2015年12月9日水曜日

戦闘群戦法の構成要素考察

旧軍が1937年に導入し始めた「戦闘群戦法」。各投稿でも平然とこの用語を使用しているが、明確な定義がなされていないため案外内容があやふやな戦法であるその細い中身まではあまり触れることはなかった。

「17年9月10日発布仏軍大本営教令に歩兵半小隊を以って歩兵の最小戦闘単位となし、此の内に軽機関銃手と小銃手を編入し、是等小単位の機宜に適する敏活なる運動並びに戦闘により、某小範囲の戦闘を独力にて遂行せんとするに至り、歩兵戦術は茲に根本的に変化するに至りたるなり。
之れ即ち、戦後の一新原則とする戦闘群戦法の最初の教令とす。
この教令による戦闘群は半小隊を以って単位とするものにして、歩兵各小隊は之を全く同一編成の2半小隊に分かち、各半小隊の定員は、
軽機関銃 1(弾薬手と共に3名を以って1組とす)
擲弾銃 3(銃榴弾を発射する小銃なり)
擲弾歩兵 約7(小銃並びに手投榴弾を携行する歩兵とす)
より成り、1下士を以って之が長とす。該戦闘群は攻撃前進中、例えば、大弾痕内に位置する敵の1機関銃の抵抗を受くる時は、先ず軽機関銃をして之に応ぜしめ、その間に群内の他兵は地形を縫うて之に近接し、擲弾銃の有効射程(150m乃至200m)に入り、敵尚抵抗する時は直ちに其の擲弾を以って我が軽機関銃火を増援し、以って之が制圧を図り、此の間に擲弾歩兵は更に之に近迫して手投榴弾の有効射程に入る。此の際、敵尚抵抗する時は直ちに手投榴弾を以って之を鏖殺し、或いは之を圧伏し、機を見て白兵を振るって之に突入するを理想的の戦闘要領となす」(『世界大戦の戦術的観察 第3巻』, pp.124-125)

世界大戦の戦術的観察』では戦闘群戦法をこのように説明している。これはそのまま概要として扱えるが、そもそも「戦闘群戦法」(という用語)は、日本軍がフランス軍の編成運用等を見て独自に定義した戦法であり、色々な要素をまとめて「戦闘群戦法」(という概念に詰め込んでいる)と呼んでいるため、海外(英語圏)でよく使われる概念等と絡めた話をする際には不便である。
また、当の旧軍でさえ、他国の戦闘群式戦法と自軍の新戦法(戦闘群式の戦法には違いないが)は違うものである。と述べている書籍もある。
個人的にWW1以降の戦闘群戦法は「戦闘群戦法」となって、(基本的には同じものではあるが)仏軍のオリジナルの戦闘群戦法と部分的に異なる箇所もあるような印象を受ける。

今回は旧軍が言うところの「(WW2の頃の)戦闘群戦法」がどういった要素で構成されているのか考えてみる。
まずは、考えるに当たって必要となりそうな情報を列挙したので、それを見てもらおう。

ここで扱うのは(旧軍の目を通して見た)一般的な戦闘群式戦法について。
旧軍式の戦闘群式戦法(?)については「旧軍式戦闘群式戦法」の方で扱っています。


分隊の重武装化

旧軍が「戦闘群」 と訳した"Groupe de Combat"、一見すると分隊に軽機関銃を持たせただけ。というような単純なものに見えるが、これは分隊になかなか大きな影響を与えている。更に「戦闘群編成」を導入するかしないかに関わらず、重武装化の流れとして、分隊は手榴弾や擲弾も装備している場合がほとんどなので、旧来の小隊分隊と比較すると非常に重武装となっている。
ひとまず小銃と軽機関銃の性能に焦点を当てて見てみよう。

歩兵操典草案 中隊教練ノ研究 上下合冊(陸軍歩兵学校将校集会所,1927,p.174)
「軽機関銃分隊は...発射速度も外国に於て見る所を以てすれば概ね五、六十発の程度(本校の実験射撃に於て中等射手の点射を以てする射撃は概ね外国のものに相似たり)にあり...小銃分隊は一分間の発射速度一人平均五、六発として十人内外の分隊を以てせば一分間五、六十発の射弾を送り得て...」

一九三二年新編制に基く 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案(教育総監部,1939)では、軽機関銃の一分間の発射数を150発以内、小銃は10発としている。(本書はソ軍の教令草案の翻訳)

FM 7-5 IFM Organization and tactics of infantry the rifle battalion(1940,p.11)では、

" b. The semiautomatic rifle, M1, is capable of approximately 20 to 30 aimed shots a minute. The M1903 rifle is reloaded by hand operation of the bolt and is capable of a rate of about 10 to 15 rounds a minute."

半自動小銃であるM1ライフルは概ね20〜30発、ボルトアクション式小銃のM1903ライフルは10〜15発を、それぞれ一分間に射撃できるとしている。

時代を遡ること明治時代、『戦術綱要 全(軍事鴻究学会,1902,附録p.84)の「歩兵射撃の速度」によれば、1分時(1分間)に徐射撃が2〜3発、並射撃が5〜6発、急射撃が8〜12発、連発一斉射撃が8発となっている。

小銃の射撃は、(米軍のM1ライフルのような半自動小銃等を除き)明治期からWW2まで大して変化が無く、1分間に5発前後は射撃可能。
WW1以降、特に海外では、運動する散兵に有効な命中弾を与える必要性から最大限の射撃速度が求められ、1分間に概ね10発が標準となっている。

一方、軽機関銃はどうか?
例えば、旧軍の軽機関銃(弾倉式弾薬30発:九六式軽機関銃)の射撃速度は、引鉄を引きっぱなしにすればものの3〜4秒で弾倉内の弾薬を撃ち尽くしてしまう。(歩兵教練の参考(各個教練) 第1巻,p.63)
個別に調べてすらいないが、他国の軽機関銃も5秒前後で全弾を射撃できるだろう。

軽機関銃が一分間射撃を行うとして、仮に射撃後の再照準や装填等に毎回15秒かかると考えた場合、全弾連続発射の射撃を3回行う事が出来る。射弾は90発、小銃兵9人分の射数である。
装填等に25秒かかったとしても射撃は2回でき、射弾は60発で小銃兵6人分となる。
単純な話、軽機関銃は弾倉に装填されている弾丸の数だけ撃てるので、弾倉内に30発あれば小銃兵3人分、単純に射数のみを参考に考えても、軽機関銃1丁で小銃兵数人分の火力があるということになる。

また、軽機関銃は射数の多さに加え、二脚等で据え付けの射撃を行うなどの種々の理由から命中率は小銃より良いとされている。
旧軍の『諸兵射撃教範 総則第一部』に収録されている「命中公算表」を一つの参考として見てみよう。

第四十二 実用半数必中界を基礎とし各種目標に対する小銃、軽機関銃、重機関銃の命中公算を算出せるもの附表第四乃至第八の如し
実戦に在りては精神上の影響に依る半数必中界の増大に伴い命中公算は前項に示すものに比し減少するを通常とす」

詳細は個人で見てもらうとして、ここでは小銃・軽機関銃・重機関銃が各種人像的を射撃する場合の命中公算の一部を見てみよう。

三八式歩兵銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 71.0%  46.2%  35.7% 200m
55.3% 30.9% 21.2% 300m
39.8% 19.5% 12.4% 400m
27.0% 12.6% 7.7% 500m
19.2% 8.7% 5.1% 600m
13.6% 6.1% 3.4% 700m

十一年式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 39.4%  24.0%  15.3% 200m
30.2% 13.6% 8.0% 300m
18.6% 8.3% 4.9% 400m
11.0% 5.5% 3.9% 500m
8.0% 3.7% 2.2% 600m
6.4% 2.8% 1.6% 700m

九六式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 54.3%  33.0%  22.5% 200m
39.6% 21.6% 13.7% 300m
26.9% 13.4% 7.8% 400m
19.1% 8.4% 5.1% 500m
13.3% 5.7% 3.4% 600m
9.7% 4.1% 2.3% 700m

九二式重機関銃(軸心間隔1m対散兵、薙射)
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 38.2%  24.4%  15.1% 200m
36.3% 20.5% 12.3% 300m
33.5% 17.0% 10.0% 400m
30.4% 14.6% 8.5% 500m
27.7% 12.5% 7.4% 600m
25.0% 11.1% 6.4% 700m

この命中公算表の数値を見ると、軽機関銃や重機関銃よりも高い三八式歩兵銃の命中公算の高さに驚かされる。
これを見ると、小銃の方が命中公算が良いように思われるかもしれないが、上に載せておいた「諸兵射撃教範総則第一部』の第四十二に記述のある通り、

実戦に在りては精神上の影響に依る半数必中界の増大に伴い命中公算は前項に示すものに比し減少するを通常とす

となる。
つまり、この命中公算表の数値は平時の人像的に対する命中公算であり、実戦について考える場合はこの数値は当てにならない。

では、実戦における命中公算はどうなのかというと、教範には記述が無いようだが、『射撃学教程 全(1938年)にはこれに関する記述がある。
この射撃学教程は、諸兵射撃教範が施行される前、つまり『小銃、軽機関銃、拳銃射撃教範』に準じたものである。
諸兵射撃教範が施行された後に出た射撃学教程では数字等が変わっている可能性があるが、無い物はしょうがない。

これによれば実戦における命中公算は、

「小銃射撃の効力は射手の精神状態に関すること特に甚大にして日露戦役の発射弾数と死傷者とに依り推算するときは戦時効力は平時効力の約十五分の一なるが如し」(p.49)

「軽機関銃は結構上戦時効力は平時効力の約四分の一なるが如し」(p.53)

「重機関銃は結構上射手の精神感応を受くること少なきを以て戦時効力は平時効力の約二分の一なるが如し」(同上)

※これらの記述に関しては一抹の不安がある。これらを読んだ時に同じような疑問を抱く人がいるかも知れないが、文中の「効力」が「命中効力」のことなのか「効果」のことなのか判然としないのである。
『諸兵射撃教範』では、「命中公算」となっているが、『小銃、軽機、拳銃射撃教範』の頃はこれを「命中効力」と呼んでいた。
諸射教範でこれが「命中公算」となったのは、弾丸の効力なのか命中率のことなのか分かりにくいからだそうだ。(諸兵射撃教範改正要点に関する説明,p.39)

上掲の射撃学教程中の文章は、
1、射撃学教程中では、命中効力に関する記述箇所に付随して記述されている。
2、小銃、軽機、拳銃射撃教範の第162において「平時に於ける...命中効力...」、「戦時に在りては精神上の影響を...命中効力を減少する...」といった記述がある。
3、文脈からしてこれが弾丸の効力に関しての記述であるというのはおかしい。
という3つの理由から個人的に「命中効力(公算)」に関しての記述であると判断した。


命中公算表の各数値を、小銃は15分の1、軽機関銃は4分の1、重機関銃は2分の1とし、これを命中公算表に反映したものが以下である。(小数点第3位以下は四捨五入)

三八式歩兵銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 4.73%  3.08%  2.38% 200m
3.69% 2.06% 1.41% 300m
2.65% 1.3% 0.83% 400m
1.8% 0.84% 0.51% 500m
1.28% 0.58% 0.34% 600m
0.9% 0.41% 0.23% 700m

十一年式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
  9.85%  6%  3.83% 200m
7.55% 3.4% 2% 300m
4.65% 2.08% 1.23% 400m
2.75% 1.38% 0.98% 500m
2% 0.93% 0.55% 600m
1.6% 0.7% 0.4% 700m

九六式軽機関銃
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 13.58%  8.25%  5.63% 200m
9.9% 5.4% 3.43% 300m
6.73% 3.35% 1.95% 400m
4.78% 2.1% 1.28% 500m
3.33% 1.43% 0.85% 600m
2.43% 1.03% 0.58% 700m

九二式重機関銃(軸心間隔1m対散兵、薙射)
膝的 伏的 頭的 目標/射距離
 19.1%  12.2%  7.55% 200m
18.15% 10.25% 6.15% 300m
16.75% 8.5% 5% 400m
15.2% 7.3% 4.25% 500m
13.85% 6.25% 3.7% 600m
12.5% 5.55% 3.2% 700m

一転して小銃の命中公算は一番低い数値となった。
軽機関銃は小銃の概ね2倍〜それ以上の命中公算があるようだ。
仮に、小銃の戦時効力を平時効力が10分の1だったとしても、まだ軽機関銃の方がその公算は優位である。

ただし、そもそもこの命中公算表は射撃の命中率に関する“一つの参考”でしかない。この数値があてになるのかと言えば、それほどあてにはならないだろう。
あくまで一つの参考・目安であるということに注意が必要である。


「紙上に兵を談ず」というべきか、これらは現実にそのまま当てはめることができない完全な数値上の話ではあるが、分隊は軽機関銃を装備することによって、小銃のみの分隊と比較すれば倍以上の火力を持つことになる。
分隊の兵員は大抵10人前後であるから、軽機関銃を装備した分隊は小銃のみを装備した分隊2個分に相当すると考えることもできる。
これに加え、戦闘群式の分隊は手榴弾やライフルグレネード等を装備していることがほとんどなので、分隊の総合的な火力は散兵線戦闘の頃やWW1の初期と比べれば非常に大きいというわけだ。

WW1の頃の軽機関銃や擲弾銃、手榴弾といった兵器は、軽機関銃分隊・手榴弾投擲部隊・擲弾銃分隊といったそれぞれ専門の分隊として編成、運用されていた。
小銃分隊が手榴弾や擲弾銃を装備したり、手榴弾投擲部隊(擲弾兵※擲弾兵は擲弾銃兵のことを指している場合もある)の中に小銃兵が組み込まれている。といったようなことも当然あるが、これらの部隊を一つの分隊に組み込んだものがフランス軍の「戦闘群」、つまり戦後(WW1)型の分隊であると見ることができる。

ちなみに、各国での擲弾筒・擲弾銃の運用法は二つに分かれる。
1つは、旧軍のように「擲弾筒分隊」といったものを一般分隊(軽機関銃と小銃装備)とは別に設け、この一つの分隊にまとめて配備してしまうものである。
旧軍の他には1930年代のソ連軍(※)やポーランド軍がこの形態。軽迫撃砲も含めれば、イギリス軍やWW2初期のドイツ軍(Granatwerfer 36)、スウェーデン軍(Granatkastare m/40)等もこちらの運用法を採っていた。
※『狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案』では、射程が少なくとも600m程度はあるような記述がなされている。一般的な擲弾銃とは思えない射距離を持つこの擲弾銃は"Гранатомёт Дьяконова":「Dyakonov擲弾銃」であると思われる。

2つ目は小隊の各分隊が装備するもので、フランス軍の戦闘群はこの形態。(擲弾銃を集めて擲弾銃分隊のような運用も可能)
こちらの方がどちらかといえば一般的である。

分隊の分業

これまでは兵器に焦点を当てた話だったが、今度は編成や運用に焦点を当てて行こう。

分隊規模の"Fire and Movement"
旧軍は戦闘群戦法を導入する前に、WW1当時、欧州各国が行っていた部隊運用を導入した。これが昭和3年歩兵操典から昭和15年まで旧軍の制式であった「疎開戦闘方式」である。

この時期の旧軍の小隊には軽機関銃分隊と小銃分隊の2種類の分隊があった。
軽機関銃分隊は専ら火力戦闘のみを行い、小銃分隊は火力戦闘と白兵戦闘を行うこととされていた。
軽機分隊は敵を射撃で制圧、小銃分隊は他の分隊の前進を援護するため敵に対して射撃を行いつつ、自身も他の分隊の射撃によって前進する。
一般に "Fire and Movement" あるいは "Fire and Maneuver" と呼ばれているものである。
単純に訳せば「射撃と運動」となるが、日本でこれを指しているであろう呼称は色々ある。

射撃と運動との連携(最新英和軍事用語辞典)
射撃と運動との協調(昭和3歩操第264)
射撃に連携して前進(昭和12歩操第162)
射撃及運動を調和(昭和15歩操第111)
火力と運動との結合(旧軍)等。

ちなみに、旧軍の操典には「運動と射撃」、「運動及射撃」といった語があるが、これらは単純に「移動と移動後の射撃」や「部隊の移動と部隊の射撃」ということを指しているようである。

疎開戦闘方式における"Fire and Movement"は小隊規模(分隊単位で射撃、前進)であった。

第百六十四 疎開戦闘に於ける小隊は小隊長統轄の下に其小銃分隊及軽機関銃分隊の射撃、運動及突撃を密接に連繋せしむべきものとす...」(昭和3歩操)

第百七十六 小銃分隊は軽機関銃分隊及他の小銃分隊と密接に協同し特に其運動をして各種火器就中軽機関銃の射撃に連繋せしむる如くするを必要とす」(同上)

第二百十 軽機関銃分隊は小銃分隊及他の軽機関銃分隊と密接に協同し其射撃をして他分隊の運動と調和せしめ特に小銃分隊の攻撃を容易ならしむるを主眼として行動するものとす」(同上)

第二百六十四 小隊長は各分隊をして射撃と運動との協調を適切にし絶えず前進し絶えず有効に射撃し得しむることに留意し以て成るべく速に敵に近接することに勉めざるべからず...」(同上)

これが、昭和12年の歩兵操典草案配賦以降、つまり「戦闘群戦法」の導入後は下位の部隊単位である分隊規模(半分隊単位で射撃、前進)で行われるようになった。(ただし旧軍の場合、射撃を行うのは専ら軽機関銃班で、小銃班は射撃をしないという方針が主流。海外の「軽機班が射撃、小銃班が前進、小銃班が射撃、軽機班が前進」というモデルとは異なる。詳細は「旧軍式戦闘群式戦法」を参照。)

第百六十二 散開せる分隊の運動は速に敵に近接するを主眼とす然れども勉めて地形を利用し且我が各種火器の射撃に連繋して前進するを要す」(昭和12歩操草)

第百十一 分隊は白兵力と火力とを統合せる最小の単位にして分隊長以下挙止恰も一体の如く射撃及運動を調和し突撃を実施す...」(昭和15歩操)

一方で、小隊規模の"Fire and Movement"はどうなったのかというと、
新歩兵操典草案ノ研究 第二巻(戦術研究会,1937,p.45)

「一、新戦闘法に於ては従来の如く分隊相互の密接なる協同連繋は必ずしも必要とせず各分隊が一意迅速に敵に向い近迫することに依りて其の目的を達成し得べく分隊の運動の主眼此所に在り」

となったようだ。
とはいえ、擲弾筒分隊や重機関銃の支援もあるので、小隊規模のものも完全に無くなったというわけではないだろう。

歩兵操典には"Fire and Movement"の理論をまとめて説明しているような条項はないため、ある程度詳細な説明は操典の研究本等を見るしかない。

新歩兵操典草案ノ研究 第二巻(p.46)

「三 、火力と運動との協調は敵に近迫するが為に緊要欠くべからざるものにして砲兵、重火器等の射撃と協調しつつ分隊内に在りては主として軽機関銃と小銃手との連繋を図らざるべからず
此所に附言したきは散開せる分隊の運動は砲兵、重火器及軽機関銃の射撃援護の下に自らは一弾も発せずして突撃距離に迫るを以て理想とすべく長時間の火戦は弾薬を浪費し、時間を消耗し、損傷を増大し、散兵の身神を疲労せしむるのみなるも敵火の状況之を許さざるを以て已むを得ず自ら火器威力を発揚するに至るものとす、此理論は分隊内に於ても同様なり」

歩兵操典詳説 初級幹部研究用 第一巻(干城堂,1942,p.57)

「分隊は主として軽機関銃と狙撃手とを以て火戦に任ぜしめ其の適切なる運動と射撃とにより敵を圧倒しつつ之に近接し、後方散兵群亦前方散兵群の射撃の掩護と自らの適切なる運動とにより損害を避けつつ之に跟随し、以て火力と白兵力との調和を最高度に発揚し、遂に分隊長を核心として一体となりて敵陣に突撃するの本旨を明確にし、訓練上に的確なる指針を与えられたのである。」

一九三二年新編制ニ基ク 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案(1939,p.66,本書はソ軍教令の翻訳)

「分隊の攻撃は火力と運動との結合にして小銃手は軽機関銃の掩護射撃に依り、軽機関銃は隣接軽機関銃、重機関銃手の掩護射撃に依り前進す」

フランスは1918年から。その他の国(英・独)でもWW1後から導入が始まり、1930年代前半にはソ連が導入を始めた。
日本では1937年の歩兵操典草案で導入が始まり、1940年の歩兵操典で正式に導入され、他国と同様に"Fire and Mivement"は小隊規模に加えて(制限はあるが)分隊規模でも行うものとなっている。

