが、少なくとも統計上の白兵創の少なさから見ても、近代の戦争においては白兵戦自体の発生が少ないというのは容易に推察できる。


一方的な白兵戦
そもそも白兵戦自体が少ないことは何となく分かったので、今度は「白兵戦が起こり得る状況」を考えてみる。

前掲の『初陣の戦場心理』の話の内、2つは逃げた・逃げ遅れた敵を白兵でもって殺している。
仮に敵が突撃前に逃げたとしても、追い付くか、あるいは逃げ遅れた敵は白兵で殺傷できるということになる。
ただし、この場合は逃げる敵に追いつかなければならず、逃げ遅れた敵に戦意がない場合は捕虜になってしまう。

結局、(不謹慎な話ではあるが)色々な効率を考えた時、距離や規模によっては逃げる敵を見たらその場で一時的に止まって、射撃をしたほうが、追いかけて刺突するよりもはるかに楽だし、戦果も上がりそうなものである。

実際、「初年兵の突撃戦」では射撃でもって逃げた敵を殲滅している。

『1.両小隊は直に部落北側に進出し、逃げ後れたるものを刺殺し、二三百米前方を潰走しつつある敵に対し、猛烈なる追撃射撃をなす。其の斃るる状況?(さんずいに句)に痛快なり。
…6.敵を殆ど殲滅するを得、北方に五、六名、東北方に四、五名、西北方に四、五名逃げたるをみたるのみ。』

とはいえ、逃げた敵を(一方的な)白兵戦で殺傷するという状況は(不謹慎な話ではあるが)その白兵創者の数こそ稼げないものの、戦争を通してもっとも頻繁に発生してもおかしくない白兵戦のパターンではないだろうか?
なにしろ、この白兵戦が発生する条件は、「突撃後、逃げ遅れた敵兵がいる」だけでのである。

マニュアルの通りだが最悪なパターン
では、一方的でなく、彼我ともに白兵戦(格闘)を行うような状態になるのはどういった状況だろうか?
まず考えられるのが、守備側が頑強に抵抗している場合だろう。
小戦例集』から二つ、抜粋してみる。

小戦例集 第一輯 第二十一
『…二、 十一月九日十九時三十分敵約三百 本道上より突撃し来る中隊は陣前約五十米に近接するを待ち突如射撃を開始す路上は忽ち敵の屍を以て充満せしが敵は後続隊を合し新手を代へて屡々突入し来る
中隊は断乎として戦闘し火力及白兵を併用し翌払暁に及び遂に敵の大部を撃滅せり
…二、 敵は主として本道上より(不利)数団となり腰ダメ射撃を行ひつつ突入し来る
敵は刺突を行はざるも組付くものあり…
三、 銃剣術は一人対数人の格闘をも顧慮し演練するを必要とす』

小戦例集 第二輯 第六
『…六、 之より先RiA TiA biA MG及協力砲兵は一斉に射撃を開始し一時全く煙と砂塵とに包まれたる中に勇敢なる喊声を聞くのみなりき
暫くして煙霽るるや各所に白兵戦を演じ十四時三十分第一線中隊たる第十二、第九中隊は「クリーク」西岸の陣地を占領す
…八、 大隊長は続いて21、22陣地に対する突撃準備を命ず此のとき林家宅21の陣地先づ動揺の色ありと見るや機を失せず第十二中隊は独断突撃に移り接戦格闘の後之を占領し同時に第九中隊も亦22陣地に突入之を占領す時に十五時なり
大隊長「クリーク」西岸陣地に進出し歸家?(行の中に其)の敵亦動揺の色あるを見第十二中隊に突撃準備を命ずる間既に一部は歸家?東南角に突入し敵兵を刺殺しつつあり該中隊は独断同陣地に突入し十六時頃同地を完全に占領す
…十、 本戦闘に於ける敵の遺棄死体は第一線のみにて約三百五十を越えたり其の一部は二人乃至三人毎に手足を鉄鎖又は針金を以て縛り後退を不可能ならしめありたり如何に頑強に抵抗せしめたるやを察知するを得べし』