ちなみに、分隊規模での"Fire and Movement"は、必ずしも軽機関銃が必要というわけではなく、小銃のみの分隊でもできる。
米軍のFM 7-5を見てみると小銃分隊の項に"Fire and Movement"の説明がある。
理論的には、自動小銃はボルトアクション式小銃の倍近い射撃が可能なので、小銃手だけであっても戦闘群式編成(軽機+ボルトアクション式小銃装備)並の射撃が可能であるとも考えられる。
ボルトアクション式小銃のみを装備した小銃分隊でもできないことはないだろうが、相手が軽機を装備する戦闘群であった場合、例えば敵の軽機班+若干の小銃手がこちらの半分隊を射撃し、残余(こちらの半分隊と同兵数)の小銃手がこちらのもう一方の半分隊を射撃すれば、硬直状態になるならまだしも、撃ち負ける可能性も十分にある。
アメリカ以外の小銃分隊(ボルトアクション式小銃装備)が"Fire and Movement"を行うのは、なかなか骨が折れそうである。

米軍は他の列強とは異なる変遷をとっている。
1940年以前は戦闘群戦法式の編成(分隊にBAR×1、他は小銃を装備)を採っていたが、M1ライフルの登場によって(M1ライフルの火力で十分だと判断され)BARが分隊から分離、小銃のみ装備した小銃分隊(×3)とBAR×2を装備した自動小銃分隊からなる小隊編成を採った。(小隊規模の"Fire and Movement")
その後、有効的ではないことが判明。1942年から分隊にBAR(×1)が戻った。
ただし、軽機関銃装備の分隊と比べると火力が若干少なめだったため、分隊規模の"Fire and Movement"は、軽機関銃装備の分隊ほど上手くはできなかったようだ。

地物から地物への移動
これは案外重要な要素である。
散兵線戦闘の時代は、前進となればいくら敵弾が降っていようとも身を晒して歩くか走るかといったもので、散開隊形であれば、各兵の間隔は1〜2歩で横一列に並んでの前進となる。
中隊や小隊規模というように、運動を行う部隊の単位も結構大きいので、遮蔽物から遮蔽物へ少数の兵士がスルスルと移動していくような前進は、不可能ではないにしろ非常に難しい。

これがWW1を経て一変し、戦闘時の前進は分隊以下、数群、各兵単位が常態となった。

戦闘群戦法における分隊の移動は、
・分隊の兵全員での前進(同時前進)
・いくつかの群や班に区分しての前進(区分前進)
・兵が1人ずつ前進(各個前進)
の3種類がある。
射撃時や停止時は地形地物に拠って敵眼から遮蔽しつつ、前進の際にはなるべく敵からの捕捉や射撃を避けるため、上記の「区分前進」か「各個前進」で別の地形地物に移る。というのが基本的となっている。
特に戦闘群戦法では、軽機関銃を装備した散兵群と小銃装備の散兵群に別れて戦闘するのが普通なので、戦闘群編成を採った時点で区分前進は言ってみれば「デフォルト」の前進方法となる。

副分隊長
分隊を分割して効果的に運用するには、分隊長一人では負担が大きすぎる。となれば、副分隊長が設けられるのは当然の流れだろう。WW1の早い段階、場合によってはその前から似たようなものが存在していたかもしれない。

新歩兵操典草案ノ研究 第二巻(p.44)

『二、五番以下は分隊長と相当離隔することあるを以て状況に依りては之れ戦闘群戦法に於て副分隊長を設くるや否やに関して大に議論の別るる所にして諸列強に在りても之を設くるものあり、設けざるものあり、其利害は相交錯す
仏軍の如きは上等兵の副分隊長を設くるものにして接敵間分隊の正面及縦長は「百米を越ゆべからず」と規定し攻撃に方りては分隊は半分隊にて攻撃する場合多きものの如く(半分隊は軽機関銃のみが戦闘する場合に用う)突撃に方りては軽機関銃の援助下に前進す、即ち小銃部隊と軽機関銃部隊とが各個の戦闘を行う場合多き戦闘法則に於ては副分隊長を設くるを有利とすべく兵の素質不良なる場合に於ては益々其必要を感ずるものなり』

とはいえ、1940年頃までに、少なくとも主要な列強国では分隊に副分隊長が設けられていたようである。
この時期、戦闘群編成を採っていなかったアメリカ軍の小銃分隊(小銃のみ装備)でも、

"■ 2. RIFLE SQUAD (pars. 216 to 235, incl.).
ーa. Composition.ー
The squad at full strength consists of 1 sergeant (squad leader), 1 corporal (second-in-command), and 10 privates and privates, first class." (FM 7-5,p.313)

といった具合に、副分隊長(次級指揮官)が分隊内に設けられている。

旧軍では元来、「分隊は分隊長を核心として挙止恰も一体の如く戦闘を行う」といった主義から、分隊を分割することになる副分隊長を設けることに乗り気ではなかったが、現実的にはこれが必要であると認め、分隊長が分隊内の兵から「指揮者」を任命するという形態を採っていた。
指揮者」は、分隊の5番以下(後方散兵群:小銃兵)を誘導することが任務。
操典は「白兵貯存の主義」から、小銃兵はなるべく射撃せず敵から隠蔽して前進、場合によって小銃兵も射撃を行い、分隊の兵(軽機含め)全員で突撃。ということを要求している。
後方散兵群の射撃は控えめ、分隊長とはなるべく連絡を取るよう努める、射撃の指示は基本的に分隊長、「指揮者」の任務は後方散兵群の「誘導」、つまり、分隊長に示された目標に向かってなるべく速く、なるべく隠蔽して前進することが主である。
場合によっては「独断」を行うかもしれないが、分隊長と離隔することがそうそうないだろうことを考えると、「指揮者」の権限は案外小さいものであると思われる。

下級指揮官の権限の増大
前進する際に砲火の被害を軽減するため、中隊の各小隊が距離間隔を広く採り、小隊の各分隊が散開することを旧軍では「疎開」と言った。
疎開戦闘方式」という名称もここから来たわけだが、WW1以降は、「大疎開戦闘方式時代(新歩兵操典草案の研究 第一巻)と呼ぶような、更に部隊が疎開をするという形態になったと旧軍は認識している。

大疎開戦闘方式時代」とはつまり戦闘群戦闘のこと。

個人的には、「戦闘群編制」に主眼を置いた名称の「戦闘群戦法」よりも、「疎開戦闘方式」が更に発展したことを明示している「大疎開戦闘方式」あるいは「大疎開戦闘」という呼称の方がわかりやすくて良いと思うのだが、一般的にはならなかったようで残念である。

初級戦術講座(稲村豊二郎,1931年,p.2)

「次に疎開戦法の採用は歩兵科准士官、下士の戦術能力を大に向上せねばならぬ直接の大原因であると共に、歩兵に密接なる協力をせねばならぬ他兵科准士官、下士諸君も亦之を知らねばならぬ必要な事項である。欧州大戦中から各種の重、軽機関銃や火砲やが異状の発達をして来たので遂に歩兵は従来の散開戦法を捨てて、現時の疎開戦法を採用せねばならない様になった、其結果部隊は広正面に分散して戦闘する様になり指揮が甚だ困難になった、之が為に現時の中隊長は昔の大隊長、小隊長は中隊長、分隊長は小隊長のやったことをやらなければならなくなり軍隊指揮の方法が変って来た、否其よりも尚一層六ヶ敷くなって来た。のみならず広く分散して戦うのと戦闘の性質が複雑になって来たので適時に上級指揮官の命令を受けることが昔よりも困難になり、各級指揮官の独断動作せねばならぬ場合が増加したのである。...」

散兵線戦闘の頃は装備も小銃のみで、戦闘時の隊形も大まかに分ければ中隊の兵が横一線に広がる散開隊形、移動や対騎兵戦闘等(場合により突撃)に使われる密集隊形くらいである。散開隊形にしても、兵の間隔は1〜3歩程度、移動は中隊規模。射撃は小隊規模だが射撃の号令は中隊長。小隊長は中隊長の補佐役であり、分隊長は小隊長の補佐役程度でしかない。
小隊長や分隊長の仕事は中隊長の号令の復唱が主で、独断も小隊長まで。
戦闘正面幅は明治42年歩兵操典以前は、第一線の中隊で100〜150m(場合により増減)。(戦術綱要第二部及び第四部)
明治42年歩兵操典では中隊の戦闘正面は概ね150mが標準となっている。(第179)

これが疎開戦闘方式では、分隊は軽機関銃と小銃の2つになり、隊形も密集隊形と散開隊形の間に疎開隊形が出現し、兵の間隔は4歩と広くなった。

部隊の運動と射撃は、

第二百五十八 火戦の運動及射撃は小隊長之を統轄し各分隊の前進、停止及射撃は分隊長をして直接指揮せしむるものとす』(昭和3歩操)

となり、「いつ撃ち始めるか」といった指示や、小隊長が分隊の前進・停止の号令を行う等、まだ小隊長の権限は多いものの分隊へある程度の権限が降りてきている。また、独断は分隊長まで出来るようになっている。(主として突撃・陣内戦)
前操典で150mだった中隊の戦闘正面幅は、50m増えて概ね200mが標準となっている。(昭和3歩操第723)

小隊の戦闘正面についても目を向けてみよう。

第二百五十六 火戦の構成に方り軽機関銃分隊相互の間隔並隣接小隊の軽機関銃分隊との間隔は多くの場合五十米を標準とす...(中略)此等間隔内に小銃分隊を軽機関銃分隊との混淆(こんこう) を避けて散開せしめ...』

小隊は『通常火戦と援隊とに区分』(昭和3歩操第253)し、火戦の分隊は横一線に並べる。
基本的に小隊は小銃分隊4、軽機関銃分隊2という編制で扱われていることが多いので、この編制を使う。
例えば、小銃分隊2個と軽機関銃分隊2個を火戦とし、残りの小銃分隊2個を援隊とした場合、2つの軽機関銃分隊の間に1つの小銃分隊を挟み、どちらか一方の軽機関銃分隊の隣に1つの小銃分隊が並ぶ。(援隊は火戦の後ろ)

軽機関銃分隊と軽機関銃分隊の間隔が50mなので、小銃分隊2個と軽機関銃分隊2個を火戦として並べれば、100mを超えるか超えないかくらいの戦闘正面幅を持つことになる。
この小隊が2つ並ぶと約200mの戦闘正面を持つことになる。(昭和3年歩兵操典の第723に示されている中隊の戦闘正面幅)

戦闘群戦闘ではどうなったか。
疎開戦闘方式の時の軽機関銃分隊と小銃分隊が1つの分隊の中に組み込まれ、分隊が軽機班と小銃班で別個に動けるようになり、兵の間隔も6歩となった。
また、運動と射撃は小隊長が統轄することには変わりがない。ただし、疎開戦闘の頃は小隊長が分隊の前進や停止を命じることができたが、昭和15年歩兵操典ではそういった記述は無く、完全に分隊長の権限となっており、小隊長が分隊に攻撃目標を与えれば、各々独自に判断して前進し、指示された射撃開始時期となれば射撃を行う。(とは言っても、完全に好き勝手できるわけでは無いので、小隊長が命令すれば前進も射撃も止めるだろう)

その一方で、昭和12年歩兵操典草案から戦闘正面幅の規定に関する記述は無くなっている。
戦闘群戦闘は分隊を横一線に並べるといった単純なものではなく、分隊が地形や状況に応じて適宜兵の距離間隔等を変えたり、分裂したりするような「不定形」の部隊となって定義し辛くなったのだと思われる。
(戦闘正面について書いている書籍は存在するかもしれないが、少なくとも昭和12年歩兵操典草案以降、典範令には記述されていない)
そもそも戦闘正面というのは、状況に応じて広くしたり狭くしたりするものなので、今までの数値も「標準」。単なる目安なので、厳密に「何mだ」と定義する事自体あまり適当ではないのだが...。

とはいえ、フランス軍の戦闘群が『接敵間分隊の正面及縦長は「百米を越ゆべからず」』となっており、米軍のFM 7-5では、分隊の戦闘正面幅(Frontage)は50〜75、小隊は100〜200、中隊は200〜500ヤードと示されている。
また、『狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案』では「攻撃の為分隊は方向を与えられ戦闘隊形の正面幅は二十乃至三十米とす」とある。

旧軍の小隊は疎開の際、各分隊の間隔を50m空けて疎開する。
菱形配置であれば小隊の幅は100m程度。戦闘に入る場合、この状態から各分隊が散開に移る。

旧軍の傘形散開時の前方散兵群(軽機部隊)は、1〜4番の兵が約6歩の間隔で散開する。
一歩の距離は「速歩の一歩は踵より踵迄七十五糎を」(昭和15歩操第20)とあるので、一歩の距離を70cmと考えると、6歩は約4m。
1〜4番の兵が散開した際には、6歩の間隔が3つできるので前方散兵群の幅は12m。各兵が占める幅を1mとすれば16m。

後方散兵群(小銃部隊)は基本的に前方散兵群の後方50m地点に位置しており、あまり横には広がらないので、分隊の戦闘正面幅は前方散兵群が占める「約20m」と考える事ができる。ただし、後方散兵群が前方散兵群より前に進出する場合、おそらく前方散兵群の脇を通らざるを得ない事、また、隣の分隊の運動や重火器の射撃を邪魔しない程度に各分隊がそれなりの戦闘正面幅を確保しなければならないことも考えれば、旧軍でも50m程度が分隊の戦闘正面幅であると考えて良いと思う。

仮に分隊の戦闘正面を50mとし、火戦に出す分隊を3個とすれば、小隊の戦闘正面は150m。
散兵線戦闘時代は中隊の戦闘正面が150m。それが戦闘群戦闘では小隊がその幅を使っている。
それまで中隊長が担当していた戦闘正面幅を小隊長が受け持っているのだから、これだけを考えても権限が下級指揮官に移っていくというのも理解できる。

これに加えて、各部隊は広く間隔をとって、1番小さい部隊である分隊でさえも半分に別れて行動している。
既に中隊長どころか小隊長でさえ完全に指揮下部隊の統制を執るのは難しい。

ここで、疎開戦闘の小隊を思い出して欲しい。疎開戦闘では小隊内に小銃部隊と軽機関銃部隊がいた。
戦闘群戦闘では、これが分隊内に移動したわけである。

現時の中隊長は昔の大隊長、小隊長は中隊長、分隊長は小隊長のやったことをやらなければならなくなり」という文章がなんとなく理解できると思う。(しかもこの文章は疎開戦闘方式の頃の書籍のものである。戦闘群戦法となってどうなったかは推して知るべし)

戦闘群戦闘を行うには、下級指揮官の能力というのが非常に要求される。
旧軍が散兵線戦闘から脱却する際、すぐに戦闘群戦法を導入できなかった理由の一つでもある。
下士官の能力が不足していたため、下士官の能力が戦闘群戦法を行える程度になるまでの「つなぎ」・「教育用」として疎開戦闘方式を採用したわけだ。(軽重機関銃や砲兵不足等々の理由も大きいが)

独断
【独断】
命令を待つことの出来ないような場合に、自己の任務と一般の状況に鑑み、之に適応するように、自分一己の考えにて決断すること。(典範令用語ノ解)

下級指揮官の権限が増大したといってもその権限には当然限度がある。しかし、状況によってはその権限以上のことを行わなければならない状況が発生する。
その際に上級の指揮官と連絡がとれない、事が急を要するといった場合に、現場の判断としてこれを行うと決断することを「独断」という。
この「独断」を実際に行動に移すことを「独断専行」という。


散兵線戦闘時代は中隊(小隊)辺りまでが「独断」を行えたようだが、戦闘群戦闘では分隊、場合によっては兵個人単位でも「独断」を行うことが奨励されていたりする。
下級指揮官の権限の増大の一環として、旧軍の書籍では大いに推奨されているのが目につくと思う。
WW1を経て、戦闘群戦闘の時代となって重要な地位を占めるようになり、列強でも下級指揮官の独断は推奨されていたようで、旧軍もそれに習って推奨しているようだ。
歩兵操典を見る限りでは、戦闘全般において「独断」を行えるような記述がなされているが、分隊規模では突撃〜陣内戦が「独断」活用の主舞台のようである。

また、この「独断」とは若干違う(?)「独断」もある。

戦闘綱要 全(pp.46-47)
第二 訓令
訓令は受命者遠隔して時々所要の命令を与うる能わざる時、或は一定の任務を与え長く独立動作を為さしむる時に用ゆる者にして、必竟命令の範囲広き者に過ぎず、故に全く受令者に委任し、之れに十分の自由を与るを要す
任務を確示し其施行の方法に至っては、指揮官の干渉せざる所なりと雖受令者の任務施行に関する教示を与うるは妨げなし、其教示に対し受令者は適宜に之を取捨し得るものとす
◯訓令に記すべき要点
一、敵状並びに我軍の状況(命令に比し稍々精密に指示するものとし殊に受令者の参考となるべきことは必ず示すべし)
二、我目的(受令者時機に応じ独断の基礎となる者なれば充分に指揮官の現在に於ける目的を示すものとす)
三、受令者の任務
四、指揮官の要求する所の条件
五、指揮官の将来に於ける概略の意図並びに希望
六、報告を送るべき場所或は指揮官の所在地

この「訓令」は、命令自体に余裕を持たせて下級指揮官に対して「独断」の余地を与えるもので、後年の旧軍にもそれらしいものは見られる。

幹部候補生 実兵指揮の参考(佐々木一雄,1942,pp.67-72)
第一節 命令作為の要訣
各級の指揮官は、其の任務にしたがって状況を判断し或は下達せられたる命令によりて更に自己の決心をなし、そして其の決心を基礎として適時に適切なる命令を下さねばならぬのである。
命令作為の要訣
1 発令者の意思及受令者の任務を明確適切に示す。

2 受令者の性質と識量とに適応せしむ。

3 受令者の自ら処断し得る事項は妄りに之を拘束すべからず。

4 受令者に到達する迄の状況の変化に適応するものであるか、どうかを考察することが必要である。

5 命令に理由を記載すべからず。

6 又臆測に係ることを示すべからず。

7 種々未然の形勢を挙げて一々之に対する指示を与うべからず。

8 命令の受領より之が実行迄に状況の変化測り難きとき又は発令者が状況を予察すること能わず、受令者をして現況に応じ適宜に処置せしめんとするが如きときの命令にありては、全般の企図及受令者の達成すべき目的を明示するの外は細事に亙り其の行動を拘束せざるを要す。

9 前項の場合受令者の識量に応じ或は状況に依り行動の準拠となるべき大綱を示すを可とすることがある。
(省略)
3の説明
警戒にしても掩護にしても亦攻撃にしても其の手段方法の細部に亙りて之を示すことは其の人を拘束することとなり、却って自由に思い切った行動をなさしめることが出来ないようになるものである。
即ち◯◯より◯◯の線に於て本隊の展開を掩護し、敵状地形を偵察し、特に某点、某点、某点を捜索すべし。
展開の掩護をするからには、命令なくとも敵状及地形を偵察するのは当然のことである。それに更に地点を示して捜索せしむる如きは寧ろ拘束し過ぎるのである。
4の説明
一部隊が仮に五里前方に出されてあるとする。其の時に命令を持たせて、一時間半で到着するとしても、其の間の時間に状況が変化するかも知れぬと云う場合には、細かの命令を発しても効力がない、まして現地の地形は全く未知である場合に於ては、一層然りである。こうした場合には、大体の主目的たる大方針を示せば足るので、あとは全く其の指揮官に委すことにならねばならぬ。
(省略)
8の説明
支隊の如きものが遠く離れて側面を掩護して居ると云った場合で全く該方面の状況は発令者に不明である如き場合に於ては、詳細の命令を発することは出来ないから、我が軍の当時に於ける大目的、(例えば前面の敵を攻撃す)(現在に於て攻撃を準備明払暁を期し攻撃を開始す)の如きを示し、貴官は現在地にありて敵を拒止すべし。と云った主目的を示す如きである

(これは作戦要務令第1部、第10〜第12の解説のようだ)


前者の命令外の行動を行う「独断」と、後者の訓令における「独断」は厳密に見れば異なるものだと個人的には思うが、旧軍では特に区別はしていないように思える。
独断」という単語自体は「自分個人の考えで動く」というものなので、前者・後者どちらでも問題なく意味は通る。

歩兵操典や作戦要務令の独断に関する綱領を見てみると、

第五 凡そ兵戦の事たる独断を要するもの頗る多し而して独断は其の精神に於ては決して服従と相反するものにあらず常に上官の意図を明察し大局を判断して状況の変化に応じ自ら其の目的を達し得べき最良の方法を選び以て機宜を制せざるべからず」