上の戦例は少し特殊な状況を含んでいるが、前者は日本軍が守備、中国軍が攻撃。
後者は日本軍が攻撃、中国側が守備を採っている戦例である。

攻撃側が突撃やそのまま白兵戦に移行できるような距離まで接近した時に攻撃側が白兵戦に持ち込もうと考えた場合や、なんらかの事情で後退ができない場合等、状況によっては攻撃側が突撃や白兵戦に移行、あるいは無理やり突撃や白兵戦に持ち込む可能性がある。
この時、守備側が射撃で撃退できず、かつ守備側がその場に残り、逃げようとせずに積極的に応戦すれば白兵戦になるわけだ。

攻撃側と守備側の双方に後退出来ない理由があったり、そもそも後退が許されていない場合や、双方共に攻撃意欲に溢れている等、ぼちぼちこのような状況が発生することは考えられる。

支那兵ノ一部ハ頗ル頑強二抵抗シ最後ノ格闘迄逃ケサリキ」という評があったり、日本軍と中国軍の兵士がそれぞれ銃剣と青龍刀(柳葉刀)で白兵戦を行い、中国兵は日本兵の面を打って、日本兵は刺突を行って相打ちとなったが、結局日本兵側が鉄帽を被っていた為、日本兵は瘤を生じただけで済んだから鉄帽は被れ。という話もある。

日中戦争は列強同士の戦争とは少し毛色が違うため、一緒くたにはできないが、射撃から白兵戦という戦闘の流れはむしろマニュアル通りである。
置かれているであろう状況等から考えると、この火戦→白兵戦という流れは、戦闘の流れとしては最悪なものなのかもしれない。

奇襲時の白兵戦
このほか、白兵戦へと移行する確率が高い行動は奇襲だろう。例えば、

小戦例集 第二輯 第十二
『一、第十一中隊諏訪少尉は兵八名を率い四時三十分?(ウ冠に如)越口を出発し規口前に向ひ前進す途中敵約五十名?越口に向ひ前進し来るを発見す彼我の距離約五十米なり茲に於て小隊長は敵に察知せられざる如く其の背後に廻り之に突入し潰乱せしむ』


そもそも奇襲や不意打ちは射撃だけに留まらず、戦術・戦略的にも効果が高い。
奇襲を受けた敵は、狼狽したりしてまともに対応がとれないことが多いようで、突撃の成功例も多い。
上の戦例では格闘が行われたか定かではないが、中国軍側には四名の遺棄死体があるので、突入の際の刺突によって四名が死亡し、他の兵は驚いて潰走したのだと思われる。

似たようなものだと、至近距離でばったり出会ってそのまま格闘という場合もある。日露戦争でも高粱畑でそういった戦闘が発生し、『殆ど各幹部の独断により辛うじて敵を撃退するを得たり』(舟橋茂 著,『歩兵初級幹部指揮必携』,1938)という戦例がある。
敵味方どちらにとっても不意の戦いになるので、ある意味フェアな戦闘。
濃霧や塹壕内、見通しが悪い地形、市街戦等、不意に敵と至近距離で遭遇するような環境の場合はそのまま白兵戦に移行しやすいようだ。

日本軍の白兵戦
世界的には白兵創は非常に少ない。そのような状況のなかで日本軍は白兵戦を強調した。

ここまで見てきた白兵戦の戦例を見ると、日中戦争においては、白兵戦が意外と発生しており、しかも日本軍の突撃と格闘、つまり白兵戦が戦果を挙げているように見える。
元々は工業力等の不足を補う為の精神主義への傾倒が始まりで、白兵戦重要視もその一要素だったわけだが、実際にこれを運用してみたら、案外戦果を挙げたのかもしれない。

◇銃剣術特に白兵の使用に慣熟せしむるを要す
今回の事変(※第1次上海事変)に於て我軍が常に寡を以て衆を破り到る所勇戦奮闘し其攻防何れを問はず時に或は弾薬尽き時に 不意に敵襲を受けたること枚挙に遑あらざるも此間常に数倍乃至十数倍の敵に対し泰然として敵を至近の距離に引き寄せ最後は銃剣に信頼し遂に之を撃破し敵に大打撃を与へ得たる所以のものは実に我軍に白兵使用の自信を有するに反し敵軍に於ては白兵使用する自信なかりしに依るべし之れ実に敵軍に対し我軍の優越を発揮する所以にして将来益々此等の点を鼓吹し愈々其長所を発揮する如く奨励するを要するものと認む。』(『偕行社記事第六百九十七号附録』,1932,p.8)