この綱領の説明として、『軍隊精神教育の参考(斎藤市平,1941,p.112)を見てみると、

「独断とは自己に与へられた任務に就て、上官の意図に反ぜざる範囲内に於て活用し得る程度についていふのである。それ故に決して服従と違背するものでない。動もすれば自由、放縦などと誤解し。勝手気儘の行動を以て独断と心得るものがある。それ故に平素から上官の意図を詳知し、専恣に陥らぬやう注意すべきである。」

この説明の「上官の意図に反ぜざる範囲内」という文章は非常に悩ましい。

単純に見た場合、与えられた権限内で判断しろと言っているように見えるが、それを示すのであればむしろ「上官の命令に反せざる範囲内」と、ハッキリ書かれていたはずだ。
これを「上官の意図」という、見ようによっては若干ぼかしたとも取れるような言い回しをしているということは、おそらくそうではないのだと考えるべきだろう。

つまり歩兵操典等の綱領に述べられている「独断」は、主として命令外の行動をとる「独断」について述べているのだと考えられる。
だが、「権限内の独断」について述べているとしても何らおかしくは無い記述である。

この二者を明確に区分しているような様子が見えないのは、そもそも区分する必要が無いからなのか、意図的に区分していないのか。
訓令が使われるのは結構大きな部隊(中隊以上)であるような印象も受ける。


なんにせよ、旧軍では「独断」を推奨しているわけだが、実際に下士官等は「独断」を頻繁に行っていたのか?という疑問が浮かぶ。
これに関しては、一つ考慮しなければならないことがあって、歩兵操典は小隊長や中隊長が最前線近くにいることを要求しているため、基本的に小隊長は分隊と連絡を取れるような距離にいる場合が多い。
突撃や陣内戦以外の場面で、下士官や兵が命令外の行動をとる「独断」を行う機会は実際にはあまり無かったのではないかと思う。
(「どこをどう移動するか」といった「権限内の独断?」であれば、常に行われていただろう)


戦闘群戦法の構成要素は何か?ということを考えるに当たって参考となるであろう情報はこんな具合である。

次はWW1の流れを上記の情報も参考にして、戦闘群戦法の成立までの流れを整理してみる。(基本的に英仏軍が中心となる)

まず、WW1勃発時の各国の戦闘は「散兵線戦闘」である。
中隊規模で戦闘を行うもので、移動は密集隊形。戦闘が近くなれば散開隊形を採り、兵は横一列に数歩の間隔を取って広がる。
移動や射撃は小さくても小隊単位。地形地物の利用も限定的で、移動時は敵に身を晒す場合が多い。
WW1の最初期、散兵線戦闘式に攻撃を行った歩兵は機関銃の射撃によって粉砕され、砲兵の性能向上・増加も相まって戦闘は膠着。
長期戦、総力戦、塹壕戦へと移行。
攻撃時に受ける砲兵の射撃や機関銃の射撃の被害を軽減・避けるため、大きな部隊(〜小隊)では部隊の間隔を広く採って移動するようになる。(疎開)
分隊等でも各兵の間隔が以前よりも広くとられるようになり、いよいよ中隊単位での指揮が困難となり、小隊長や分隊長といった、より下級の指揮官の指揮権限が増加。
相応の能力も求められ、下級指揮官の「独断」も必要になってくる。
膠着状態打破のため、兵器の分野でも試行錯誤が行われ、各種新兵器が登場する。
手榴弾と擲弾銃は、それを専門あるいは併用で運用する分隊が編成される。(1915〜)
軽くて運用のしやすい機関銃、「軽機関銃」が登場し1916年頃から小隊内に軽機関銃分隊として編成され始める。
(この辺りが旧軍が言うところの「疎開戦闘」の始まり?)
時期や国によって異なるが、1916年末には小隊は小銃分隊・軽機関銃分隊・擲弾銃分隊・手榴弾投擲分隊の全部、あるいはいずれかの分隊で編成されるようになる。(旧軍の「疎開戦闘方式」がこの系列)
この辺りから小隊規模(分隊単位で運動・攻撃)での "Fire and Movement" が有効に行えるようになったのだと思われる。(小隊規模での戦闘はこれ以前の小銃分隊のみの頃でもおそらく行われていたと思う)
1917年9月にフランス軍で小銃・手榴弾・擲弾銃・軽機関銃を装備した半小隊が誕生。つまり、戦闘群戦法の誕生。
終戦間近の1918年10月、上記の半小隊が "Groupe de Combat" (戦闘群)として正式な編制となり、これ以降「戦闘群戦闘/戦法」の時代となる。
分隊規模(半分隊で運動・攻撃)での戦闘が可能となり、 "Fire and Movement" も分隊(分隊内)で出来るようになった。

ざっとこんな感じだろう。

結局、戦闘群戦法とはなんなのか。
目に付く要素を列挙してまとめてみる。

分隊規模で見ると、
分隊の近代的装備(戦闘群編制)
・一丁で1個小銃分隊以上の火力を発揚出来る軽機関銃
・攻防両用、近距離戦闘で非常に便利な手榴弾
・歩兵部隊の砲兵たる擲弾銃
(擲弾銃/擲弾筒は、小隊内に専門の分隊として編制される場合がある)

半分隊での戦闘
・軽機関銃部隊と小銃(小銃擲弾兵)部隊による "Fire and Movement"。
・兵員が少なく、運動も隠蔽もしやすい。基本的に敵から遮蔽しながら戦闘を行うことが常態に。
・副分隊長が設けられてより効率的に。

下士官の指揮権限・能力向上
部隊の強度の疎開・散開、小部隊戦闘の発展に伴い、各級部隊は自身の大きさに比べて非常に広い戦闘正面を受け持つこととなり、上級の指揮官の命令や指揮を受けることが困難になったため、より下級の指揮官に上級の指揮官が持っていた権限を委譲することになった。
これにより、現場の判断(独断)が重要となった。
また、分隊が複数の兵器を装備しているため、疎開戦闘時代の小隊長のような指揮を行わなければならなくなった。

隠蔽・遮蔽
掩蔽物から掩蔽物へ少人数で駆け抜ける。敵に捕捉されないように出来る限り遮蔽状態を保つために地形地物の利用は不可欠。
戦闘は掩蔽物から掩蔽物への運動、射撃、再び掩蔽物へ。というのが定型。また、移動の際に匍匐前進が頻繁に使われるようになった。。

分隊以上の規模で見ると、
疎開
中隊・小隊は戦闘前(敵砲撃圏内)の段階で部隊間の間隔を広く採って移動し、戦闘開始前後で分隊が散開する。
散兵線戦闘時代は密集(中隊)→散開(中隊→小隊→分隊)。
疎開戦闘以降は密集(中隊)→疎開(中隊→小隊)→散開(分隊)。

下級指揮官への権限の移動
小部隊が広く戦場に散って戦闘を行うため、ある程度の権限が下級の指揮官に移動した。
小隊長は指揮下の分隊に対して細かく逐一指示を出すようなことはなくなり、小隊の戦闘を統轄的に指揮する。小隊戦闘の調整役と言ったところか?

一応これが、個人的に考えて抽出した戦闘群戦法の構成要素である。
特に重要そうなものは太字に下線、他は下線のみ。
旧軍の歩兵操典研究本を読む限り、このようなものから成り立っているように思う。(各書籍でもこのような感じに分かれて説明されているので)
あまり細かく分解しても面倒なので、結構粗めに区分したが。

分隊に軽機関銃を持たせただけで軍の戦法が戦闘群戦法となるのかといえば、おそらくそうではないだろう。
これに限らず、戦術関連は一つの要素を取ってみても、様々な他の要素が絡み付いて一緒についてくるので、解説するとなるとこの投稿のようにとてつもなく長くなる。ここまで読み進める猛者はどれ位いるのだろうか?


本投稿は各種書籍の記述を切り取ってスクラップ帳に乱雑に貼っているようなもので、いわば個人的なメモ書きである。
基本的に旧軍の資料が中心なので、普遍的な概念を抽出するというよりは、旧軍ではこういう認識だった。といった感じになってしまったが、それはしょうがないので、ご理解を頂きたい。

気を使ってはいるが、間違い等は多々あると思うので、是非各自でも調べてみて欲しい。


参考文献

・相澤富蔵『兵卒教程』厚生堂,1897
・軍事鴻究学会『戦術綱要 全』軍事鴻究学会,1902
・『歩兵操典』 川流堂,1909
・陸軍歩兵学校将校集会所『歩兵操典草案 中隊教練ノ参考 全』岩田文修堂,1927
・『歩兵操典』 兵用図書株式会社,1928
・稲村豊二郎『初級戦術講座』琢磨社,1931
・在波蘭陸軍武官室訳『波蘭軍歩兵操典』偕行社,1936
・『歩兵操典草案』武揚堂書店,1937
・軍事学研究会編纂『歩兵必携』武揚社書店,1937
・戦術研究会編『新歩兵操典草案ノ研究』(第1巻第2巻第3巻)兵書出版社,1937
・軍事研究会編纂『初級幹部 戦術学教程(基本戦術)』川崎満韓堂,1937
・『昭和十二年改訂 学生用 射撃学教程 全』1938
・成武堂編纂部『歩兵中隊新戦闘法の研究』成武堂,1938
・陸軍歩兵学校訳『一九三二年新編制ニ基ク 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案』教育総監部,1939
・『歩兵操典』 小林又七,1940
・關太常編纂『歩兵全書』川流堂,1940
・安西理三郎編纂『改訂 最新歩兵戦闘法表解』軍事学指針社,1940
・帝国在郷軍人会本部『千九百三十八年制定ソ軍歩兵戦闘教令 第1巻』軍人会館図書部,1941
・佐々木一雄『幹部候補生 実兵指揮の参考』軍用図書出版社,1942
・陸軍歩兵学校『歩兵教練ノ参考(教練ノ計画実施上ノ注意 中隊教練 分隊)第二巻』軍人会館図書部,1942
・同上『歩兵教練ノ参考(中隊教練 小隊)第三巻』軍人会館図書部,1942
・『歩兵操典詳説 : 初級幹部研究用』 (第1巻第2巻第3巻)干城堂,1942-1944
・FM 7-5, Infantry Field Manual, organization and tactics of infantry; the rifle battalion, War Department, 1940

2015年11月6日金曜日

鉄条網の突破

今、眼前にはどれ位の兵力かわからないが、壕や掩体に拠って防御している敵の集団がいる。
敵が潜む塹壕の前方50m付近には、確認し辛いが鉄条網が敷かれている。
また、どこにあるかはわからないが、鉄条網に沿った射線を確保し、こちらが鉄条網に近接するか、通過しようとした時に射撃を始める側防機関銃等もあるだろう。

敵がどういう状況か分からないが、どのような状況であれ、敵陣に侵入するために行わなければならないのが鉄条網の処理である。
旧軍ではどのような鉄条網の処理を行っていたのか見てみよう。

鉄条網の破壊方法
作戦要務令 第二部
第百三十六 障碍物破壊の時機、方法及破壊口の数は我が企画に基き障碍物の状態、第一線歩兵の部署、戦車の有無、砲兵力就中準備弾薬数等を考慮して之を定むべきものとす
障碍物破壊の為戦車を以てするは地形及戦車の兵力之を許せば実施最も容易なり又砲兵及歩兵重火器を以てするは観測之を許せば実施容易なりと雖も多数の火砲(火器)特に弾薬を必要とす故に所要の戦車なき正面に於ては歩、工兵を以てする破壊作業に依り又は之と火砲(火器)とを併用するものとす後者の場合砲兵をして少数の破壊口を完成せしむべきや或は多数の破壊口を概成せしめ歩、工兵の作業を以て之を補足せしむべきや等は状況に依る而して数線の障碍物に対しては第一線の破壊は通常歩、工兵をして之に任ぜしむるを可とす
歩、工兵を以て障碍物を破壊する場合に於ては此の動作を妨害すべき敵特に機関銃に対し適切なる掩護の方法を講ずるを要す此の際為し得れば煙を利用するを可とす
歩兵の攻撃前進間砲兵等を以て障碍物を破壊せしむる場合に於ては突撃前歩兵をして之が完了を待つ為長時間敵前近くに於て停止するの止むなきに至らしめざるを要す」

砲兵による処理
砲兵操典(昭和4年)
第千十二 ...鉄条網に対しては通常瞬発信管附榴弾を使用するも十五榴に在りては鋼性銑榴弾を用うることあり而して命中角小なる虞あるときは野、山砲に在りては短延期信管を又十五榴に在りては大なる落角を得べき装薬を使用す
鉄条網の破壊に要する弾薬数は砲種、弾薬の種類、射距離、射撃の精度、射弾観測の難易、目標の状態特に其の数及び相互の距離、目標付近の傾斜の度、破壊口の幅員等に依り異なるものとす」

砲兵操典 第三部(昭和16年)
第百二十五 ...鉄条網破壊の為各部隊に目標を配当するに方りては特に第一線歩兵と鉄条網との関係、鉄条網の位置及所要火力を考慮すること必要なり而して通常野、山砲を使用し其の死角内のものを破壊するを要する場合に於ては十榴を使用するものとす
鉄条網を破壊するには通常目標毎に一中隊を配当し瞬発榴弾を用ひ射撃するものとす」

(1)歩兵の攻撃前進に先立って行うもの
作戦要務令 第二部
第百三十二 状況特に敵陣地の強度に依り要すれば攻撃準備射撃を行う此の射撃は歩兵の攻撃前進に先だち我が砲兵を以って障碍物、側防機能及び陣地設備の破壊、指揮組織の崩壊、敵砲兵の制圧為し得れば破壊を行うものとす」

砲兵の鉄条網処理は分類して二つ。
一つ目は、歩兵の攻撃前進の前に行われる「攻撃準備射撃」で鉄条網を破壊してしまうという方法である。
鉄条網処理の手段としては好ましい方法だが、真面目に鉄条網の破壊を行うのは非常に弾薬を消費する。

『戦闘綱要に伴ふ砲兵隊教育に関する訓令に依れば、鉄条網に対し三千米の射距離で、深さ(※恐らく縦深、奥行きのことだと思われる)三十米、幅二十五米の突撃路を開設するには約七百発の野砲弾を要する。』

(初級戦術講座,琢磨社,1931,p.308)

この突撃路の幅25mというのは、WW1後のフランス軍の標準なのだそうだ。

『仏国に於ては大戦の経験に鑑み各小隊に一条の突撃路を設け一条の幅員は歩兵が分隊の疎開隊形を以て通過せんとする幅、即二十五米を以て標準として居ると云うことである。』

(同上)

恐らくフランス軍に限らず、列強は大体同じような感じだろう。
ただし、日本軍ではこの幅の突撃路を砲兵の砲撃によって開設するのは種々の関係(※主に弾薬。砲自体の数も十分ではない等)から事実上不可能なため、他国よりも小さな幅で満足し、数を増やすという対応を採った。
(それでも、他国と比べて突撃路の数が多いというわけではないが)

『其破壊正面を小さくし十乃至十五米幅に満足し或は概成に止め寧ろ突撃路の数を増加することが得策であらうと思う。』

(同上,p.310)

第三百七十三 突撃路は突撃部隊の部署に応ぜしめ且つ成るべく広き正面を以って通過し得しむる為其の幅狭きも寧ろ其の数の多きを可とす」

(野戦築城教範,1927)

旧軍における、砲兵が開設する突撃路(破壊口)の幅の標準は、野砲10m、十五榴・十加15mとなっている。
野砲(75mm級)で幅10mの突撃路を開設するには、

『昭和二年特別陣地攻防演習に於て、野砲弾八乃至九発の命中に依て約十米の概成破壊(※簡単な補備作業で通行可能になる程度に破壊できていること)の実験を得て居る。而して完全破壊の為の命中弾数は実験値を基礎とせる計算値に依れば、幅十米の為約十七発である。故に概成破壊の為には完全破壊の所要弾数の約半部で宜しいのである。』

(初級戦術講座,琢磨社,1931,p.310)

応用戦術ノ参考 全(1939)の「鉄条網破壊ノ為所要弾数ノ標準表」では、野砲・山砲が深さ10mの綱形鉄条網に10mの破壊口を作るのに必要な弾数は以下のようになっている。
射距離     所要弾数
2000m..........100発
3000m..........200発
4000m..........300発
5000m..........400発
6000m..........550発
(概成破壊の場合の所要弾数は上記数値の半数、命中弾であった場合は約20発で完全破壊、約10発で概成破壊)

25mの破壊口を開設する場合よりも所要弾数は少なく抑えられているが、そもそも「攻撃準備射撃」は鉄条網の破壊のみならず、敵歩兵や敵築城への射撃から対砲兵戦、その他後方に対する射撃等、幅広い任務がある。
弾数の問題はもとより、それ以外にも制限が多い上、作戦要務令の第2部の第132を見るに、比較的強固な陣地に対した際に行われるものであると思われる。
日本軍では「攻撃準備射撃」による鉄条網処理はあまり望み得ないだろう。

(2)歩兵の攻撃前進中、または突撃直前に行うもの
作戦要務令 第二部
第二十五 師団砲兵は戦闘に方り歩兵直接協同 歩兵の直接支援、歩兵の行動に直接関係ある敵の阻止並に障碍物及側防機能の破壊等 戦車の支援、対砲兵戦及其の他の遠戦、陣地設備の破壊等に任ず」

砲兵が行う鉄条網処理の二つ目は「歩兵直接協同」の一環として行われるもので、旧軍の砲兵の鉄条網処理方法としては「攻撃準備射撃」よりは頻繁に行われていたものだと思われる。

歩兵直接協同
直接支援射撃』(歩兵の直接支援)
砲兵操典 第三部
第百十一 直接支援射撃は友軍歩兵の行動に緊密なる連繋を保持し逐次火力を一目標より他の目標に移動しつつ之を実行するものとす」

歩兵の火力戦闘の地域内および近辺の敵に対する制圧•殲滅を目的とした射撃。「突撃支援射撃」は、この直接支援射撃の一部。

突撃支援射撃
砲兵操典 第三部
第百八十八 ...突撃支援射撃に於て歩兵の突入を支援する為には其の突入すべき正面のみならず後方及側方より射撃する敵特に重火器等を成るべく同時に制圧するに勉むるを要す
歩兵の突入の時機を規正したる場合に於ては歩兵の膚接突入を容易ならしむる為突入時の最終弾を斉一ならしむること緊要なり此の場合に於ても歩兵好機に投じ突入することあるに注意するを要す
歩兵随時突入する場合に於ては其の行動に即応する為百方手段を尽くし常に歩兵を目視しつつ適時射程延伸を行ふこと緊要なり
射程延伸は我が歩兵の突入に方り成るべく近く其の前方に在りて歩兵の突入を妨害すべき敵に対し火力を迅速に移動し所要に応じ敵の逆襲を破摧し或は増援を遮断するものとす」

歩兵の突撃直前から敵の第一線および後方要点に盛んな射撃を行うもの。
3分〜5分程度の集中射撃が行われる。

砲兵操典 第三部
第九十二 ...火力の集中を行ふに方りては所望の一目標若くは相隣接して相互の関係密接なる数箇の目標を選定し各目標毎に所望の火力を指向するものとす而して射撃の実施は状況に応じ同時且不意にして至短時間内に火力を集中し 集中射撃と称す 或は適宜の方法に依り火力を集中するものとす」

その後は敵陣地の奥へ射撃を移動、あるいは別の目標へと射撃を移す等々場合による。
集中射撃は数中隊から数大隊規模で行うもので、敵歩兵を制圧するには、1ヘクタールに対し1分間16発が必要。
(この弾数であれば、理論的には1分毎に25㎡の地域に対し1発の砲弾を落とすことができる。野砲弾の有効破片飛散界は半径20m。1ヘクタールのほとんど全域に破片が飛んでくるので、敵歩兵は頭を上げられないということになる)

仮に野砲1門が1分間に5発射撃するとするなら、1ヘクタールに16発の要求を満たすには4門、つまり野砲兵1中隊が必要。

阻止射撃』(歩兵の行動に直接関係ある敵の阻止)
前進する敵兵(逆襲•攻勢移転•増援等)の行動の妨害、阻止、殲滅を目的とした射撃。殲滅が目的でなければ、射撃密度が制圧射撃よりも小さくて良いようである。(弾数が少なくても良い)

障碍物及側防機能の破壊
鉄条網や側防機能(構築物に拠った兵員や機関銃)の破壊。

ただし、『歩兵直接協同』による鉄条網の破壊は『攻撃準備射撃』よりも不十分なものになるため、殆どの場合歩兵や工兵による追加の鉄条網破壊作業が必要になる。

野砲が3kmの距離から射撃し、鉄条網に10mの破壊口を開設するのに必要な弾数が200発。仮に砲兵1中隊(砲4門)がこの任に当たるとすれば、各砲は50発の弾薬が必要になる。仮に野砲一門が100発の弾薬を持っていた場合、鉄条網破壊の為に所有弾薬の半数を撃ってしまうことになる。
(砲兵の砲弾の定数“のようなもの”は「基数」と呼ばれている。ただし、定数と言ってもキッチリと数が決まっているわけではないようで、戦術書等では「仮に」といったような文言がついていることが多い。野砲は一門100発程度)

ここで、鉄条網の破壊を概成破壊で満足するとすれば弾薬は50発の半分、25発で済むことになる。これは幾分現実的な数値だが、「歩兵直接協同」も「攻撃準備射撃」ほどでは無いにしろ、障害物破壊以外に直接支援射撃、阻止射撃、対砲兵戦、陣地設備破壊、遠戦等も行わなければならない。歩兵の突撃の前後には突撃支援射撃も行われる。

砲兵の数や規模、当時の状況によっては、障碍物破壊のための射撃は十分に行われないか、そもそも全く行われていなかった可能性もある。


戦車による処理
作戦要務令 第二部
第百十四 戦車は歩兵の為最も緊要とする時機及地点若くは敵の最も苦痛とする時機及地点に対し為し得る限り多数集結し勉めて同時に之を使用すべきものとす之が為敵陣地最前線の奪取に方り緊要なる地点に於ける障碍物を破壊すると共に直後の重火器を攻撃せしめ或は陣地内の攻撃就中砲兵の協同適切を期し難き地点に於ける障碍物、重火器郡等を蹂躙して歩兵の突撃を支援せしめ又要すれば適時敵陣地深く突進し砲兵、司令部等を急襲せしむ状況に依り此等任務の若干を連続遂行せしむること少からず此の際所要に充たざる戦車敵陣地深く孤立突進するは通常効果なきものとす」

戦車は砲兵とは違い、直射によって高い命中弾が期待できる上に、鉄条網の種類によってはそのまま上を走行して破壊してしまうということも出来る。遠く離れた位置にいる砲兵と比べても、遥かに歩兵との密接な協同が可能である。
作戦要務令第2部、第136に「障碍物破壊の為戦車を以てするは地形及戦車の兵力之を許せば実施最も容易なり」とあるのは、上のような理由等が関係しているのだろう。
だが、文中に「戦車の兵力之を許せば」とある通り、そもそも戦車が配属されていて、これを支援に回す余力がなければ出来ない処理法である。
旧軍の場合、砲兵以上に支援を期待しづらい兵種では無いだろうか。

主として歩兵及び工兵による処理
野戦築城教範(昭和2年)
第百九十九 歩、工兵を以てする障碍物及側防機能の破壊は敵前咫尺(しせき)に迫りて実施すべき重要なる突撃作業なるを以て其動作は剛胆にして且機敏ならざるべからず」

歩工兵による鉄条網処理は、「突撃作業」と呼ばれる動作の一部。
砲兵による支援が不足しがちな旧軍では、非常に重要な動作。おそらく鉄条網処理の主力。

野戦築城教範(昭和2年)
第二百四 鉄条網の破壊には主として鉄条鋏及障碍物破壊筒を用う障碍物破壊筒は之を急造することを得べし」

歩工兵の鉄条網除去は、歩工共通で「鉄条鋏」を使用し、工兵は「破壊筒」を使用する。その他、手榴弾、発煙筒、携帯防盾、土嚢等を携行する場合もある。
野戦築城教範の第378では、この突撃作業にあたる「破壊班」の人員等は状況によるとしているが、他の条項では以下のように記述されている。

第二百七 器具に依り隠密に鉄条網を破壊するには通常一突撃路の為長一、作業手四 内二人は予備 の班を以てし各作業手に鉄条鋏各々二 内一は予備 を携へしむ』

第二百八 破壊筒に依り鉄条網を破壊するには通常長一、作業手若干 破壊筒の長さ毎二米に付一名の割合 の班を以てし...』

歩兵、工兵の鉄条網除去作業は、いくつかの方法に分けられる。
砲兵によって概成された破壊口を利用する方法
砲兵の射撃と共に処理を行う方法
歩兵、工兵のみで行う方法
掩覆通過による方法

概成破壊口を利用する方法
砲兵の攻撃準備射撃や直接協同の射撃によって概成破壊された部分を、歩兵や工兵が更に処理して完全な突撃路として開通する方法。これは砲兵の射撃と共に処理を行う方法と要領はほぼ同じ。
と言うよりも、砲兵による鉄条網の概成破壊口があるということは、つまり砲兵の支援があるということなので、処理の際に砲兵の支援を受けられる可能性は高い。支援を受けられない場合は、歩工兵のみで行う方法と似たような要領となるだろう。

砲兵の射撃と共に処理を行う方法
砲兵の突撃支援射撃の際に歩工兵で鉄条網を処理する方法。
一例として、
『a.大隊は第一線中隊に至る迄鉄条網破壊以外一切の突撃準備を完了し、突撃の機熟するや大隊長は予め協定せる連絡の方法によりて直協砲兵(※歩兵直接協同にあたる砲兵)に射撃の実施を要求す。此の間、歩兵の最前線は友軍砲兵に依る危害を顧慮し前述超過射撃の限界附近に停止す。
(※前述超過射撃の限界附近→最近表尺の射弾の平均点と歩兵最前線との隔離距離の限界点。非常に簡単に説明すれば、味方砲兵の射撃による損害を受けないギリギリの距離のこと。射撃目標から野山砲150m、十榴200m、十加250m、十五榴300mがその距離の最小値。いずれも榴弾の場合)

b.茲に於て、砲兵は予め協定せる所に基き二分、三分或は四分間等の第一次の射撃を大隊正面の敵陣地主要部に集中す。歩工兵の障碍物破壊は此の制圧射撃間を利用し、友軍砲兵の射撃落達の現況に応じ其の最近弾の線に突進す。

c.此の第一次の制圧射撃終るや破壊班は猛然躍進し、予め指示せられたる地点に於て一気に鋏断作業を行う。此の際、我が砲兵に依り制圧せられたる敵、殊に自動火器、側防機能等は再び頭を擡(もた)げて極力破壊班の動作を妨害することに勉むるが故に我が軽機関銃、機関銃、歩兵砲等は機を失せず最活発に行動し、此の敵を猛射し破壊班の作業を掩護することが必要である。実に破壊作業の成否は之等後方よりする掩護の適否如何に関すること極めて大である。
破壊班はその作業を終れば再び最初の躍進地点附近に後退し、又はその附近にある砲弾の弾痕を利用し我が砲兵よりする第二次制圧射撃の終るを待つのである。

d.所要の破壊口の開設奏功せば砲兵は第一次制圧射撃に準じ更に第二次制圧射撃を行ふ。
突撃歩兵の主力は此の第二次制圧射撃間を利用し砲兵の最近弾の線に膚切する如く躍進す。
以上砲兵の第一次及第二次の制圧射撃の間隔、換言せば第二次制圧射撃実施の時期は破壊班の疾駆前進、鋏断作業、疾駆後退に要する時間を予想して歩兵大隊長と直協砲兵部隊長と協定すべきもので通常二分乃至五分である。
その時間の基準は次の如し。
百五十米躍進時間(低姿勢、各個躍進) 約一分三十秒

強行破壊時間 約三十秒(熟練作業手、深さ四米)
後退時間 約四十秒
合計 約二分四十秒
而して、当初の協定に於て第二次射撃を時間により第一次射撃何分後よりとすべきや、或は歩兵大隊長より突撃路開設終了の通報を待ちて開始することとすべきやは各利害の伴う所にして、要は戦場通信の至難なる点に着意し、特に最重要なる時期に於て歩砲両部隊の連絡を中絶することなきが如く最確実なる各種の方法を併用すべきである。

e.砲兵の第二次制圧射撃終る稍々前、大隊長は砲兵に射程延伸を要求し之に依り砲兵は友軍第一線に危害を及ぼさざる限り成るべく近く其の前方に在る敵に射撃を転移し、或は敵の増援を遮断し歩兵は機を失せず我が砲火の制圧効果を利用する為其の最終弾と共に突進す。
敵陣地制圧の情況に依りては第二次射撃後更に之を復行するを要することあり。

f.歩兵は右の如くして突進するも多くの場合一挙に敵陣地に突入するに至らずして、再び擡頭(たいとう)する敵の歩兵火に遭遇し、爾後自ら自己の火力を以て敵制圧しつつ一進一止敵に近接し、遂に各分隊各小隊一団となり好機に投じ突撃を敢行するに至るものとす。』

(初級戦術講座 前篇,琢磨社,1939,pp.397-398)

歩兵、工兵のみで行う場合
野戦築城教範(昭和2年)
第三百七十六 突撃路の開設は夜暗、濃霧等を利用し敵の不意に乗じ隠密に実施するを可とす然れども状況之を許さざる場合に在りては我が掩護射撃の下に之を強行せざるべからず
此等の作業を行うに方り煙幕を使用するを有利とすることあり」

歩工兵が鉄条網の処理を全て行うもの。
歩工兵の鉄条網処理法は、大別して二種。
一、隠密作業
二、強行破壊

隠密作業
主として夜間に行われる作業で、鉄条鋏等の器具による切断により鉄条網を除去、突撃路を開設する。
敵に発見された場合は、一時的に隠れるか退避するかして敵の射撃が止むのを待ち、その後作業を再開するか、そのまま強行破壊へと移行する。

野戦築城教範(昭和2年)
第二百六 ...班長は作業手を率い地形、地物を利用し要すれば匍匐して静粛に前進鉄条網の前縁に達せば破壊すべき杭列を指示し作業手を其位置に就かしめ作業を実施せしむ
作業手は先づ鉄線を杭又は鉄線相互の固定線より約三◯糎隔りたる所にて静に鉄条鋏にて鋏み之に切缺(きりかき)を設け次で両手を以て切缺部に於ける鉄線の両側を握り静に折り取り其長き方の線の一端を成るべく固定点より遠き位置に於て地中に挿入し又杭に固定せる短き方の端末を敵方に向ひ折り曲ぐ此の如くして逐次鉄線を切断し鉄条網帯の後縁に到る
鉄線の截断(せつだん)に方り細き鉄線は先づ太き鉄線と同一の方法に依り之を截断し其各端末は遊動せざる如く太き鉄線又は杭に纒絡(てんらく)するものとす」

強行破壊
昼間、または敵に発見されているような状況下で行う作業。
強行破壊の際、歩工兵は共通して鉄条鋏を使用するが、工兵は破壊筒を使用する場合がある。

器具(鉄条鋏)による方法
野戦築城教範(昭和2年)
第二百七 器具に依る鉄条網の強行破壊は鉄線に切缺を設くることなく迅速に之を截断するものとす...」

破壊班は班長の命令一下、敵火の間断を縫い、友軍の射撃の妨げとならないように地形地物を利用して各個前進、匍匐等を駆使して鉄条網に向かう。敵火が熾烈となったり、掩蔽物の無いような場合は鉄条網に向かい突進、截断作業を強行する。
隠密作業の際は鉄条網に鉄条鋏で切れ目を入れ、その部分を折り曲げての切断を行うが、強行破壊の場合はそれをせず、鉄条鋏でもって一気に切断する。

破壊筒による方法
第三百七十六 ...班長は作業手に任務、配置及点火後後退すべき位置等を指示し破壊筒を携行せしめて前進し鉄条網の前縁に達せば破壊筒を挿入すべき位置を示し作業手は協力して鉄条網の下部に於て勉めて杭脚に近く且鉄条網帯に直交する如く破壊筒を其全深に亙り挿入し次で点火に任ずる作業手は班長の指示に依り之に点火したる後各作業手は所定の位置に後退するものとす...」

破壊筒による鉄条網破壊は工兵の任務。
破壊筒を数人で運び、鉄条網に取り付いたら破壊筒を鉄条網下に挿入して点火、突撃路を開設する方法。破壊筒の他にも爆薬を使った鉄条網破壊法もある。

掩覆通過による方法
土嚢袋や藁、ハシゴその他のものを鉄条網の上に架けたり、覆ったりして通過する方法。
鉄条網が小規模で掩覆材料が豊富な場合に行う。

突撃作業に関する詳細は専門の教範を確認のこと。

基本的な鉄条網の破壊は以上の通り。
一応、ほとんど行われなかったであろう処理法を紹介して本投稿は終了である。

歩兵の射撃による処理
この方法は、鉄条網の破壊に関することが記述されている教練書や戦術書でもほとんど採り上げられていない。よって、ほぼ行われていない方法だと思われるが、一応鉄条網の破壊は歩兵の火器でも可能だった様子。

諸兵射撃教範 第一部
第三十六 鉄条網内に落達せる砲弾は其の破片に依り鉄線を切断し且弾著点に接近せる杭をも切断す而して四一式山砲、九二式歩兵砲、曲射砲の榴弾鉄条網の前方及内部に縦方向に相接近して数発落達するときは破壊口を概成し得
小銃弾も亦鉄条網の鉄線を切断し破壊口を概成し得」

第四十三 ...射撃に依り深さ六米内外の鉄条網に破壊口を概成する為の所要弾数は実験の結果概ね左の如し
軽機関銃 射距離 二、三百米に於て距離の米数の約二倍
重機関銃 射距離 四百乃至六百米に於て距離の米数の約二倍
四一式山砲•九二式歩兵砲 射距離千米以内に於て約二十発」

所要弾数を見るとあまり教練書等に出てこない理由がわかる。
つまり、軽機は距離200mで約400発、重機は距離400mで約800発も射撃しなければ鉄条網に概成破壊口を開設出来ないわけだ。非常に効率が悪い。
山砲や歩兵砲はさて置き、小銃や軽重機関銃による鉄条網破壊は専門にこれを狙うものではないだろう。

2015年11月3日火曜日

『萱嶋大佐実戦談摘録』抜粋 (三)

七、追撃

敵は十月二十三日午後十時退却を開始せるを知れるも、二十四日払暁(ふつぎょう)より追撃前進に移る。

大場部隊の追撃

大場部隊は此の際、六百名の補充を受く。現役将校は連隊長、旗手、砲兵隊長のみなり。中隊長集合の際、伍長の来たる中隊あり。
之を二大隊に補充し、第三大隊は其の侭(まま)となす。
大場部隊は、忻口鎮ー太原道を敵に近く追躡(ついじょう)しつつ追撃す。其の疲労甚だしく、四列側面縦隊隊形すら認めず、「ヒョロヒョロ」にて追撃す。敵も亦「ヒョロヒョロ」にて、疲労困憊其の極に達し居たり。

教訓
1、大場部隊追撃は戦闘綱要二◯二の二(※)に依れるものにして、大成功を収め、迂回せし部隊は却って敵の抵抗に遭い、萱嶋部隊の太原北方に来たりしは十一月六日にして、大場部隊より遅延するに至れり。

※戦闘綱要 第2022
『戦闘後ハ勝者ノ疲労モ亦大ナリト雖(いえども)敗者ハ体力、気力共ニ一層困憊シ其疲労ハ殆ト極度ニ達スルモノナルカ故ニ勝者ハ部隊ノ損傷、整頓等ニ拘束セラルルコトナク一意追撃ヲ敢行シ以テ最終ノ勝利ヲ完ウスヘシ此際各級指揮官ハ再ヒ多大ノ損害ヲ払ヒ敵ヲ攻撃スルノ已ムヲ得サルニ至ルモノトス』

八、太原攻略戦闘

萱嶋支隊は、十一月八日払暁迄に敵前四◯◯米附近に攻撃準備を命ぜられ、七日正午出発す。途中道を失し、敵若干部隊と太原東方山地に於いて遭遇。之を撃退し、階段斜面を降下す。幸い、敵の射撃を受くることなく敵前九◯◯米の位置に達す。
重砲中隊の協力を受け、太原城壁東北角附近に二条の突撃路を構成すべく要求し、所要の協定をなす。
八日午前七時頃より砲兵は射撃を開始し、操典草案の如く、各分隊は四◯◯米の距離より各個前進を起す。前進途中、敵の手榴弾射撃を受けたるも其の分隊のみ停止し、他は依然前進し側背より敵を攻撃し之を撃退す。午前八時半、突撃路開設の報を得、各中隊は砲弾に膚接(ふせつ)して突入し、太原城を午前十時前奪取す。
此の際、損害一名もなし。

教訓
1、操典草案に依り、理想的攻撃前進法は此の時始めて体験し、実に気持ちよき戦闘を為し得たり。是迄の戦闘に於いては、兵は地物に蝟集(いしゅう)し幹部に叱責されありしも、此の際は操典草案の通り前進し、砲弾に膚接する突撃を始めて実施し、損害の一名もなかりしを体験し得たり。
是、各隊が戦闘に慣熟せる結果なり。

九、結言

之を要するに、戦闘の教訓として求むべきは、極局操典、要務令、先輩の言の通りに実施せば可なるものにして、失態ありし際は、典令範の実行を怠りしか又は、「ウッカリ」せし時のみに生起するものなり。
又、戦闘の最初に於いて勇猛果敢に敵に突入せる者は生存者多く、戦争慣れをすれば支那軍の迫撃砲弾の如きは避け得らるるものなり。

2015年10月28日水曜日

『萱島大佐実戦談摘録』抜粋 (二)

六、萱嶋支隊忻口鎮附近の戦闘

編成
歩兵第二連隊
戦車中隊
騎兵中隊
工兵中隊
輜重
砲兵は諸種の関係上、後送せらるる筈なるも、当時は附しあらず
参謀一、各部も小乍(なが)ら附す

5D司令部は太原北方原平鎮に在り、第5師団長の隷下に入らしめらる。大同迄は汽車輸送とし、大同より原平鎮迄は騎兵、戦車、大隊砲連隊砲の馬は徒歩行軍。其の他は自動車輸送に依り、途中敗残兵と戦闘しつつ、十月十八日より二十三日迄に原平附近に集結を了す。
第五師団は、当時迄に作戦七十五日、戦闘三十余回なり。行軍行程百有余粁にして、現役将校は殆ど戦死傷しあり。
第五師団将兵は、萱嶋支隊来たるの報に将兵の士気大いに揚がる。

戦況の概要
二十二日攻撃開始の筈なりしも、二十三日午前十時を期して攻撃前進を命ぜらる。午前十時とせるは、太陽の関係にて、其の時刻にあらざれば観測困難なるに依る。
萱嶋部隊は二十三日、栗原部隊の後方に至り、之を超越して攻撃。師団砲兵の主力を以って協力せしめらる。
夜に入り大隊砲、連隊砲は皆山地に担ぎ上げ第一線と同線に出す。甚だ困難せり。
此の夜一度、右翼方面に敵の逆襲を受けたるも大なる損害なし。
砲兵射撃を開始するや、新操典の方式に依り、各部隊は前進す。谷底に至り、敵の背射、側射を受く。
原位置に後退するの已むなきに至れり。

手榴弾巣山攻撃概況
手榴弾巣山を一中隊にて攻撃せしに大損害を蒙り、准尉以下二十五名となる。
敵の手榴弾投擲は甚だ巧にして、我が部隊の投擲距離に前進するや洞窟より背投に依り集中す。其の数も亦夥(おびただ)し。
某小隊長500迄数えたるも、其の後は数うる能(あた)わざりしと。
次いで、工兵中隊を以って坑道に依る攻撃を実施す。
萱嶋支隊の工兵中隊は坑道中隊にあらざるも、小隊長に坑道を極めし者ありしを以って、教育しつつ坑道作業を実施し、有効距離と思意せる処(敵の土地を打つ音聞ゆ五米位ならんと)迄接近し、爆破せしも失敗に終わり、第二回目も亦有効距離に至らず。敵は破裂口より「ノソノソ」登り来れり。
次いで、将校斥候の偵察に依り交通壕の入り口を発見せしに依り、歩兵の破壊班を以って遂に之を奪取す。其の要領左の如し。
第一班 将校の指揮する十二名 正面
第二班 下士官の指揮する十二名 右側
第三班 将校の指揮する十三名 左側
午後六時半を期し、一斉に突入す。第一班全滅、第二班は最初に飛び込みし下士官の外(ほか)全員死傷す。第三班は四、五名のみ死傷者を出せり。

教訓
1、手榴弾戦に在りては、最初に飛び込める勇者は多くは生存するも、後(おく)るるものは敵に準備の時間を与うるを以って戦死傷者多し。

2、指揮官の位置に蝟集(いしゅう)するの風は尚矯(た)まらず。本戦闘に於いても損害を受けたり。

3、軍艦山附近に於いて、敵の夜襲を受く。敵は迫撃砲を以って射撃せり。最初、兵は恐怖心より射撃せしも沈静せば、敵の夜襲を軽視し、沈着して行動するに至れり。

4、敵の迫撃砲の爆音は甚大にして、精神的威力は大なるも、命中効力は比較的少なし。後方部隊にして岩陰に依れる者は却(かえ)って損害を蒙りたり。

5、大平山攻撃に於いて、谷底に至るや俄然側射、背射を受け、二◯◯名の死傷者を出せり。戦闘に於いて、後傷は武士の恥辱なりしとして教育せしも、此の際は後傷を受くるに至れり。