とはいっても、日中戦争で白兵戦は多かったのか?という話に関して、多い少ないを直接的に証明出来る資料(戦死傷者の原因の統計等)を少なくとも私は持っていないので、日中戦争の白兵戦の多少に関してはあくまで妄想の域を出ない。
途中でも触れたように、旧軍の方針的には突撃を過剰に持ち上げている可能性が大いにあるので、近代の戦争における白兵戦による被害者は一般的には数%程度という情報以外は話半分に見てもらうと良いと思う。

長々と書いてきてここで触れるのは少し遅い気がするが、ここでは白兵戦と突撃は一応別物として扱っている。
『典範令用語ノ解〔作戦要務令ノ部〕』では、「突撃」を以下のように説明している。

「肉弾を以て敵に衝突し銃剣にて格闘して最後の勝敗を決する動作をいう。就中騎兵が馬上白兵を揮って格闘するを襲撃という。」

一方の「白兵戦」はこのような説明となっている。

「彼我両軍が互に白兵即ち銃剣、刀、槍を以て、接戦格闘するをいう。」

この投稿では銃剣を構えて敵に向かって走るという行動+格闘を「突撃」、単純な格闘は「白兵戦」と呼んでいる。

2015年8月5日水曜日

「キ」形散開


徒歩騎兵の特別な散開
昭和18年(1943)に出された『騎兵連隊教練規定』というマニュアルがある。

教訓二十三号
騎兵連隊の教練に関する訓令
騎兵連隊の教練は当分の内本規定に據り実施すべし
昭和十八年五月二十五日
教育総監 山田乙三


と始まり、騎兵の各個教練から連隊+αの訓練に関する事項が並ぶ。と言うと大袈裟だが、なんてことはない。要は新しい騎兵操典のようなものである。 騎兵のマニュアルであるため、乗馬での戦闘に関しても記述があるが、徒歩戦闘に関する事柄の方が多い。
そして、この徒歩での戦闘に関する記述も、歩兵のものとほとんど違いは無く、他の兵科の操典と同じく歩兵操典を参考にしているようだ。ただ、本規定は見出しが付いていたり、文章や構成が若干変えられていて、歩兵操典と比べると格段に読みやすい。
基本的には歩兵操典と変わらないのだが、一つ目に付くのがこの投稿のタイトルとなっている『「キ」形散開』である。

歩兵の分隊の散開といえば、
縦散開(一般分隊、擲弾分隊)
横散開(一般、擲弾)
傘形散開(一般)
筒毎の散開(擲弾)

の4つなのだが、『騎兵連隊教練規定』には前述の「キ」形散開という散開が追加されている。
この散開における兵の配置は上の画像の通りである。

特徴としては、
・他の散開ではっきりとは示されていない狙撃手の位置と存在が図に示されている。
・歩兵操典にない「肉攻手」の存在。
・約30歩という非常に広い兵の間隔。

この散開はなんなのだろうか?
旧軍が1945年頃から一部で導入しようとしていた、「組戦法(分隊よりさらに小さい“組”単位での戦闘を行う)、「滲透戦法(姿なき攻撃前進は即ち地形を利用し、工事を実施し、遮蔽、秘匿しつつ宛然水の滲透するが如き攻撃戦法。一般に浸透戦術と呼ばれている戦法とはまた違うものだと思う)に対応する散開のように思ったが、どうも違うようだ。

本規定の第二百六及び第二百七を見てみよう。

第二百六 分隊長は二、三名づつの肉攻手 肉迫攻撃に任ずる兵を謂ふ を以って肉迫攻撃組を編成し肉迫攻撃を準備す
敵戦車現出するや分隊長は地形を観察し攻撃実施の要領を定め各組の配置、支援の要領等を定む