『萱嶋大佐実戦談摘録』抜粋 (一)

本投稿はガリ版の資料と一緒に綴じられていた印刷物の転載である。
萱嶋大佐(恐らく後年中将となった萱嶋高)の実戦談の講話を文章化したもののようだ。
全文を採り上げるのは量的にも厳しいので、一部を省略した抜粋という形になるが紹介しようと思う。
昭和12年(1937)の太原作戦の話である。この時期は歩兵操典草案が配賦された頃の話で、草案の戦法に関する感想がほんの少し出てくる。草案が昭和3年の歩兵操典と比べてどうなのか、ほんの参考程度にしかならないが、こういった話は結構珍しいので今回紹介する次第である。

一、緒言

萱嶋大佐は支那事変に際しては、支那駐屯軍歩兵第二連隊長として当初、通州の警備に任じ、第二十九軍の歩兵大隊の武装解除を行い、南苑の攻撃に際しては、之に赴援参加を命ぜられ、其の退路を遮断したるも大なる戦闘を行わず。次いで、北寧鉄道の警備に任ぜられ、十月、萱嶋支隊を編成し、第五師団の忻口鎮、太原の戦闘に参加し、終了後士官学校に転任せられたり。大佐は自己の戦功に対しては極めて謙遜しつつ、努めて戦場の実想を明らかならしむる如く講話せられたり。之を整理収録したる為、真相の脱逸、聞き漏らし等なきやを恐る末、文章推敲の余地多きも、敢えて印刷に附することとせり。

三、通州の戦闘に就いて

萱嶋連隊は事変当初、通州警備の任を受け、天津より行軍(約二十五里)に依り、七月十八日朝、通州師範学校に到着す。
当時の編成左の如し
歩兵二大隊(各大隊は二中隊とMG一隊とす)
連隊砲一隊 …四門
第一大隊砲小隊 …六門
機関銃隊…八門
歩兵中隊…銃剣二◯◯(弾薬各自二七◯携行し、手榴弾を有す)
中隊はLMG分隊二小銃分隊二擲弾筒分隊一(二)
山砲二中隊
十五榴…二中隊
輜重……なし
大、小行李…支那大車を以って編成す

高粱(コーリャン)は、二,◯◯二,五◯米繁茂しあり
当時、軍司令官より八里橋以西には一兵も出さざる様厳命あり。
駐屯間、屡々(しばしば)29軍の武装解除を具申せしも容れられず。特務機関も亦楽観しあり。此の間、城壁攻撃及び高粱畑通過(方向維持)の訓練のみを行う。
萱嶋部隊は、通州駐屯支那兵の武装解除の後、明払暁(ふつぎょう)迄に南苑攻撃の為、其の東北角に進出を命ぜらる。
武装解除には約二時間を費やせり。

教訓
1、本部等に蝟集(いしゅう)するは大禁物なり
連隊長が戦闘開始前、要図(※要図は省略)の位置の城壁に上り敵情を視察中、連隊本部機関、命令受領者等多数蝟集せる時、支那迫撃砲三発を受け、一発は先ず左後方遠く。第二弾は右後方に落下し、大なる効力なしと考え居たる所、第三弾命中し、連隊副官、旗手、通信班長負傷し、兵一名戦死者を出すに至れり。

2、地物に蝟集せざること
兵に喧(やかま)しく注意せるも、尚十分ならず為に損害を蒙ること多かりき。

3、家屋及び囲壁に依る敵を攻撃するに方(あた)りては、大隊砲、連隊砲等を以って家屋及び囲壁を射撃することなく、其の前方に在る陣地を直接射撃するを要す
本戦闘に於いて、高粱繁茂しありし関係上、大隊砲は約六十米迄接近し、囲壁に突撃路を開き、突撃せり。其の命中は実に正確にして、家屋及び囲壁の崩壊する状壮観なりき。故に敵は既に逃走せりと思料せるに、地上の陣地に在りて抵抗せり。

4、手榴弾教育は兵をして、心手期せずして投擲せしむる如く訓練を要す
手榴弾教育には平素意を用い、内地部隊の三、四倍も多くの力を注ぎ、検閲にも十分注意し、之にて十分なりと思う程度に訓練せり。然れども、実戦に方りては、安全栓を抜くことを忘るるもの、発火を確認せざるもの等ありて不発多かりき。
又、日本軍の手榴弾よりも支那軍の手榴弾の精度良好にして、兵は好んで支那軍の手榴弾を使用せり。

5、戦闘中臨機に応じ、飛行隊にて規定せる空地連絡規定は其の効果絶大なり
(かね)て、空地連絡規定に依り連絡事項を定めあるも、戦闘間は対空兵の故障、布板を適宜携行しあらざる等、事故あるを以って、臨機飛行機より連絡規定を定めて、相互連絡するは大に効果あり。例えば、爆撃せよ、返事、爆撃不用等。

6、要点を占領せば、若干の守備兵を残置するを要す
要点を占領して、守備兵居らざるときは、何時の間にか敗残兵侵入しありて、後苦戦することあり。本戦闘、忻口鎮の戦闘又は追撃等に於いて屡々体験せり。

7、支那兵の一部は頗(すこぶ)る頑強に抵抗し、最後の格闘迄逃げざりき

8、鉄帽は気休めのものなりと思料しありしも、本戦闘に於いて支那兵と格闘せし際、支那兵は青龍刀にて我が兵の面を撃ち、我が兵は刺突をなし、相撃ちとなりたるに、我が兵は鉄帽に依り、単に瘤を生ぜしのみなり。又、南苑の戦闘に於いて鉄帽なき兵は多く戦死し、被れるものは助かりたり。


四、翌二十七日、保安隊と交代すべく取極めありたるも来らず。一時該地を引き上げ、守備隊の位置に帰る。
二十七日、夜行軍を以って南苑に至る。大車を以ってする大小行李を有せしを以って、六時間を要する距離を十二時間を要せり。
小コウ門に至るや、敵の退路遮断を命ぜられ、実に愉快なる戦闘を為せり。然れども、完全なる退路遮断の効果を揚ぐることなく、盧溝橋方面の戦況に依り豊台に前進を命ぜられ、夜十一時頃豊台練兵場に到着し、露営す。其の隊形は概ね陣中要務令に準拠して行えり。豊台には我が兵営ありて稍安心し居たり。
此の夜、敵約三◯◯名、東、北門より夜襲し来るも、遠方より大声を発し、盛んに射撃を行う等、威嚇的行動に過ぎざりき。
我が兵、これに応射し大声叱咤して制止するも、尚射撃せり。此の際、下士官一名負傷せるのみなり

教訓
1、大車を以ってする大小行李は、支那人の所有者之に附しありしを以って、敗残兵の為大混乱を生起せざるやと心配したるも、最後迄跟随(こんずい)し来れり。訓練せば支那人も使用し役に立つべし。

2、緒戦に於ける射撃は、兵は敵を見れば勝手に行い勝ちにして、将来十分注意を要す
南苑攻撃に於いて、敵の退路を遮断せし際、兵は「ソラ出タ出タ」とて、勝手に射撃し甚だ困惑せり。之がため、我二、三発の射撃に依り直ぐに引っ込み大なる効果を揚ぐる能わざりしも、幹部の制止厳命に依り誘引射撃を行い、大なる効果を収め得たり。

3、支那兵の夜襲は遠方より「ワイワイ」騒ぎ、威嚇的虚勢の夜襲なり。之が為、敵は多大の損害を蒙れり。又、紛に之に応射する時は、彼我の識別不明瞭となるを以って、指揮官の厳命に依り射撃を開始するを要す。


2015年10月26日月曜日

『皇軍史』による、旧軍の明治〜昭和の戦法・兵器概観

昭和18年(1943)発行の『皇軍史』(教育総監部 編)は、古代から現代(昭和18年)までの日本の軍隊に関することを概要的に記した書籍である。国民向けの書籍ではないためか、比較的淡々とした文調が続く。
ただし、精神教育の性質を帯びた書籍のように思えるので、読む際には注意が必要。

本書は、信頼性はどうかという点はひとまず置いておき、軍事に関する読み物としてはなかなか良い具合だと思う。
この書籍の各章末には、兵器や兵法等の概要的な説明がある。
古代や武士の時代はさて置き、明治以降の戦法や兵器等の概説部分を見てみよう。内容は非常に簡素、本当に概要を述べているだけだが、日本軍の近代戦法の変遷を見るのに良い資料となると思う。


(廿九) 兵学、武道等の概観
一、兵学

 明治維新と共に本邦戦術は再び開発の曙光を発するに至った。明治三年十月二日の布告を以って陸軍は仏蘭西式を斟酌(しんしゃく)編成すべきを命ぜられて、本邦戦術始めて一途に帰した。明治五年十一月に徴兵令を布き、翌六年四月始めて之に因りて兵を徴し、歩、騎、砲、工、輜重の諸隊を作り全国六鎮台を置き主として仏国歩兵操典に基き練習せられた。之が我が国操典採用の嚆矢(こうし)である。此くして諸鎮台の兵を錬成しつつあった間に萩、佐賀の乱、台湾征討等の諸事件があったが、一部隊の出動で其の指揮官たる将校は維新前の戦法、即ち本邦の古戦法に拠って戦をなした。西南の役にありては、維新以来初めての国難であり、国家の全兵力を動かし、当時の日本に取って大戦争であった。

 官軍の採用した戦法は千八百七十年戦前の仏国操典であって、実際戦闘を指揮した将校は古戦法を主とし、之に英、仏、蘭等の戦術の一端を学んだ所の士が多く、所謂短兵接戦を潔とする人達が勢力を有して居った。

 賊軍は名に負う薩摩隼人で而も新兵器に乏しいので多くは切り込みを主とする戦闘手段であって、全般から見れば此の戦役は小銃と大砲とを持ち洋装をした鎮台兵と、刀槍小銃を主とする薩南健兒との接戦であった。

 然し、賊軍が切り込みを主とするので官軍も結局抜刀隊を編成して之に当った。彼は薩南健兒、我は農民を主とする徴兵であるから、銃砲を以って遠くより敵を撃ち砕くを得策とし散開して敵に当り、特に包囲迂回を重んじ、先ず散兵を以って火戦に任じ、後方部隊が之に跟随(こんずい)して銃槍突撃を為し、砲兵は間接に援助するに過ぎなかった。然し乍(なが)ら地形の錯雑せると小部隊が各個に使用せられたので、結局此の戦役は古戦法の精神に洋式の着物を着けた様なものであった。

 其の後、明治二十四年迄は日本に独仏の応聘武官来り、就中彼の有名な「メッケル」は明治十七年から同二十年に亙(わた)って大に我陸軍の編成や戦術の改良にあずかった。之は主として首脳部や大学校の間に行われたが、軍隊は尚仏式を脱却せず、戦場では散開に次ぐ密集部隊の突撃を以ってするのであった。

 当時欧州に於いては無煙火薬が発明せられ、其の結果連発銃が採用せられて、歩兵戦術に一大革新を来し、従来の様に密集部隊は軽々に敵歩兵火の下に現出することは困難となった。

 偶々(たまたま)普国陸軍は歩兵操典を発布したので、今迄主として仏式を範として採用し来った我が陸軍は普仏戦争勝敗の原因を研究し、又其の後独逸の国威隆々たるものあるを見、且つ彼の「メッケル」の精到該博な兵学に指導せられた結果、我が典型として独陸軍を選び、明治二十四年に至り歩兵操典を改正発布し、鋭意訓練を積みて日清戦争を迎えた。当時の戦法としては、先ず我が砲兵を以って敵砲兵を求めて射撃し、敵砲兵の沈黙するに及んで我が歩兵の攻撃の衝に当る敵歩兵を射撃した。歩兵は敵前概ね七、八百米乃至千五六百米位で散開し、概ね六百米乃至千米附近で射撃を開始し、歩兵は交互に掩護射撃をして前進し敵に接近するに従い、逐次後方密集部隊を前方に増加し、遂に二三百米附近より敵に向かって勇敢に突撃したものであった。

 日清戦役の経験と、兵器の進歩と共に、明治三十一年に歩兵操典が改正発布せられたが、大体に於いて二十四年のものと大差無かった。
 此の操典に拠って、我が曠古(こうこ)の大戦、日露戦争は実行せられた。其の戦法に基いて愈々戦闘開始すると我が砲兵が敵砲兵を、圧倒沈黙せしむることは砲数弾薬等の関係上不可能なるのみならず、爾後歩兵の前進を支援することも頗(すこぶ)る困難で、開戦後間もなく歩兵は砲兵の成果を待つことなく前進することとなり、砲兵は適時射撃を以って歩兵を支援する所謂歩砲協調の意味に変わって来た。

 又歩兵は、敵前五、六百米で連発銃を以って射撃を開始すれば、敵は退却すると判断して居ったが、敵は名に負う防御力の強い露兵で二、三百米に迫っても容易に退かず、茲に頑強なる敵には最後の止めを刺す銃剣突撃を要したのであった。

 又旅順は容易に陥落せぬので海岸の要塞から二十八糎榴弾砲を卸して、攻撃に使用してよく旅順の死命を制し、又彼の第一太平洋艦隊を全滅したのであった。

 欧州第一次戦争当時、独逸軍が四十二糎の巨砲を使用して電撃一挙、白耳義(ベルギー)国境要塞を粉砕して敵の心胆を寒からしめたのと同様であった。
 斯くの如く日露戦争は砲兵に関して大なる変化を見なかったが、要塞攻撃や堅固なる陣地攻撃にて巨砲の必要を痛切に感ぜしめ、又如何に兵器が進歩しても、結局勝敗は士気旺盛なる歩兵の剣尖で決せらるるものであることが、今更世界に証明せられた。

 我が陸軍に於ては、日露戦争の経験に鑑み戦後間もなく三八式野砲、同加農、同榴弾砲を制定し、我が砲兵は茲に名実共に速射砲を有する事となった。次で小銃、機関銃も三八式が制定せられ、此の新兵器と戦後の経験とに由って、明治四十二年に歩兵操典が発布せられ、次いで騎兵、砲兵等の操典も改正せられ、茲に純然たる日本固有の戦法が定まった。即ち、軍の主兵は歩兵で白兵主義を採用し、戦闘は概ね散開隊形を以って終始するも、最後は肉弾と白兵に依る根本方針を定め、歩兵の運動は中隊毎に中隊長の号令を以ってすべきを定められ、歩兵連隊長は最後まで一部の兵を掌握し、軍旗と共に敵線に突入することを明示せられ、従って、歩兵の機関銃は至近の距離にて最も必要なる点に集中穿貫(せんかん)的効果を発揮し、肉弾の飛び込む穴を明けるを本旨とし、砲兵は先ず敵砲兵を求めて之を制圧撃滅に努め、歩兵が前進するに当たっては、歩兵に対する抵抗物を破砕するを主義となし、騎兵は大集団となりて会戦当初敵情捜索に任じ、彼我接近するに従い、両側(りょうそく)或いは一翼に退き、更に好機に乗じ、敵を脅威、急襲戦闘に参加し、或いは追撃に任じ、敵を殲滅し、或いは敵の追撃を拒止するを原則とし、工兵は諸般の技術工芸の進歩と共に築城に架橋に通信に運輸に、益々其の特色を発揮する様になった。

 以上の如く、我が陸軍の戦法は日本独特に形式と内容とを完備し、各隊営々として訓練に従事しつつ、明治を過ぎ、大正の御代となり、遂に世界大戦の時期に移り入ったのである。

 世界第一次欧州大戦に於ける欧州列強の陸軍は開戦当時、火砲は日本軍のものより幾分優れて居たが、小銃や機関銃等は凡優り劣りなく、飛行機の如きは極めて貧弱なものであった。日露戦争の日本軍と殆ど大差ない原則の下に戦争に入った。然し、戦争は西方に於いて間もなく陣地戦となり、軍人と云わず、学者と云わず、技術者と云わず、悉(ことごと)く脳漿を絞って敵に優る新兵器を発明し、昨の新も今の旧となり、夜を日に継いで偉力あるものを採用し、其の結果、戦争末期には歩兵は小銃より寧ろ軽機関銃を主兵器とし、之に加うるに重機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾等を以って自ら抵抗を排除し、遂に白兵を以って敵に最後の止めを刺さんとし、敵も亦同様の武装をして、彼処(あそこ)に一兵、此処に一銃と抵抗巣を設け、之を交通壕で彼我連絡して網状に編成し、其の中の要点々々に最も堅固なる拠点を作り、全陣地の奥行きは千米にも二千米にも及び、而も之が一帯でなく、本陣地の前方に警戒陣地あり、又後方には第二第三陣地帯があって、戦略的攻勢移転の拠点を形成するが如き、全くの面式陣地帯を構成するに至った。且つ又、戦場に於いては、毒瓦斯の放射、瓦斯弾の落下、或いは火炎放射器の猛火、飛行機よりする爆弾の投下等、真に此の世からの修羅場を現出した。遂に陸上戦艦とも称すべき戦車の出現を見るに至り、愈々隊形及び築城の疎開、交通の発達、軍制の革新等を来し、其の結果は戦略、戦術上に至大の影響を及ぼし、教訓と為す所尠(すくな)くなかった。

 我が国も世界大戦に際し、青島の攻略や「チェッコ・スロバック」軍救護の為、一部の軍隊を大陸に出したが、大戦はなかった。そこで我が陸軍は、主として欧州大戦の経験に基づき、国軍戦術の改善を図った。茲に典範令は着々革新せられ、大正十二年正月、歩兵操典草案発布せられ、国軍をして従来に於ける散開戦闘方式の旧套(きゅうとう)を脱して、新たに改正せられたる編成装備に応ずる新戦闘方式の端緒を開き、爾後、幾多の実験研究を重ねた結果、大正十五年、戦闘要綱草案を編纂配賦して、大に国軍戦術の研究進歩を促した。

 昭和の御代となって間もなく、従来研究せられつつあった操典草案も昭和三年に改正発布せられ、茲に遺憾なく国軍の特色を発揮し、国軍戦術上の要求に順応する諸兵種協同戦闘原則を確立し、翌四年に戦闘綱要の制定発布を見、尋(たずね?)て其の他の兵種の操典も逐次改正発布せらるるに至って、我が国軍の戦術上に一大進歩確立の礎石を築くに至り、最近更に作戦要務令を制定せられ、愈々茲に国軍兵学書としてその完璧ををなすに至った。

※参考:昭和3年歩兵操典から国軍の戦法が散兵線戦闘から疎開戦闘方式へと移行。昭和12年に歩兵操典草案が配賦され、戦闘群戦法への移行が始まり、昭和15年歩兵操典の改訂により、戦闘群戦法へ正式に移行。
(後略)


(三十) 兵器、築城、給養等の概観
一、兵器

 明治維新の朝敵征討に従事する官軍諸藩の採用せし主なる兵器は、小銃に於いて施綫口装(※ライフリング有り、前装/先込め式)エンピール銃(※エンフィールド銃)、底装のスナイドル銃等で、火砲に於いては口装青銅四斤の野山砲であった。其の後、エンピール銃を底装してスナイドル銃に改造し、交換支給するに至った。騎兵と砲卒にはスペンセル及びスターなる米国式底装騎銃を、歩兵工兵には、シャスポー銃(仏)を、騎兵、砲兵の馭者(ぎょしゃ)教育用として軍刀を支給せられた。

 明治十年の西南役当時は、薩軍は洋式銃のエンピール銃を主とし、各自持ち寄りのものが最も多く、官軍はエンピールが数多く、スナイドル銃を相当持って居って、八百乃至五百米突で相当の効力があった。

 火砲は仏国の四斤野山砲で、其の有効射程は二千米位であった。戸山学校教官 村田歩兵少佐、軍用銃視察の為欧米に派遣せられ、帰朝後、日本軍用銃を考案研究し、明治十三年に東京及び大阪に砲兵工廠成ると共に、此処にて日本軍用十三年式村田式銃の考案を完成した。底装金属薬筒を結束する尖頭鉛弾であって、十八年に一部改造して十八年式と称した。

 明治十四年に太田砲兵少佐を仏、墺、伊三国に派遣し、十五年帰朝後、大阪砲兵工廠に伊太利砲兵将校を聘して、鋼成銅造兵の技を伝え、底装七珊野山砲を製造し、榴弾、榴霰弾、霰弾を使用し、当時列国砲兵に比し遜色がなかった。

 科学の進歩は世界火薬の革命を起こし、無煙火薬現れ、列国競うて研究に従事した。我が国に於いても無煙火薬の研究を遂げ、連発銃考案成って、明治二十二年、遂に連発銃を製作し、銅製被甲の弾丸を金属薬筒に結束する弾薬筒十個を銃床弾倉に有する二十二年式村田連発銃を作った。

 日清戦役には、戦線の各隊は皆、村田歩兵銃を用い、兵站守備の後備部隊はスナイドル銃を、砲兵は七珊野山砲を用いた。

 其の後、村田連発銃は時代の要求に伴わざる疑ありて、製造を中止し、明治三十年、砲兵会議の審案の結果、三十年式歩兵銃並びに、三十一年式連射野山砲が現出した。銃は連発の最鋭なるもの、装脱式弾倉中に、ニッケル被甲の尖弾と無煙小銃薬を用うる弾薬筒五発を有し、列国と其の範を一にした。砲は列国と其の範式を異にして、其の威力を等しくした鋼砲で、榴弾、榴霰弾を用い、所謂有坂砲がそれであった。

 明治三十三年の北清事変の時が、三十年式銃三十一年式砲は製造中で、村田連発銃七珊野砲とを使用した。三十年式銃は、明治三十三年末、三十一年式砲は三十六年二月、普(あまね)く軍隊に交換支給された。

 日露戦争に於いては、主として三十年歩兵銃と三十一年式砲とを用いた。後備師団は止むを得ず、初め村田銃と七珊野山砲とを使用したが、弾薬補充困難の為、後で交換し、兵站守備の後備隊は村田単発銃を用いた。

 旅順攻囲の攻城砲は、新築の堡塁抵抗力を破壊する為に内地海岸砲台の廿八珊榴弾砲を撤して、攻囲砲兵に加え、其の巨弾を以って蟄伏(ちっぷく)艦船、堡塁を撃破し、彼の肝胆を寒からしめた。

 戦後、更らに優良なるものを得んとして、審査研究の結果制定せられたるものが即ち三八式歩兵銃及び三八式野砲であった。

 大正三年の日独戦役の青島攻撃には、主に三八式歩兵銃重機関銃三八式野砲並びに各種攻城砲及び飛行機を使用した。

 シベリヤ出兵以後には軽機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾、戦車等を採用するに至った。又、海に於いて航空母艦、潜水艦が発達して、愈々空、陸、水の立体菱形的兵器の現出を見るに至った。

 第一次世界大戦の結果、欧州列強は兵器の創造改良進歩を遂げ、重軽戦車を初め、水陸両用の戦車、航空機の進歩発達、高射砲、列車砲、長距離砲等の改良進次を初めとし、化学兵器に於いては毒瓦斯、焼夷剤、火炎放射器等の新兵器の現出を見るに至り、特に航空機の進歩発達著しく、偵察機はもとより戦闘機、爆撃機、雷撃機、特に其の魚雷爆雷の活用一層重要せられ、重要都市の軍事施設の爆破を初めとし、不沈(と)称せし大戦艦をも轟沈せしめ、大東亜戦争に至りては、陸海軍競うて其の威力を揚げ、特に航空機の活躍、其の成果は欧米人の胆を奪い、世界の驚異をなして居るのである。

2015年10月24日土曜日

部隊という名の病院

これは昭和13年5月30日発行の軍医団雑誌 第300号に掲載された時事である。

五、安田部隊を視て
金 言 中 佐

◯◯に安田部隊が居る。
貴官ハ◯隊ヲ編成シ◯◯橋ト◯◯橋トノ確保ニ任スヘシ
 此れは◯◯地方が一時不穏になった本年五月下旬◯◯部隊長が安田部隊長に与へた作戦命令の一節である。
 ◯◯の一角、仰げば日章旗翩翻とはためく建物に『安田部隊』と墨痕鮮かな縦六尺幅二尺の大看板が懸っている、其の門前には戦時武装の歩哨が厳然と直立して居る、衛兵所には司令以下数名の衛兵が控へて居る、広い中庭には射撃予行演習と各個教練とを行っている数群の兵が居る、隊長室で部隊の状況を聞いて居ると突如非常呼集の喇叭号音が響き渡った、一しきり中庭に靴音が高かったが暫くにして止んだ、すると一将校が隊長室に入って来た、週番肩章を懸けた日直士官だ。
『全員整列を終りました』

 隊長は軍刀を提げて中庭に降り立った。
整列した部隊は一斉に隊長に敬礼する、其の緊張せる顔よ、その人員の多さよ、裕に一千名はあるであろう、そしてよく見ると整列人員中の将校以下の襟章は緋、萌黄、鳶、青、藍等々、色取りどりである、隊長は軍容を閲して一場の精神訓話を行った。
 以上が安田部隊の外観である。



 出動兵員の性病を根治せよ、病毒を内地に移入せしむる勿れ、部隊帰還に際し性病患者は之を残置して加療せよ、再発の虞あるものは其の市町村長に之を報じ治療を徹底せしめよ、野戦衛生長官は性病の内地汚染を警戒されて以上の指示を発せられた。
安田部隊は打てば響いて凛々と建ち上ったのである。



 此処は部隊長の室である、新入院患者を前にして
『一時の迷ひが今日の破滅を招いたのだ、御奉公に事を欠いた罪を何として御詫びするか、家族の顔を思ひ出せよ、駅頭で聞いた万歳の叫びと歓送された旗の波とを何とする、然し病気は病気だ、専心療養に尽して戦線復帰後は二人前の働きをせよ、此の病院は看板の通り『隊』である『病院』とは書いてない、病症の許(※原典は印刷ミスで脱字、文脈から予想)す者は戦闘部隊の訓練を行ふ。』
隊長は切々たる訓示を与へる。



 性病患者は概して其の素質が不良である、特に軍紀風紀の振作は最も必要とする所である、部隊長は部隊自からの精神作与を以て患者に対する範を示すに決心した、将校以下衛生兵全員に対し剣道を稽古せしめたのも実に是に因由するのである。教官たる飯島軍医中尉は四段であり村上補助衛生兵は五段である、其の他有段者が数名居る、真剣を以てする大日本剣道型は無言の大教訓を参列者に彫み附ける、大和魂が沸々と漲るを感ぜしめる、二十数名の剣道試合皇国日本を更に深く想起せしめる。



 性病の治療は当部隊の使命である、開設以来二箇月にして二千名中八百名の治癒者を出したる精進さは正に敬服すべきものであらう、特に最近フライ氏アンチゲンを調製して其の検定を終へ直ちに鼠蹊淋巴肉芽腫症の治療に利用し着々実功を挙げつつあるのは戦地の治療機関にして尚研究を怠らざる点に於て極めて推奨すべきものであらうと思う。



 隊長室の壁間には他の病院に見るを得ない壁書が一杯に貼られてある。
『一死報国、勇躍戦線に向ふ』
と書いた退院患者が自筆の宣誓書である、患者は隊長の入院時の訓示と軍隊式起居と節度ある治療との為に、愉快の裡に治癒を羸ち得てその退院を命ぜらるるや真に勇躍、鉄帽を負って原隊に復帰するのである、其の顔は御奉公を欠いた罪を謝する緊張で一杯である、一死報国は衷心から溯り出た血の叫びである。
 五月中旬から下旬に亙って展開された◯◯会戦には戦闘動作に妨げなき患者四百名を第一線に派遣して戦闘に参加せしめた、而し作戦後生命のある者は再度入院治療を完ふすることに此等将兵の所属隊長と協定が出来ている。安田部隊営庭内の教練も此の戦線復帰も共に刺戟後療法の一つとされているのである。◯隊を編成して二橋梁の確保を命ぜられたのも是に随伴した一戦況である。



 私は思ふ、治療に精進して治癒を速かならしめ、一方戦力の恢復増強を促進し特に戦地に於ける自衛力の発揮に努むることは陸軍病院の真の姿でなければならない、之が為には殊に病院管理の適正を緊要とする、管理の適正を期する為には精神作与が其の第一要義であり其の基調を為すものであらうと。
 長官閣下は安田部隊を視察せられていたく感激せられた、殊に精神教育の徹底に努力している状況を直視せられ、真剣な気分と長官の意図を所謂打てば響く式に具現されてる此の衛生部隊の偉容とに打たれて大いに之を賞賛せられた、部隊長に軍刀一振、剣道指導官に各々短刀を、出場衛生兵全員に自筆の賞牌を与へられたのも其の一つの表はれである。

2015年9月24日木曜日

小銃の紋章

『軍隊精神教育資料』(川流堂、鷹林宇一、1940)という書籍に小銃に刻印された菊の紋章についての来歴がまとめられている。
なかなか興味深い内容なのでご紹介しよう。




小銃々身に刻せられたる御紋章に就て

 一、起因――廃藩置県に伴ひ、明治五年各藩兵器を政府に還納せしが、是等兵器中には各藩の家紋又は徽章を彫刻しありし為、政府は所有権が国に移り陛下の兵器となれる事を明にするため、主要兵器たる銃砲には小なる御紋章を彫刻す。今日残存する当時の銃砲(兵器廠の参考兵器及遊就館陳列兵器)には、総てとは云い得ざるも多く見る所なり。

 二、制式小銃に御紋章を刻せられたる由来――前述の如き関係より維新当時陸軍使用の銃砲は殆ど御紋章附のものたりしなり。故に十三年式村田銃制定の際には自然御紋章彫刻の議あり。特に小銃は各人携帯のものなるを以て兵器の尊重心を涵養(かんよう)する事最も必要と認め、此の議を決行せられたるものなりと伝えらる。以後制定の各式小銃にも前例に基き刻せられ、今日に至れるものと認めらる。

 三、火砲に就て――明治十六年四月七糎野山砲の制定に伴ひ、御紋章を刻する事に関して詮議せられたが、当時の陸軍砲兵会議は諸種の理由に依り、之を否決し沙汰止みとなれり。

 四、小銃に刻せられたる御紋章の由来――明治五年幕府及各藩より兵器の還納があった。之等兵器には夫々幕府及二百六十余大名の紋章が刻しあって政府の兵器としては兎も角余り面白くない。そこで種々研究の結果、帝室の御紋章を之に刻することに決定し、即ち菊花の御紋章(単弁のもの)を打刻し、之を当時の軍隊に支給したが、之が即ち兵器に菊花御紋章を打刻した嚆矢(こうし)であった。遊就館及兵器廠所蔵の旧式兵器には総て此の打刻を見る。
明治十三年村田銃の制定せらるゝや該銃にも亦菊花御紋章打刻の議あり、東京砲兵工廠より陸軍省を経て宮内省に伺出て之を実施することゝなった(陸軍少将男爵村田經芳談)。当時東京砲兵工廠提理より陸軍卿大山巌に提出したる申進左の如し。

村田銃刻印ノ議ニ付キ申進(廠第十八号)
当廠製造之村田銃々身ハ別紙の図面(省略)之通刻印相用ヒ云々。
明治十三年八月十五日
陸 軍 卿 宛東京砲兵工廠提理
陸軍砲兵大佐 關   迪 教

 五、兵器局長の照会――大正四年四月八日筑紫兵器局長より兵第一八三号を以て、東京砲兵工廠及陸軍技術審査部へ(陸軍技術本部前身)左の如く照会があった。
(東京砲兵工廠提理へ照会)
『本邦制式小銃ハ村田銃以来御紋章ノ刻印有之候得共調査上必要有之候ニ付御紋章ヲ附スルニ至リシ歴史ノ大要ヲ調査シ通報相成度候成』

(陸軍技術審査部ヘ照会)
 本邦制式小銃ニハ従来御紋章ノ刻印アルモ其他ノ兵器ニハ之ヲ附セズ経過致居候処兵器尊重心ノ向上ヲ計ル為ニハ単ニ小銃ノミナラズ重要ナル兵器全部ニ之ヲ附スルヲ有利トモ認メラレ候ニ付本件ニ関スル貴部ノ意見並ニ既往ニ於テ本件ニ関スル研究有之候哉ニ及聞候ニ付其ノ経過等調査ノ上併テ通報相成度候也


右照に対会し砲兵工廠提理及技術審査部長回答の概要は左の通りであった。

(宮田東京砲兵工廠提理ヨリノ回答)
 大正四年四月八日第一八三号照会相成候本邦制式小銃ニ御紋章ヲ附スルニ至リシ歴史ノ件調査候処之ニ関スル記録無之亦文書モ現存セザル故確タル回答ニ及難ク候得共左記退役陸軍少将男爵村田經芳氏ヨリ聞得シタル点参考迄回答候也


 六、村田經芳氏の言――明治十三年村田銃を創製し之を軍用銃として制定せらるる際外国軍用小銃には徽章を刻しあるに倣ひ本邦製式銃にも御紋章を附したき旨東京砲兵工廠より陸軍省を経て宮内省に伺出で即時御裁可を得て之を実施するに至りたるものと記憶す
 【註】村田男(爵)の此の記憶に関しては砲兵工廠及陸軍省大日記に何事の記録なく殊に御裁可を仰ぎたる此の如きは頗る疑点に存す。

(島田技術審査部長の回答)
 本年四月兵第一八三号ヲ以テ照会相成候主要兵器ニ御紋章鍋刻ノ件ハ依然之ヲ鍋刻スルトセバ其ノ範囲ノ決定容易ナラズ実施上尠カラサル困難ヲ惹起スルコトト相成リ殊ニ兵器ノ種類ニ依リテハ使用間或ハ御紋章ニ対シ不敬ニ陥ルノ嫌ナシトモ申難候間小銃ノ如ク従来慣用セルモノヲ除キ其ノ他ノ兵器ニハ之ヲ鍋刻セザルヲ適当トスル意見ニ有之候也


 七、御紋章の菊花弁数に関する疑義――御紋章は三十二弁の菊花である。然るに小銃に刻せられたる御紋章は十六弁である、されば小銃の刻印は御紋章でない。此の議論は一時当事者間の問題となった事がある。之に対し当事者は左の如き断定を下した。
 御紋章は必ずしも複弁に非ずして単弁なるものある故に小銃の菊花章は御紋章に非らずと断定することを得ず。
 之で十六弁も三十二弁も等しく、皇室の御紋章であることは明瞭となったのである。
 菊花弁数に関し調査したる断片は次の通りである。
 抑〻皇室にあらせられて菊の御紋章を最初に御使用になりたるは、後鳥羽天皇の御代である。天皇は深く刀剣を愛せられて、遂には御親から太刀を御鍛へ給ふた。而して其の太刀には必ず菊花を銘せられた。現時此の御太刀の存在せるものは宮中に三振、九條、山内、水戸徳川、尾張徳川、姫路酒井、大島義昌及久原家に各一本にて都合十本である。之等菊弁は皆十六枚である。されば帝室御紋章は兎も角十六弁が根本ではあるまいか否か。其の後美観の為に三十二弁に変った。其の年代は不明であるが、毛利元就が正親町天皇の御即位式の資として米千石を献上し、天皇嘉納し永禄三年正月大礼を挙行し給ひ、詔して元就を大膳大夫に任じ菊桐の記号を賜ふた。此の時賜ひたる菊は始めて複弁で即ち三十二弁であった。是が抑〻三十二弁の嚆矢である様に思はれる。昔時は兎も角近時は我が皇室の御紋章は三十二弁である。今貴族院の玉座を飾る菊花御紋章は十六弁であって、当時某新聞が大に之を攻撃した事があった。議院が否か新聞が是か。

菊花御紋章ニ関スル諸々ノ達
◎明治元年二月九日太政官布告
 先般御制度改正ニ付諸藩宮門警衛被仰置候銘々旗幕並提燈等ニ至ル迄菊花御紋相用候様追討被仰附諸藩以来一隊ニ一旒迄菊花御旗被下候間家々ニテ可相調御沙汰ニ相成候へ共右御沙汰ハ御取消ニテ相成以来追討被御附候出兵ノ向ハ朝廷ヨリ御旗渡ニ相成候旨被仰出候事

◎明治元年三月二十八日太政官布告
 提燈其ノ他陶器其ノ他売物等へ御紋章ヲ画キ候事類如何ノ義ニ候以来右類御紋ヲ私ニ付ケ候事屹度可禁止旨被仰出候事

◎明治二年八月二十五日太政官布告
 社寺ニテ是迄菊花御紋ヲ用ヒ来ルモノ不尠候処今般改正ニ相成リ社ハ伊勢八幡上下賀茂等寺ハ泉湧寺般計観等ノ外ハ一切差止メ候旨被仰出候事
但各別由緒有之社等ハ由緒ヲ以テ可伺出候事

◎明治三年十月十四日太政官布告
府県庁(並飛地出張所)等門玄関自今御紋ノ提燈可相用候

◎明治四年六月十七日太政官布告
 菊花御紋禁止ノ儀ハ予テ御布告有之候所尚又向後由緒ノ有無ニ不関皇族ノ外総て被禁止候尤モ紛品相用候儀モ同様不相成候條相改可申候
但従来諸社ノ社頭ニ於テ相用来候分ハ地方官ニ於テ取調可申候事

◎明治七年四月二日太政官達府県
 社寺ニテ菊御紋相用候儀禁止明治二年八月布告候自今官幣社々殿ノ装飾及社頭ノ幕提燈ニ限リ菊御紋相用不苦候旨管内官幣社へ可相達事

◎大正三年四月払下若ハ下付小銃ノ菊花御紋章ノ抹殺ニ関スル陸軍省副官ノ通牒
陸 普第一一四七号

軍用小銃ニ於ケル御紋章ニ関スル件通牒
大正三年四月二十日陸軍省副官

兵器本廠宛
 軍用各種小銃及其ノ廃品ヲ部外ニ払下若ハ下付スル場合ニ於テハ自今銃身ノ菊花御紋章ヲ抹殺スル事被定候條承知相成度候
 大正十一年十二月二十七日(陸普第六四九六号)ヲ以テ払下軍用銃標識打刻ノ件通牒中ニ諸学校及在郷軍人会ニ払フベキ小銃ニハ尾筒御紋章下部ニ学校払下小銃ニ在リテハ「文」又在郷軍人会払下小銃ニ在リテハ「M」字ヲ刻スルコトニ定メラレアリ。


2015年9月17日木曜日

採り入れられなかった?もう一つの「万歳突撃」

「万歳突撃」と言えば普通、戦争末期の自殺的な最後の突撃のことを指す。ここではバンザイ突撃としておこう。

「突撃」は純粋な一般的な戦闘の動作で、戦闘のある一部分の最終局面で行われる行動であり、相手に止めを刺すことが目的である(当然これ以外の目的もあるだろう)。
一方の「バンザイ突撃」は戦闘の最後、相手に一矢報いることを望みつつ「自分」に止めを刺す動作とも言える。玉砕することが主目的であるようにしか見えない。

このバンザイ突撃。戦闘動作としては特殊な動作である。
何しろ、このような死ぬことを前提とした、比較的大規模な突撃に関して記述した典範令というものはないのだ。戦術書にも無い。若干捻くれた解釈ではあるが、戦陣訓でさえも直接的に「最後は突撃して死ね」とは述べていない。何にせよ完全にマニュアル外の戦法である。


バンザイ突撃については深入りせず、この辺でお終いにして、標題の『万歳突撃』の話に入っていこう。

まず、標題の『万歳突撃』というのは一体何なのか?というと、至極簡単。
「万歳」と叫びながら行う突撃のことである。
普通の「突撃」の際に万歳と叫ぶ突撃なので『万歳突撃』。
しかし、万歳と叫びながら行う突撃と言えば、自然とバンザイ突撃の方を思い浮かべるだろう。
『万歳突撃』は、この「バンザイ突撃」との混同を防ぐために“普通の”という言葉を頭につけて『“普通の”万歳突撃』としたほうがいいかも知れない。

歩兵操典等には、突撃時の喊声についての規定というものは存在しない。
一応、訓練の参考書等では「腹の底から出せ」といった注文はあるが、具体的に「ワー」だとか「ウアー」と叫べとは述べていない。つまり、突撃の際の喊声はどんなものでも良いわけだ。

そんな突撃時の喊声だが、昭和7年10月の『偕行社記事第697号附録』にこんな話が載っている。

『……此処にお出でになる武田少将は私が歩兵学校の学生であった時の中隊長で吾々の先生であります。先生を前にして申すことはをかしな話ですが、事実を申上げます。我国の突撃突喊には、どう言へと云うことは書いてありませぬ。即ち喊声は何と言ったが一番宜いかと云ふことを武田閣下が研究されて突込めと言へば万歳と唱ふ。今迄はワーと言ふ、どうも意味がない、それから万歳であるが、私の日露戦争の失敗は敵陣を取ってから万歳と言って居る、嬉しさの餘り万歳を言ふ、之を取る前に万歳と言ったらもっと効果的であろう、剣山=旅順と大連の間にある=を占領してから万歳々々をやったら、今度三方からバラバラやられて沢山の死傷者を出した。此万歳は恨めしい、それよか取る前に突込めの時に万歳々々と云ふことに依ってどれだけ士気が上るかと云ふことは部隊の訓練の時にはいつも言ふて居ることであります。此精神的威力を採用してから非常に効果があった事を確信します。』
(上海に於ける実戦談、辻權作)

どうも戦争末期以前、第一次上海事変の時点で突撃の際の喊声を「万歳」としたほうが良いという話があったようだ。
とはいえ、この万歳突撃。実戦で行われたのか、訓練時だけ行っていたのか、はたまた講話として話されただけなのか、はっきりとは分からない。

だが、上記の話の通りならば、突撃の喊声を万歳と叫ぶように教育するだけで兵の士気が上がり、強くなる(?)はずなのだ。
金もなにも必要ない。非常に安上がりで効果的な方法であるように思える。

ただ少なくとも、突撃の喊声を万歳とする。という教育は一般的ではないし、操典や教練書その他でこのようなことを述べているものは見たことがない。

結局のところ、この突撃の喊声を万歳にしてみるという試みは、一部で行われたに過ぎないのだろう。

2015年9月12日土曜日

週番勤務とは?