第二百七 肉迫攻撃に方り分隊長は通常各組に目標を示し適時攻撃せしむ此の際組には通常一戦車を配当するも状況に依り一戦車に数組を配当することあり
組に目標を配当するに方りては先づ敵の先頭戦車或は指揮官戦車を撲滅する如く著意すること必要なり
敵戦車至近距離に近迫して停止し射撃する場合に於ては分隊は進んで之を攻撃す
軽機関銃及狙撃手は随伴歩兵特に戦車に跟随する歩兵を射撃す状況に依り覘視孔射撃を行ふことあり

この文を見る限り、どうも「キ」形散開は対戦車肉薄攻撃用の散開のようだ。

歩兵操典などでは、対戦車攻撃は巻末に附録として収録されており、内容も上記のものと大差ない。
ただ、肉薄攻撃を行う兵は、歩兵操典では「肉攻手」ではなく「肉薄攻撃班(組)」と呼んでいた。
なぜ騎兵の方では名称が変わったのか。理由はわからない。

とはいえ、オマケの記述であった対戦車攻撃が本文の方へ移った。つまり、制式となったわけである。それだけ徒歩兵の対戦車攻撃の必要性が増したという事だろう。

さて、少なくとも私は歩兵関連の教練書等で「キ」形散開に関連することが記載されているのは見た記憶が無い。
歩兵の方が対戦車攻撃に会する機会は多いはずである。
歩兵操典は、「キ」形散開を取り入れずとも、対戦車攻撃が記述される箇所は、附録から本文へと“昇格”するような変更を含んだ改定が行われていてもおかしくないと思うのだが、歩兵操典は1940年以降何ら手を加えられていない。

2015年8月4日火曜日

旧軍における軽易な陣地の攻略要領

軽易な陣地への攻撃
ある程度準備がなされた陣地は通常の場合、「警戒陣地」というものが設けられる。(警戒陣地の他に前進陣地という陣地もある。これも軽易な陣地)
警戒陣地は、「警戒部隊は各地区毎に出し敵情を捜索し且つ主陣地帯を掩蔽するものとす時宜に依り其の全部若しくは一部を以って敵の攻撃を遅滞せしむる等前進陣地占領部隊に準ずる任務を附課することあり」(作戦要務令 第二部,第169)

とある。
旧軍の戦術書等では、他国の警戒陣地も上記と概ね同様の任務を帯びた陣地として扱っている。(当然、国によって規模や配置などは違う)
警戒陣地は、元々第一次世界大戦において、第一線の陣地がすぐ突破されるため、兵力を少なく、疎開して配置し、本抵抗は第二線以降の陣地で行うという流れから生まれたものである。
警戒陣地について簡単に説明すれば以下のようになる。
位置は主陣地帯の前方概ね2〜3km(琢磨社,1939,初級戦術講座 前篇,p.211)
兵力は少なく(作要 第二,第169)、部隊は要点を占領し工事を施す。(作要 第ニ,第182)

この警戒陣地に対する攻撃方法は、主陣地(強固な陣地)に対する攻撃方法とは異なり、
「主陣地に対しては其の弱点に向かい主攻撃を指向すべく、警戒陣地に対しては之に反し其の警戒組織を破壊し捜索拠点を速に奪取するため警戒陣地の要点に主攻撃を指向するを通常有利とす」(陸軍大学校将校集会所,1927,戦術講授録 第一巻,p.114)
と説明されている。

前進陣地についても一応触れておこう。
前進陣地
本来の防御陣地(所謂主陣地帯)から前方に独立して占領される一小陣地をいう。(田部聖、奥田昇,1941,典範令用語ノ解〔作戦要務令ノ部〕)

初級 戦術学教程」(軍事研究社著,1941)では、

『防御に於て前地に於ける要点の過早に敵手に帰せざる為、或は敵の展開方向を誤らしめ又は敵の我が陣地に近接する動作を困難ならしむる等の為陣地の前方に一時占領する陣地を謂う』

と説明されている。
警戒陣地とそれほど大きな違いはないだろう。

濾過戦闘法
上で出典とした「戦術講授録 第一巻」(1927)では、軽易な陣地の攻撃に関し、「濾過戦闘法」なる戦法の説明が記述されている。

「戦闘綱要案第六十八第二項に示されあるが如く敵情捜索の為攻撃の手段を取る場合に於いては攻撃に使用すべき歩兵の兵力は之を必要の最小限とし有力なる砲兵を参与せしむるを有利とす、此の原則は之が実行に任ずる歩兵に在りても小銃分隊の多くを用ふることを避け重、軽機関銃を比較的活動せしめ小銃分隊は地形を利用して侵入し局部迂回を企図して以って敵をして退却するの止むなきに至らしむべし、換言せば濾過戦闘法とす而して第一線に於いて敵と直接戦闘に任ぜざる部隊も亦敵の間隙より前進して速かに所望の地点に進出するに努むるときは偵察戦の目的を速かに達すべき手段なりとす…」(pp.197-198)


また、他のページにはこのような記述もある。

「本状況に於けるが如く敵の前進部隊が広正面に亘り各拠点を占領しあるものを攻撃する場合に於ては攻者は濾過戦法、滲入戦法ともいうべき攻撃方法に依り比較的纏りたる小部隊を広き正面に展開し彼是協力して敵陣地に突入するを適当とす」(pp.221-222)

「濾過戦闘は漸次敵の抵抗増加して前衛独力を以っては前進不可能となるべし、是敵と触接を求め得たる終局にして敵の真抵抗線を確定するを得たりと謂い得べし」(p.199)


これを踏まえて少し長い文章だが、戦術講授録で述べられている軽易な陣地(ここでは前進陣地について述べているが、警戒陣地と前進陣地は共に軽易な陣地である)の攻撃要領を見てみよう。

「敵の前進部隊に対する攻撃は敵本陣地帯の攻撃と其の趣きを異にす。此の種戦闘は偵察戦にして、その目的は之等敵の抵抗を排除し、為し得る限り深く敵と触接して敵の真抵抗線を確定するに在り、而して防者は通常少数なる兵力を以って各拠点を占領しありて、平等にして到る処配備しあるに在らず。攻者の為、展望点となり、砲兵の観測所たるべき要点を占領し、本陣地を掩蔽し、且つ捜索の要点を占領しあるを以って、攻者も亦た此等の要点を我手に収むるを要するを以って、勢い戦闘は此の要点争奪戦たり、而して各要点中地形を判断し、先一挙に占領し得べき地点、若しくは其の要点を占領せば、是等前進部隊の組織ある抵抗を持続し得ざる地点に着眼するを要す、然るときは要点中の要点に向かうことなるべし。然れども此の要点のみを奪取するものなりと誤解なきを要す、戦線の全幅に亘り敵の抵抗を排除する為、敵の占領せる地点の正面部隊は速やかに攻撃を敢行し、前進容易なる部隊は其の抵抗微弱なる地点を縫うて潜入するものとす。」(p.197)


これが1927年当時の軽易な陣地の攻撃要領である。
時期的には昭和3年(1928)の歩兵操典が出る1年前、つまり、疎開戦闘方式の本採用直前というわけだ。
これ以降で濾過戦闘と言う単語は出てこない。(自分が読んでいない書籍にはあるかもしれないが…)
その後、少なくとも1930年以降の戦術書では、軽易な陣地の攻撃要領に関して、大体似たようなことが述べられるようになっている。

ひとまず2つの戦術書の記述を見てみよう。

初級戦術講座 前篇(琢磨社,1939,pp.215-216)※初版は1931年

手段
1.機動の利用
努めて正面の力攻を避け包囲、迂回、間隙突進等に依って敵をして自然に其の陣地を撤するの已むなきに至らしむるが宜敷い。蓋し敵は僅少なる兵力を以って広大なる正面に分散し、主陣地帯防御の如く連続せる歩砲の火網を構成することなく断続的且つ統一を欠き易いものであるから小範囲の機動も亦た成功するものである。

2.火力特に有力なる自動火器を用ふること
過早の損害を避け且つ兵力、企図を秘匿する為努めて歩兵の兵力を少なくし、成し得れば砲兵火力のみを以って撃退し得れば最も望む所である。然し前述警戒部隊の任務に鑑み敵も容易に退却せざるべきにより、優勢なる自動火器を以って圧倒するが宜敷い。特に敵の正面に向かわなければならない場合に於いて益々之を必要とする。