軍隊の内務に関するマニュアルである『軍隊内務書』では、「第十四章 週番勤務」の最初の条項である第九十三において、このような規定がある。

第九十三 週番諸官ハ所属週番勤務者ヲ指揮シテ軍紀風紀ノ維持諸法則ノ実施如何ヲ警視シ以テ営内ノ取締ニ任シ且営内 当該部隊ニ属スル兵営附近ノ建造物及諸物件ヲ含ム ニ於ケル火災、盗難ノ予防及消防ノ責ニ任ス』

週番勤務についてのもう少し分かりやすい説明としては、

『軍隊は多人数が集団して起居してゐるので、中には過(あやま)って軍律を犯し、又は風儀を紊(みだ)す者が無いとも限らない。
此等の取締りは連隊長以下各隊長に責任があるが、それ等の上官は兵営の中に起居せず、日課が終れば自宅へ帰るから、其の退営不在中誰かに営内の軍紀・風紀の取締及び火災・盗難を予防する任務を命じて置かねばならぬ。そこで週番勤務といふものを定めて将校・下士官・上等兵等が一週間交代でこれに服することになってゐる。』
(帝國軍事教育社 編,『最新圖解 陸軍模範兵教典』,1941年)


もっと端的に、一文で説明したものが以下の文章である。

『週番勤務の目的は、隊内に於ける軍紀、風紀を維持し、諸法則の実施を正確ならしめ以て内務の全般的成績を向上せしむるにある。』
(武揚堂編纂部 編纂,『週番勤務提要』,1942年)


週番勤務の目的〈以下、文末の(第**)という表記は『軍隊内務書』の当該条項を示す〉

週番勤務は上記のように、兵営の軍紀・風紀の取締りや火災や盗難の予防等を目的としている。(第93)


週番勤務者一般

週番勤務は連隊全体を取り締まる(指揮監督する)ものと、中隊を取り締まるものに分かれ、土曜日の正午から翌週の土曜日の正午までが勤務期間となる。場合によっては日直となることがある。勤務期間服務した後は、別の者と交代する。(第95)

勤務者は週番士官を除き、通常の勤務や演習が免除される。週番士官は中隊長が必要に応じて免除する。(第96)

営外に居住する者でも週番勤務中は営内に宿直する。(第97)

週番勤務者は、曹長以上であれば紅白の襷(週番懸章)を右肩から左脇下に下げる。下士官以下は週番腕章を左腕(上腕)につける。


週番勤務者の区分(第94)

連隊の週番勤務者

週番司令:(大尉〜中尉、1名)

中隊が二つ以上ある部隊に置かれ、週番勤務者を指揮監督する。
週番司令室が定位(※基本的に常にいるべき場所)。(第94,99,100)


週番副官:(曹長、1名)

中隊が二つ以上ある部隊に置かれ、週番司令の指揮を承け、週番司令を補佐する。週番司令の女房役。
週番副官室が定位。(第101,102)


中隊の週番勤務者

週番士官:(中尉〜准尉または曹長、1名)

中隊ごとに1名が服務する。
週番司令の指示の下、中隊の取締りに当たり、週番下士官以下を統轄する。
人馬の員数の確認・兵舎その他の巡察・週番下士官への巡察命令等々を行う。
将校室が定位。
ただし、少尉候補者以外の特務曹長は中隊事務室が定位。(第103,104)


週番下士官:(本部附下士官または軍曹〜伍長勤務上等兵、1名)

連隊・大隊本部服務と中隊服務の二つがある。
前者は各本部ごとに本部附下士官から1名。週番司令の指揮を受け、連隊・大隊長の指示により職務を執行する。
後者は中隊の軍曹、伍長、伍長勤務上等兵から1名。週番士官の指揮を受けて職務を執行する。
週番下士官が行う業務は非常に多く、週番勤務者の中では最も忙しい。
軍隊内務書に記述されている日常業務は17項目あり、他の週番勤務者の倍以上の項目数を誇る。
所属する本部の本部事務室または中隊事務室が定位。(第105,106,107)

(※週番勤務者の日常業務は週番下士官に限らず、列挙するには多すぎるため、ここでは週番上等兵のものを除き、全て省略している。各週番勤務者の説明の文末、軍隊内務書当該条項(第**のこと)のうち、下線がある条項が日常業務を記述している部分なので、詳細は軍隊内務書のその部分を見て欲しい。)


週番上等兵:(伍長勤務上等兵以外の上等兵、2名または1名)

中隊では2名、機関銃隊・装甲自動車隊・乗馬部隊・固定無線隊・飛行中隊では1名が服務する。
週番下士官の指揮を受けて火災、盗難防止、巡察等の細務に従事する。
具体的には、

1、兵舎の内外を巡察して、諸物品の保存、整頓、掃除が出来ているか確認。火災と盗難に注意し、夜寝る前の点呼である、日夕点呼(にっせきてんこ)の後は各室を巡察して、火鉢や暖炉などが消火されているか点検し、週番下士官の点検を受ける。

2、食事分配の時は、あらかじめ食事の数を週番下士官から聞いて置き、時間になったら当番兵を引率して炊事場で食事を受け取り、各内務班に分配する。食事が終わったら食器を洗わせ、食器を集めて炊事掛下士官(炊事場)へ返納する。

3、毎日当番兵を集めて内務班以外の区域(中隊長室、事務室、物置、廊下など)を掃除させ、掃除道具の保存を任ずる。

4、営倉に入った者に食事や寝具等を差し入れる際、検査を行い、風紀衛兵衛舎掛に引渡し、用済みとなったら衛舎掛からこれを受け取る。

5、入院または退院、休養室への入室あるいは退室する患者がいる場合、軍医や週番下士官の指示を受けて必要な処置、世話を行う。

週番上等兵は、中隊の事務室か居室が定位。(第108,109)


厩週番上等兵:(伍長勤務上等兵以外の上等兵、1名)

機関銃隊、乗馬部隊の各中隊ごとに1名が服務する。これらの隊以外でも馬がいる場合は(うまや)週番上等兵が置かれる。
週番下士官の指揮を受けて厩を取り締まる。厩内外の巡察や厩当番の人員の検査•勤務の監督、馬の状態の確認、馬糧の受領・分配等を行う。
厩週番上等兵は、厩が定位。(第110,111)


日直衛生下士官及び日直衛生兵

軍隊内務書では衛生兵の古い呼称である看護長・看護兵となっている。
日直衛生下士官(日直衛生兵)は、独立中隊を除いた各部隊ごとに、衛生下士官、衛生上等兵から1名が服務し、医務室を定位とする。
また、連隊長は上記の他に1名の衛生上等兵を週番衛生兵として日直衛生下士官(日直衛生兵)の勤務の補助を行なわせることができる。
日直衛生下士官等の任務は、他の週番勤務者と似たようなものもあるが、医務室内の取締り及び火災予防、営内の衛生の警視、入院患者等の取り扱い、その他庶務となる。(第112,113)


不寝番

不寝番(ふしんばん)は、日夕点呼後から翌朝の起床時刻まで、他の兵が寝ている中、寝ずの番を行う。不寝番は中隊ごとに基本的に1名が服務する。
週番下士官の指揮を受け、火災・盗難防止のための各所巡察点検や兵室を見廻り、暑い日は窓を開けたり、毛布を蹴飛ばして腹を出して寝ている兵がいれば毛布を掛けてやる。といったことを行う。(第114)


厩当番

機関銃隊及び乗馬部隊の各中隊ごとに設けられ、厩週番上等兵の指揮を受けて、馬の状態の観察・厩の衛生保全・給飼と水与の準備・火災及び盗難防止の監視等を行う。交代があるようだが、夜間服務もある。(第115)



参考文献

・『軍隊内務書』 武揚堂,1934
・帝國軍事教育社 編 『最新圖解 陸軍模範兵教典』 帝國軍事教育社,1941
・川口喜一 『週番勤務の参考 全』 兵書出版社,1942
・武揚堂編纂部 『週番勤務提要』 武揚堂,1942

2015年8月12日水曜日

日本軍の市街戦要領

日本軍と言えば広漠とした中国大陸•モンゴル、鬱蒼とした木々に囲まれたシベリア近辺、ジャングル地帯のビルマ•南洋諸島、または、特異な地形として中支、つまり上海近辺の有名な水濠(クリーク)地帯…

このような地形での戦闘ばかりで市街戦の印象が薄い。
勿論、全く無かった訳ではないので、戦闘綱要や作戦要務令には市街戦についての記述がある。
戦闘綱要』及び『作戦要務令 第二部』の第八篇 特殊ノ地形ニ於ケル戦闘第三章 森林及住民地ノ戦闘がその箇所であるが、文量が非常に多くなるのでここでは扱わない。

今回紹介するのは、昭和7年4月の偕行社記事第691号附録に掲載された『済南事変に於ける市街戦より得たる教訓』である。量的には多くないが、一資料としては非常に参考になるものだと思う。


第一 要旨

一、市街地の戦闘に於て各部隊は指揮官の手裏を脱し易し故に指揮官は部下を掌握するに努むると共に各部隊は指揮官の掌握下に入ることを努め仮令指揮官の手裏を脱することあるも独断専行以て任務を積極的に遂行すべし

二、電話は屡々故障を生ず故に煙火、単旗、鳩等の副通信を必要とす

三、市街地に於て敵と衝突したる時は路上に兵力を使用することなく速に附近の適当なる家屋又は圍壁を求め且成るべく屋上の高所を占領するを可とす

四、市街地の戦闘に於ては各家屋の窓硝子は之を開放し置くか除去するを適当とす是砲弾の為破壊せらるる時は大なる音響と共に飛散し志気に影響を及すを以てなり
市街地に於ては敵弾は反跳して一定の方向より来るものにあらず故に陣地の設備に際しては之を顧慮するを要す

五、市街戦に於ては一分隊以上の部隊には十字鍬其他破壊器具を携帯せしめ尚梯子、縄、鎌等の準備必要なり
何となれば交通連絡の為或は損害を避けて前進し又は敵の側背に迫る等の為圍壁、家屋を破壊するを要する場合多ければなり

六、市街戦に於ては個人の服装を左の如く改装せしむるを要す
軍帽は鉄兜とし軍靴は厚底足袋若は支那靴とし背嚢を除く

(省略)

第三 市街内の攻撃

一、市街の内部に拠る敵を攻撃するには軍隊を攻撃隊と掃蕩隊とに区分するを可とす
攻撃隊には成し得れば一部の砲兵を配属し独立の性能を附与するを要す

二、家屋に防御工事を施せる敵を攻撃するには防者の拠れる家屋に近接する高所を利用し火砲、迫撃砲、機関銃等を布置し攻撃歩兵の前進を援助するを可とす

三、道路上を前進するには道路の両側を躍進す此際沿道家屋より狙撃を受けざることに注意し若し不意に高層家屋より射撃せらるる時は沈着して其窓牖に向ひ軽機関銃を以て反撃するを可とす此際は伏臥するは却て不利にして家屋の脚に拠るを可とす

四、敵の占拠せる家屋内に侵入せんとする時は先づ道路両側に所要の兵を配置し其射線を交叉し反対側を射撃及手榴弾を投擲し得る如く準備せしめ且家屋の周圍には敵の逃走を防ぐ為所要の監視兵を附したる後実行するを要す

五、家屋内の各室に侵入せんとする時は直に開扉突入することなく開扉と同時に身を外側に隠蔽し応急の準備を完了したる後突入するを可とす蓋し窮鼠猫を咬むの被害を除くと共に敵の抵抗を断念せしむるの利あり

六、市街地内の攻撃に於ては家屋の脚に接して行動する時は比較的損害を避くることを得るものとす而して道路上の並木、電柱等を利用することは却て敵に好目標を与へ敵弾の集中を受くるものとす

第四 市街内の防御

一、市街地の防禦に於て防禦の主線を市街地の城壁に撰定するや或は城外に撰定し市街地を複廓として利用すべきやは一に情況に依る

二、防禦の主線を城壁上に撰定し陣地を構成する為には成し得れば隅角部又は城門附近に於て外方に複廓陣地を撰定し壁下の側防に任ぜしむるを可とす

三、壁上に於ては突出部を利用し側防の手段を講ずると共に拠点を編成し以て一連配備の害を除去すべし

四、市街地に在りて砲兵は射界を大ならしむる為特に高所に配置するを可とす若し山砲を有する時は之を分割して壁上拠点又は城外の側防陣地内に配置するを有利とすることあり

五、市街地に於ける防禦戦闘の為道路上中央に閉鎖堡様の工事を施すが如きは敵の好目標となり且屋根上より瞰射せられ不利なり寧ろ道路両側に接し家屋、圍壁等を利用して工事をなすを可とす


操典には市街戦に関しての規定はない。
一方、戦闘綱要と作戦要務令には市街戦に関する記述があるが、これらは大部隊の運用を中心に記述したマニュアルであるため、分隊や小隊規模の戦闘に関しては希薄である。
小部隊に主眼を置いたものは典範令以外の書籍資料に掲載されていることが多い。

2015年8月11日火曜日

戦傷者統計と白兵戦

歩兵操典の綱領にこの様な文がある。

第十一 …歩兵ノ本領ハ地形及時期ノ如何ヲ問ハズ戦闘ヲ実行シ突撃ヲ以テ敵ヲ殲滅スルニ在リ…

突撃を重要視しているともとれるし、そもそも「突撃」自体が戦闘の一つの最終局面だからそれをここで明らかにしている。とも考えられる。 

『歩兵は縦ひ他兵種の協同を欠くとも射撃を以て敵を制圧し、最後に於て銃剣を以て再三再四突撃を敢行して敵を殲滅するの意気がなくてはならぬ。是れ即ち歩兵の本領である。』(齋藤市平 著,1941,『軍隊精神教育の参考』,p.114)

「意気がなくてはならぬ」というのは、操典の記述よりも若干緩められた表現ではあるが、旧軍が突撃をある種特別視していたというのは良く聞く話だろう。

それでは、その突撃は実際にどれくらい行われていたのだろうか?
軍隊がどれくらい突撃を行ったのか?ということを調査した話は聞かないし、調査は事実上不可能だろう。
そこでひとまず、資料は少ないが参考になるであろう戦傷者についての統計を見ていこう

まず、戦争における軍人の被害に関する有名な話として、第一次世界大戦から戦傷者の大多数が砲撃等による砲創である。というものがある。
軍陣外科学教程(陸軍軍医団,1940)によると、第一次世界大戦の戦傷の割合は、

英陸軍医務局長Goodwinの調査では、銃創25%、砲創75%
仏陸軍軍医総監Mrgnonの調査では、銃創21%、砲創79%

とある。これは恐らく銃創と砲創だけを取り上げて比較したものだと思われる。見ての通り、砲撃による創傷は8割近くを占めている。
同書には上記の統計と並んで、日本軍側の各戦争時の戦傷を種類で区分し、その割合を示した統計もある。
それによれば、

日清戦争は、銃創88%、砲創9%、白兵創3%
北清事変は、銃創91%、砲創8%、白兵創1%
日露戦争は、銃創80%、砲創17%、白兵創1%、爆創(2%)、介達弾創2%
日独戦争は、銃創37%、砲創51%、爆創6%、介達弾創6%

となっている。
※「介達弾創」とは、弾丸が当たったり、榴弾の爆発などによって飛散する物体(石や木片などなんでも)による傷。

また、日露戦争の野戦と要塞戦を分けた統計を見てみると、

野戦銃創84.4%、砲創14.2%、白兵創1%、爆創0.4%
要塞戦銃創67.7%、砲創23.5%、白兵創0.8%、爆創8%

国と時期によっては装備の状態などが大きく異なるので一概には言えないが、少なくとも日本軍では、年を経るごとに砲創による戦傷者が増えていることが分かる。(北清事変を除いて)

戦時衛生勤務研究録(陸軍軍医団,1927) にも、上と似たような統計が記載されている。

日露戦
日本軍(%)
銃創80%、砲創17%、その他3%

露軍(%)
銃砲創98.35%{銃丸75%、弾片14%、弾子11%}、その他1.65%{白兵創:斬創21%、刺創79%}

日独戦
日本軍(%)
銃創37%、砲創57%、その他6%

欧州大戦(第一次世界大戦)
仏軍
銃創23%、砲創75%、その他6%  (1914年)
銃創11%、砲創56%、その他33% (1917年)
銃創15%、砲創54%、その他31% (1918年)

英軍
銃創20%、砲創75%、その他5%  (Goodwin)

米軍
小銃13.31%、榴弾12.48%、榴霰弾23.68%、瓦斯49.85%、手榴弾0.68%

ハンガリー軍
小銃70-75%、榴弾8-10%、榴霰弾20-22% (セルビア戦場)
小銃22%、榴弾50%、榴霰弾28% (イタリア戦場)

日露戦争に関しては、"Weapons and Tactics" (初版は1943年)という書籍にこのような記述がある。

In the Russo-Japanese War of 1904 about two and a half per cent of the total casualties on both sides were caused by spears, swords and bayonets.
(Tom Wintringham, J.N. Blashford-snell, Weapons and Tactics, pp.146-147. 1973)

"1904年の日露戦争では、双方の総死傷者の約2.5%が槍、剣、銃槍によって引き起こされた"

昭和十七年印刷 戦例集 全』には「世界大戦ニ於ケル戦傷兵」という戦傷者の割合等を表にしたものがある。
(第一次世界大戦の戦傷者統計(右)はフランス軍のもの)


これらを見ると、第一次世界大戦から「砲」が戦闘の中心となり、猛威を振るうようになったことが見てとれる。
※第一次世界大戦の統計で「その他」が2割3割を占めている。内訳が示されていないので判然としないが、少なくとも、この「その他」の内訳で高い割合を占めているのは、時期等から推察するに、おそらく毒ガスだろうと思われる。

第一次世界大戦の初期から中期、つまり陣地戦主体の期間は7割以上が砲創。
ドイツの1918年春季攻勢以降の運動戦主体の期間は砲創の割合が減るが、それでも銃創より優位である。
前後の戦争を見比べても、第一次世界大戦で大きく状況が変わったのは確かだろう。

いくつかの統計の数値を挙げ、まとめのような文章を書いたが、そもそも本投稿は白兵戦についての投稿なので今度は白兵創に注目して各統計を見て欲しい。
白兵創は軒並み一桁、多くても3%を超えていないことが分かる。
読んだ人も多いであろうデーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』でも取り上げられていたが、白兵戦による死傷者は一般に思われているよりも少ないということになる。
こうなってくるといよいよ問題になるのが日本軍である。
上掲の統計のほとんどは紛れも無い、日本軍で使っている資料から引っ張ってきたものである。『戦時衛生勤務研究録』と『軍陣外科学教程』は、軍医の為の書籍であるが、『昭和十七年印刷 戦例集 全』は士官候補生辺りの参考書である。
つまり、少なくとも尉官程度なら近代の戦争では、突撃どころか白兵戦による戦果が非常に少ないことを知っている可能性はとても高いわけだ。佐官、将官ともなれば尚更だろう。
それではなぜ、日本軍は白兵戦(突撃)を重要視したのだろうか?
ひとまず二つの話を紹介しよう。

『最後に百米以内に接敵せば、敵の動揺を認めて突入するのであるが、突撃の号令を掛けたる後は全くの聾盲で、敵陣地の後端迄無我夢中に部下と競走するのみである。そして尖筆山の戦闘では陣地の後端に出る刹那、逃げ後れたる敵の一人を大袈裟に切り落して初めて夢覚め、眼前算を乱して敗走中の敵に対し、『止れ、急ぎ打かかれ』と号令し、確に其三四十を倒した筈だが、現場実査の結果は、僅に数個の屍を認めたに過ぎぬ。蓋し敵は我が追撃を緩めんため、若者に詐りの死を装ふたのであった。』
(陸軍少将 山田軍太郎、北清事変)

『…午後七時頃になると、第四師団方面から一人の下士か兵卒かが、銃の先に日章旗を掲げ、づんづん敵線を乗り切て進む者がある。第一線の我々之れを望見するや、将校も兵卒も期せずして起て突撃を起し、隣師団の者に名を成さしてなるものかと猛然として進んだのである。所が直前の敵は、我れが近づくや、散兵壕より出て諸所にばらばらと退却を始めた。其数は一中隊正面に僅か五六名位のものであろう。中隊は之れを目撃し、益々勇気百倍して、遂に第一の散兵壕に突入したのである。
見ると此の線を守備して居た敵は、目の前に逃げた数名丈であって、余の者は皆散兵壕の中に枕を並べて死で居るのである。中隊は尚も進んで第二第三の散兵壕を占領したが、何れも敵兵の死屍を以て埋められている。斯くて山上を占領し、部隊を集結して、同夜は敵陣地内に露営した。』
(TH生、日露戦争)

この二つの話は、偕行社発行の『初陣の戦場心理』に集録された話の一部である。
どちらもおそらく指揮官の立場だが、前者は、突撃について「部下と競走」と言っている。一人は斬り殺したようだが、最終的には数人が死んでいる程度だったという話。
※しかもこの倒した敵兵の死因が射撃なのか白兵なのかははっきりとは分からない。

後者は、突撃してみたら既にほとんどの敵が(おそらく突撃の前の射撃で)死んでいたという話だ。
この二つの話は『初陣の戦場心理』に集録されている話の中では特に白兵戦が不調だった話である。むしろ、他の話では普通に「敵を刺殺」といった話は出てくる。
例えば同書の「南嶺戦闘の回顧(陸軍歩兵中尉 佐々木榮三郎,満州事変)では、
『…時に正午を過ぐる数分、再び斬る、刺す、撃つの三巴の白兵戦が、演ぜられた。「アイヤア アイヤア」と叫ぶ悲鳴、屍山、血河、実に惨たる修羅場となる。…かく格闘の後、午後二時頃には全く占領した。…敵の遺棄した死体約二百、傷者を数ふべくもなかったが、少くとも三、四百を下らなかった事だらう…。』

初年兵の突撃戦(陸軍歩兵少佐 佐々木慶雄,満州事変)では、
『…(10) 第一小隊の一分隊は(イ)土壁を底部より突入し、将に逃げんとせし敵兵六名を刺殺す。第一小隊長猪瀬少尉亦土壁北側に於て敗残兵二名を斬る。
…1. 両小隊は直に部落北側に進出し、逃げ後れたるものを刺殺し、…』
この書籍に限らず、軍が発行した書籍には突撃や白兵戦に関する事柄が掲載されていることが多い。
軍としては突撃、白兵戦を重要視している訳だから、当然積極的に取り上げるだろう。
針小棒大に書き立てているとか、実際には殆ど白兵戦は起こっていないにもかかわらず、報告や戦闘詳報では激烈な白兵戦を演じた。ということになっている可能性もあり得る。
数少ない事例でも拾い集めれば頻繁に発生していたように見えるというわけだ。
とはいえ、仮に白兵創の割合が1%だとすると100人に1人は白兵創ということになるので、考えようによっては案外多いような気がしないでもない。

他方、支那事変では敵の死傷の原因の6割が白兵傷という話もある。
「現に今次の支那事変では、敵の死傷原因の六割が白兵創であることでもその必要が判ります。」 (青木保 著,兵器読本,1937,p.15)
さすがにこれはあり得ないとは思うが、特に否定できる資料を持ち合わせていないのでなんとも言えない所ではあるが、6割とまでは行かないまでも、日中戦争においては白兵戦が多かった可能性はある。(数%程度?)

白兵戦までの道のり
ここで白兵戦が起こり得る状況というものを考えてみよう。
当然のことだが白兵戦を行うには、格闘ができる距離まで近づく必要がある。
その距離に到達するまでは射撃が行われるはずなのでから、上の「TH生」の話のように突撃前の火力戦で敵をほとんど殺してしまうといったことも起こるわけだ。

また、このようなこともあるだろう。

『わが分隊は既に数個の榴弾を撃ち込み、小隊に追随して進む。約一時間後、我々は汗にまみれ、銃剣を構え村落に突入した。敵は姿を消し、鎮まりかえった無人村落がそこに横たわるだけであった。』
(朝香進一 著,1982,『初年兵日記』,p.172)

著者の朝香氏は擲弾筒分隊なので、先陣を切って突撃を行うわけではないが、突入したら敵が退却していて、もぬけの殻だったというパターンである。
日本軍に限らず、どこの国でも火戦(射撃)→白兵戦というのがマニュアル的な流れとなっている。

歩兵同士の戦闘が始まる前に砲兵や迫撃砲などの砲撃や航空機による攻撃が行われて守備側の兵力が減り、その後の歩兵の射撃によって守備側の兵力はさらに減る。
この段階で守備側が戦意を喪失したり、現状の戦力で攻撃側を撃退できる公算が小さいと判断すれば撤退、後退することになる。(独ソや日本のように死守命令があったり、島嶼戦でそもそも撤退できないといった場合を除き)

仮に守備側が攻撃側を撃退できないほど兵力が減った状態で白兵戦が行われたとしても、双方(特に守備側)兵力が減った状態で行われるから、おのずと白兵創の数は少なくなる。

また、それとは逆に守備側に攻撃側の前進を止めることが出来る程度に充分な兵力や強力な火器等が残っていた場合は、特に攻撃側が無理矢理白兵戦へと持っていけるくらい強大な戦力を持っていない限り、攻撃側は白兵戦に移行出来ず戦闘は火戦のまま硬直してしまう。

デーヴ・グロスマンが取り上げたような心理的な原因による白兵戦の忌避を一切排除して、白兵戦が少ない理由というものを考えた場合、下記のような要素が考えられる。

⒈白兵戦は戦闘の最後に行われるため、火戦で終わるか止まるかした場合は白兵戦自体が発生しない。
また、攻撃側と守備側の戦力や装備の質等に差があるとそれだけ白兵戦の可能性が減る。

⒉基本的に火戦を経てから白兵戦が行われる関係上、火力戦の際に兵力が減るため、そもそも「白兵創を受けるかもしれない兵」の数自体が少ない。
特に攻撃側の火力が大きければ大きいほど守備側の兵力が減りやすくなり、白兵戦の可能性と白兵戦が行われた際に「白兵創を受けるかもしれない兵」の数が減る。

⒊守備側が必ずしも白兵戦を行うとは限らず、むしろ状況が許せば後退を選ぶ可能性がある。白兵戦に自信があれば白兵戦を選択するかもしれないが...

Wikipediaなら「独自研究」タグのオンパレードになるような個人の妄想に過ぎないので、上の話は間違い等、多々あるだろうが、少なくとも統計上の白兵創の少なさから見ても、近代の戦争においては白兵戦自体の発生が少ないというのは容易に推察できる。


一方的な白兵戦
そもそも白兵戦自体が少ないことは何となく分かったので、今度は「白兵戦が起こり得る状況」を考えてみる。

前掲の『初陣の戦場心理』の話の内、2つは逃げた・逃げ遅れた敵を白兵でもって殺している。
仮に敵が突撃前に逃げたとしても、追い付くか、あるいは逃げ遅れた敵は白兵で殺傷できるということになる。
ただし、この場合は逃げる敵に追いつかなければならず、逃げ遅れた敵に戦意がない場合は捕虜になってしまう。

結局、(不謹慎な話ではあるが)色々な効率を考えた時、距離や規模によっては逃げる敵を見たらその場で一時的に止まって、射撃をしたほうが、追いかけて刺突するよりもはるかに楽だし、戦果も上がりそうなものである。

実際、「初年兵の突撃戦」では射撃でもって逃げた敵を殲滅している。

『1.両小隊は直に部落北側に進出し、逃げ後れたるものを刺殺し、二三百米前方を潰走しつつある敵に対し、猛烈なる追撃射撃をなす。其の斃るる状況?(さんずいに句)に痛快なり。
…6.敵を殆ど殲滅するを得、北方に五、六名、東北方に四、五名、西北方に四、五名逃げたるをみたるのみ。』

とはいえ、逃げた敵を(一方的な)白兵戦で殺傷するという状況は(不謹慎な話ではあるが)その白兵創者の数こそ稼げないものの、戦争を通してもっとも頻繁に発生してもおかしくない白兵戦のパターンではないだろうか?
なにしろ、この白兵戦が発生する条件は、「突撃後、逃げ遅れた敵兵がいる」だけでのである。

マニュアルの通りだが最悪なパターン
では、一方的でなく、彼我ともに白兵戦(格闘)を行うような状態になるのはどういった状況だろうか?
まず考えられるのが、守備側が頑強に抵抗している場合だろう。
小戦例集』から二つ、抜粋してみる。

小戦例集 第一輯 第二十一
『…二、 十一月九日十九時三十分敵約三百 本道上より突撃し来る中隊は陣前約五十米に近接するを待ち突如射撃を開始す路上は忽ち敵の屍を以て充満せしが敵は後続隊を合し新手を代へて屡々突入し来る
中隊は断乎として戦闘し火力及白兵を併用し翌払暁に及び遂に敵の大部を撃滅せり
…二、 敵は主として本道上より(不利)数団となり腰ダメ射撃を行ひつつ突入し来る
敵は刺突を行はざるも組付くものあり…
三、 銃剣術は一人対数人の格闘をも顧慮し演練するを必要とす』

小戦例集 第二輯 第六
『…六、 之より先RiA TiA biA MG及協力砲兵は一斉に射撃を開始し一時全く煙と砂塵とに包まれたる中に勇敢なる喊声を聞くのみなりき
暫くして煙霽るるや各所に白兵戦を演じ十四時三十分第一線中隊たる第十二、第九中隊は「クリーク」西岸の陣地を占領す
…八、 大隊長は続いて21、22陣地に対する突撃準備を命ず此のとき林家宅21の陣地先づ動揺の色ありと見るや機を失せず第十二中隊は独断突撃に移り接戦格闘の後之を占領し同時に第九中隊も亦22陣地に突入之を占領す時に十五時なり
大隊長「クリーク」西岸陣地に進出し歸家?(行の中に其)の敵亦動揺の色あるを見第十二中隊に突撃準備を命ずる間既に一部は歸家?東南角に突入し敵兵を刺殺しつつあり該中隊は独断同陣地に突入し十六時頃同地を完全に占領す
…十、 本戦闘に於ける敵の遺棄死体は第一線のみにて約三百五十を越えたり其の一部は二人乃至三人毎に手足を鉄鎖又は針金を以て縛り後退を不可能ならしめありたり如何に頑強に抵抗せしめたるやを察知するを得べし』

上の戦例は少し特殊な状況を含んでいるが、前者は日本軍が守備、中国軍が攻撃。
後者は日本軍が攻撃、中国側が守備を採っている戦例である。

攻撃側が突撃やそのまま白兵戦に移行できるような距離まで接近した時に攻撃側が白兵戦に持ち込もうと考えた場合や、なんらかの事情で後退ができない場合等、状況によっては攻撃側が突撃や白兵戦に移行、あるいは無理やり突撃や白兵戦に持ち込む可能性がある。
この時、守備側が射撃で撃退できず、かつ守備側がその場に残り、逃げようとせずに積極的に応戦すれば白兵戦になるわけだ。

攻撃側と守備側の双方に後退出来ない理由があったり、そもそも後退が許されていない場合や、双方共に攻撃意欲に溢れている等、ぼちぼちこのような状況が発生することは考えられる。

支那兵ノ一部ハ頗ル頑強二抵抗シ最後ノ格闘迄逃ケサリキ」という評があったり、日本軍と中国軍の兵士がそれぞれ銃剣と青龍刀(柳葉刀)で白兵戦を行い、中国兵は日本兵の面を打って、日本兵は刺突を行って相打ちとなったが、結局日本兵側が鉄帽を被っていた為、日本兵は瘤を生じただけで済んだから鉄帽は被れ。という話もある。

日中戦争は列強同士の戦争とは少し毛色が違うため、一緒くたにはできないが、射撃から白兵戦という戦闘の流れはむしろマニュアル通りである。
置かれているであろう状況等から考えると、この火戦→白兵戦という流れは、戦闘の流れとしては最悪なものなのかもしれない。

奇襲時の白兵戦
このほか、白兵戦へと移行する確率が高い行動は奇襲だろう。例えば、

小戦例集 第二輯 第十二
『一、第十一中隊諏訪少尉は兵八名を率い四時三十分?(ウ冠に如)越口を出発し規口前に向ひ前進す途中敵約五十名?越口に向ひ前進し来るを発見す彼我の距離約五十米なり茲に於て小隊長は敵に察知せられざる如く其の背後に廻り之に突入し潰乱せしむ』


そもそも奇襲や不意打ちは射撃だけに留まらず、戦術・戦略的にも効果が高い。
奇襲を受けた敵は、狼狽したりしてまともに対応がとれないことが多いようで、突撃の成功例も多い。
上の戦例では格闘が行われたか定かではないが、中国軍側には四名の遺棄死体があるので、突入の際の刺突によって四名が死亡し、他の兵は驚いて潰走したのだと思われる。

似たようなものだと、至近距離でばったり出会ってそのまま格闘という場合もある。日露戦争でも高粱畑でそういった戦闘が発生し、『殆ど各幹部の独断により辛うじて敵を撃退するを得たり』(舟橋茂 著,『歩兵初級幹部指揮必携』,1938)という戦例がある。
敵味方どちらにとっても不意の戦いになるので、ある意味フェアな戦闘。
濃霧や塹壕内、見通しが悪い地形、市街戦等、不意に敵と至近距離で遭遇するような環境の場合はそのまま白兵戦に移行しやすいようだ。

日本軍の白兵戦
世界的には白兵創は非常に少ない。そのような状況のなかで日本軍は白兵戦を強調した。

ここまで見てきた白兵戦の戦例を見ると、日中戦争においては、白兵戦が意外と発生しており、しかも日本軍の突撃と格闘、つまり白兵戦が戦果を挙げているように見える。
元々は工業力等の不足を補う為の精神主義への傾倒が始まりで、白兵戦重要視もその一要素だったわけだが、実際にこれを運用してみたら、案外戦果を挙げたのかもしれない。

◇銃剣術特に白兵の使用に慣熟せしむるを要す
今回の事変(※第1次上海事変)に於て我軍が常に寡を以て衆を破り到る所勇戦奮闘し其攻防何れを問はず時に或は弾薬尽き時に 不意に敵襲を受けたること枚挙に遑あらざるも此間常に数倍乃至十数倍の敵に対し泰然として敵を至近の距離に引き寄せ最後は銃剣に信頼し遂に之を撃破し敵に大打撃を与へ得たる所以のものは実に我軍に白兵使用の自信を有するに反し敵軍に於ては白兵使用する自信なかりしに依るべし之れ実に敵軍に対し我軍の優越を発揮する所以にして将来益々此等の点を鼓吹し愈々其長所を発揮する如く奨励するを要するものと認む。』(『偕行社記事第六百九十七号附録』,1932,p.8)


とはいっても、日中戦争で白兵戦は多かったのか?という話に関して、多い少ないを直接的に証明出来る資料(戦死傷者の原因の統計等)を少なくとも私は持っていないので、日中戦争の白兵戦の多少に関してはあくまで妄想の域を出ない。
途中でも触れたように、旧軍の方針的には突撃を過剰に持ち上げている可能性が大いにあるので、近代の戦争における白兵戦による被害者は一般的には数%程度という情報以外は話半分に見てもらうと良いと思う。

長々と書いてきてここで触れるのは少し遅い気がするが、ここでは白兵戦と突撃は一応別物として扱っている。
『典範令用語ノ解〔作戦要務令ノ部〕』では、「突撃」を以下のように説明している。

「肉弾を以て敵に衝突し銃剣にて格闘して最後の勝敗を決する動作をいう。就中騎兵が馬上白兵を揮って格闘するを襲撃という。」

一方の「白兵戦」はこのような説明となっている。

「彼我両軍が互に白兵即ち銃剣、刀、槍を以て、接戦格闘するをいう。」

この投稿では銃剣を構えて敵に向かって走るという行動+格闘を「突撃」、単純な格闘は「白兵戦」と呼んでいる。

2015年8月5日水曜日

「キ」形散開


徒歩騎兵の特別な散開
昭和18年(1943)に出された『騎兵連隊教練規定』というマニュアルがある。

教訓二十三号
騎兵連隊の教練に関する訓令
騎兵連隊の教練は当分の内本規定に據り実施すべし
昭和十八年五月二十五日
教育総監 山田乙三


と始まり、騎兵の各個教練から連隊+αの訓練に関する事項が並ぶ。と言うと大袈裟だが、なんてことはない。要は新しい騎兵操典のようなものである。 騎兵のマニュアルであるため、乗馬での戦闘に関しても記述があるが、徒歩戦闘に関する事柄の方が多い。
そして、この徒歩での戦闘に関する記述も、歩兵のものとほとんど違いは無く、他の兵科の操典と同じく歩兵操典を参考にしているようだ。ただ、本規定は見出しが付いていたり、文章や構成が若干変えられていて、歩兵操典と比べると格段に読みやすい。
基本的には歩兵操典と変わらないのだが、一つ目に付くのがこの投稿のタイトルとなっている『「キ」形散開』である。

歩兵の分隊の散開といえば、
縦散開(一般分隊、擲弾分隊)
横散開(一般、擲弾)
傘形散開(一般)
筒毎の散開(擲弾)

の4つなのだが、『騎兵連隊教練規定』には前述の「キ」形散開という散開が追加されている。
この散開における兵の配置は上の画像の通りである。

特徴としては、
・他の散開ではっきりとは示されていない狙撃手の位置と存在が図に示されている。
・歩兵操典にない「肉攻手」の存在。
・約30歩という非常に広い兵の間隔。

この散開はなんなのだろうか?
旧軍が1945年頃から一部で導入しようとしていた、「組戦法(分隊よりさらに小さい“組”単位での戦闘を行う)、「滲透戦法(姿なき攻撃前進は即ち地形を利用し、工事を実施し、遮蔽、秘匿しつつ宛然水の滲透するが如き攻撃戦法。一般に浸透戦術と呼ばれている戦法とはまた違うものだと思う)に対応する散開のように思ったが、どうも違うようだ。

本規定の第二百六及び第二百七を見てみよう。

第二百六 分隊長は二、三名づつの肉攻手 肉迫攻撃に任ずる兵を謂ふ を以って肉迫攻撃組を編成し肉迫攻撃を準備す
敵戦車現出するや分隊長は地形を観察し攻撃実施の要領を定め各組の配置、支援の要領等を定む

第二百七 肉迫攻撃に方り分隊長は通常各組に目標を示し適時攻撃せしむ此の際組には通常一戦車を配当するも状況に依り一戦車に数組を配当することあり
組に目標を配当するに方りては先づ敵の先頭戦車或は指揮官戦車を撲滅する如く著意すること必要なり
敵戦車至近距離に近迫して停止し射撃する場合に於ては分隊は進んで之を攻撃す
軽機関銃及狙撃手は随伴歩兵特に戦車に跟随する歩兵を射撃す状況に依り覘視孔射撃を行ふことあり

この文を見る限り、どうも「キ」形散開は対戦車肉薄攻撃用の散開のようだ。

歩兵操典などでは、対戦車攻撃は巻末に附録として収録されており、内容も上記のものと大差ない。
ただ、肉薄攻撃を行う兵は、歩兵操典では「肉攻手」ではなく「肉薄攻撃班(組)」と呼んでいた。
なぜ騎兵の方では名称が変わったのか。理由はわからない。

とはいえ、オマケの記述であった対戦車攻撃が本文の方へ移った。つまり、制式となったわけである。それだけ徒歩兵の対戦車攻撃の必要性が増したという事だろう。

さて、少なくとも私は歩兵関連の教練書等で「キ」形散開に関連することが記載されているのは見た記憶が無い。
歩兵の方が対戦車攻撃に会する機会は多いはずである。
歩兵操典は、「キ」形散開を取り入れずとも、対戦車攻撃が記述される箇所は、附録から本文へと“昇格”するような変更を含んだ改定が行われていてもおかしくないと思うのだが、歩兵操典は1940年以降何ら手を加えられていない。