3.巧遅より拙速を尚ぶ
警戒陣地は、多くは最後まで其の地を死守するものではなく早晩退却するものである。故に之が攻撃は前二項の趣旨に依る外、猛烈迅速に之を実施し、以って指揮官以下の退嬰的心理に乗ずる事が此の種攻撃に於いて着意すべき事項である。然しながら一旦攻撃に着手して中途頓挫するが如き事があっては、是又此の種戦闘の一大禁物であるから其の辺は十分なる考慮を肝要とする。

4.要点を速に突破し全般の崩壊を促す
指揮連絡困難なる広正面に点在しある敵に対しては其の要点、或いは指揮中枢を速に奪取し、以って他をして孤立無援の地位に立たしめ、遂に撤退の已むなきに至らしむるを可とす。徒らに全正面を攻撃すべきものではない。

時機
1.前述諸項を応用して昼間之を奪取する

2.敵砲兵の有効なる支援を為し難き黄昏時を利用して一挙に攻撃する
此の際、攻者の砲兵を使用するか否やは状況に依るけれども、準備さえ整えて置けば固定せる防者に対し尚克く効力を発揚し得るものである。

3.夜襲を以って奪取する
損害を避けて不意に攻撃し得るのであるから利用する場合が尠(すくな)くないのであるが、夜戦の特性上諸種の錯誤を生じ易きを顧慮し、時間の余裕を有する事が必要であって、主力の攻撃開始直前に於いて行わんとするが如きは実行に当たり違算を生ずるの憂があるのである。



初級基本戦術(舟橋茂著,1942,pp.18-20)

攻撃要領
1.神速機敏なる攻略を必要とす。
2.要点を速かに突破して全陣地を崩壊せしむるを可とす。
3.後方よりの支援火力を制圧する着意を必要とする。
4.奇襲的行動は奏功の要訣である。
5.重火器及び比較的大なる砲兵支援の下に成るべく少数の歩兵を以って直接之が攻撃に任ぜしむるを有利とするが歩兵としては全火力を発揚し一挙に敵を撃破するを要す。
6.敵の出撃に対し顧慮するを要す。
7.指揮官は極力前方に位置するを要す。
8.敵主陣地帯捜索手段の各種処置

要するに敵警戒部隊攻略の要領は、敵が警戒部隊を配置する目的と又我が之を攻略する理由とより監察し、最も神速機敏に之を駆逐する事は奏功の要訣であって、敵の弱点に乗じ捕捉し、又其の退却に際し撒毒の遑なからしむる為にも必要である。

元来警戒部隊の配備は、指揮連絡困難なる広正面に小部隊を点在しあるを以って其の要点を速かに奪取し、他の部分を孤立無援ならしめ、各個に撃滅するか、或いは自然に撤退の已むなきに至らしむを可とす。
徒らに全正面に亘りて攻撃するは、攻撃兵力の増大を来し、爾後の行動の自由を拘束する不利あり。
警戒陣地は、通常、主陣地帯の砲兵火力に依り支援せられあるを以って、之を制圧する為、友軍砲兵によるを至当とす。殊に機関銃を以って支援しある場合は、砲兵並びに歩兵重火器を有利に使用することが肝要である。状況に依りては薄暮夜間を選むか、又は地形、煙等を利用し、大に機動性を発揮し、敵を包囲、迂回、間隙突破等の奇襲を敢行するも一法である。
畢竟(ひっきょう)するに、警戒陣地の攻略は、之が一階梯に過ぎぬから過早に大なる兵力を用ひて兵力を消耗するは本末顛倒であるのみならず、我が企図を敵に察知せらるる不利があるから、勉めて火力に依りて敵を萎伏せしめ、攻略部隊は全火力を発揚して鎧袖一触之を蹴飛ばす着意が必要である。



※これらの原文は句読点等が無く、読みづらかったので勝手に追加した。

2つの書籍からほぼそのまま該当箇所を引っ張ってきたが、どちらも述べていることは大体同じであることが読み取れると思う。
要は、軽易な陣地の攻撃は十分な火力を確保し、少数の兵力でもって敵陣に突入し、要点を速やかに奪取する。といったところだろう。
軽易な陣地攻撃に関して、ここで取り上げていない事柄は多いが、文章の量的にも厳しいのでこれくらいに留めておく。

ちなみに、軽易でない、いわゆる「主陣地に対する攻撃」については、以前投稿した『突撃に就て』(戦術書の説明を丸々転載したもの)が参考になると思う。非常に長いが。
時間がなかったり、面倒臭い場合は『陣地内部の戦闘に就て』の部分を見てもらえるといいと思う。最悪、ここだけでも良い。
『突撃に就て』が掲載されていた書籍は昭和6年のものなので疎開戦闘方式の頃の話だが、突撃関連の要領は後年になってそれほど大きな変化があった訳ではないので(若干違うが...)、戦闘群戦法導入後でも基本的な部分では十分通用する話だと思う。

一応、主陣地の攻撃に関してとても簡単に説明すると、主陣地に対する攻撃は弱点を見つけ、そこを突破したら更に弱点を見つけ…ということを繰り返して、最終的には陣地の後端まで突き抜けるというもの。軽易な陣地攻撃でも似たようなことを述べていた気もするが、部分的には共通することもあるのだろう。
ちなみに、主陣地の攻撃で重要なのは、各級部隊で予備隊を作り、最前線の部隊が突破できた部分にこの予備隊を投入し、突破して出来た穴を横に押し拡げる(戦果拡張)と共に、陣地の後端まで突破する縦方向の突破力を維持する点にある。
最前線の部隊が処理しきれなかったり、放置した敵の処理も基本的にこの予備隊が行う。
また、最前線で突撃・陣内戦を行う部隊(小隊)は、たとえ隣の部隊(小隊)が突破できずに停止したとしても、構わず前進することが歩兵操典でも述べられている。(歩操 第百五十九)
有力な敵とぶつかった場合は、迂回して側背から攻撃して処理するよう努める。

主陣地の攻撃では、警戒陣地攻略の要領のような速やかな要点の奪取等で陣地を瓦解させるといったことが述べられていない。
おそらく敵の兵力や密度、防御設備や軽重火器の量等から、そもそも少数の部隊での敵陣地内への侵入自体が難しいのではないかと思われる。


軽易な陣地の攻撃要領は、(正確かどうかはともかく)一般的に有名な「浸透戦術」と呼ばれている戦法にそっくりだ。

防衛研究所で閲覧できる、阿部昌平氏の
第一次世界大戦の日本陸軍に及ぼした影響
によると、浸透戦術は第一次世界大戦後に日本軍でも導入されたそうである。

戦術講授録の文中にも、「濾過戦法、滲入戦法ともいうべき攻撃方法」という一文があった。
滲入戦法」は、第一次世界大戦後、列強のごく一般的な歩兵の陣地攻撃戦法となっていたそうだ。
日本軍の戦闘群戦法の導入は列強の中では一番遅かったが、浸透戦術の方は、比較的早い段階で導入できたようだ。

この投稿の上の方で出した、1927年の戦術講授録では、軽易な陣地への攻撃の戦法を滲入戦法と呼んでいるようだが、個人的には、浸透戦術(連合軍呼称)の本家とも言えるWW1のドイツ軍のそれは、どちらかというと強固な陣地(主陣地)に対する攻撃の要領の方が近いような気がしないでもない。
むしろ、軽易な陣地から強固な陣地への攻撃まで、全部ひっくるめたものが浸透戦術なのだろうか?
WW1に関してはそれほど詳しくないのでこれ以上は触れないが。

この「浸透戦術」は、非常厄介な代物である。
なにしろ、旧軍には「浸透戦術」という戦術は存在しないのだ。
おそらく「浸透戦術」という名称は戦後使われるようになったものだろう。日本軍でこれに対応する名称は、「滲入戦法」•「滲透戦法」の二つのようだが、この二つもなかなか怪しい。

滲入戦法」という呼称は、日本軍における「浸透戦術」の当時の呼称と見ていいと思うが、面倒なことに似た名前や別の名称で呼ばれている例がいくつかある。

滲透戦法」は、「滲入戦法」の説明と同じような、『水の浸透するが如き』という解説がなされていたりするのだが、どうも同じものとしては扱えない印象がある。

ややこしい話になるが、ひとまず浸透戦術の類似品とおぼしきものを列挙してみると、
まず、第一次世界大戦後、列強で一般的になった戦法である「滲入戦法」。
正面攻撃部隊が敵抵抗点をおさえ、側面へ他の部隊が滲入し、包囲し抵抗点を奪取する。というもの。

二つ目は、この投稿の「濾過戦法(滲入戦法)」。
つまり、軽易な陣地への攻撃戦法である。

三つ目は、WW1の1918年春季攻勢のドイツ軍の戦法である「弱点攻撃」(滲入戦法の別名のようだが)。
以前投稿した「対砲兵戦に関する戦史的講話」の文中にもこの呼称があった。
「弱点に攻撃を指向して、最前線の部隊が突破できた方向へ予備隊を投入、弱点から弱点へ。前線部隊は弱点を探し、予備隊によって戦果を拡張、陣地突破。」というのは、イギリスの急流戦法だが、日本軍も主陣地への攻撃で同様の戦法を導入していることはすでに上で触れた。
英軍の急流戦法も日本軍の主陣地攻撃要領も、結局は「弱点攻撃」。つまり、ドイツ軍が使用した「浸透戦術」の一部であると思うが…

四つ目は、ビルマ方面で英軍が行った「滲透戦法」。
これはアジア歴史資料センターで閲覧が可能。
「1、敵の滲透戦法に就て」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14060363300、第33師団戦闘の教訓 昭19.12.25(防衛省防衛研究所)」

これは中隊以上?で行われた戦法のようだ。軽易な陣地に対する攻撃要領に似た要素はあるが、別の戦法と見ていいと思う。

最後が、1944年辺り(?)に出現、対米軍用の戦法として導入しようとしていた「滲透戦法」。組戦法と併用するものらしい。1945年頃から一部の教練書に記載されたようだ。
1944年7月の偕行社記事には、
「徹底して工事を実施し分散、秘匿の戦法を以て一意敵に近迫しなければならぬ。姿なき攻撃前進は即ち地形を利用し、工事を実施し、遮蔽、秘匿しつつ宛然水の滲透するが如き攻撃戦法こそ正に我等の賞用すべきものである。」
という文がある。
「水の滲透するが如き」という一文からしても、滲入戦法と瓜二つだが、強度の散開を行い、分隊をさらに細かく分けた編成となる「組戦法」との併用ということを考えると、なんというか、より小戦(ゲリラ戦のこと)に近い戦法のように思える。
元々の浸透戦術はこれほど徹底した隠蔽、分散、散開を要求していないのではないか?日本軍流の浸透戦術なのだろうか?

今現在、単に浸透戦術と呼んでいるものは、旧軍ではこんな状況に置かれていたわけだ。

滲入戦法」は、“自分の言葉”で説明したい人間が多いのか、別の呼ばれ方をされることがあり、認識や呼称に多少のブレがある。
敵陣地に“滲入”するという要素から考えれば、軽易な陣地と主陣地への攻撃要領の両方を「滲入戦法」と呼ぶのは何らおかしいことではない。似通った部分も多々ある。
だが、軽易な陣地は要点の奪取、主陣地は弱点から弱点へ、予備隊が必須。という、若干異なった攻撃要領であることを考えると、両者を混同するのはあまり適当ではないように思う。

仮に軽易な陣地への攻撃と主陣地への攻撃、全てを引っくるめた大枠の“陣地攻撃の要領”が「浸透戦術」であったのなら、軽易な陣地攻撃用の「浸透戦術」。主陣地攻撃用の「浸透戦術」。というように分割された結果、「滲入戦法」がいくつか存在することになった。ということも言えるだろうが…
これらの考えの正否を直接教えてくれるような資料は今のところない。

滲透戦法」と呼ばれていた戦法は、ビルマの英軍のものと末期の旧軍のものの二つだが、この二つは名前が同じなだけで全くの別物だろう。
滲入戦法」と「滲透戦法」は、似たような名前だが、個人的には少なくともこれらが同じものであるとは断言できない。現状では情報不足である。

そもそも戦略や戦術といったものは、人によって解釈が違ったりすることがママある。深く考えずに浸透戦術云々と言わない方が良いだろう。下手をすると、さらに多くの浸透戦術を目にすることになるかもしれない。