2016年4月5日火曜日

旧軍の射撃開始距離

典範令による射撃開始距離(?)

旧軍の分隊の射撃は「近距離に於て敵を確認し十分なる効果を予期し得る場合に於いて行う」(歩兵操典 第121)とされていた。

諸兵射撃教範 第2部(以下、新教範・諸射範と略称)には、

第二百三 兵には通常近距離(六百米以内)の目測、軽易なる角測量に習熟せしめ上等兵、特別射手等には特に中距離(六百乃至千米)の目測をも演練せしむるを要す」

とある。
旧軍の射撃開始距離は「近距離=600m」なのだろうか?
詳しく見る前にひとまず他国の射撃開始距離をいくつか見てみよう。


1940年頃の米ソの射撃開始距離

ソ連軍の分隊は防御の際、狙撃手が1000m、軽機関銃が600m、小銃手が400mでそれぞれ射撃を開始する。
(『歩兵小部隊 戦闘教練 陣中勤務 実戦指導計画』1944,p.21の図より)

一九三二年新編制に基く 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案(p.66)では、軽機関銃と優良射手が800m、他の戦闘員(小銃手)は400mから射撃を開始するとしており、後年に新しく出された『千九百三十八年制定 ソ軍歩兵戦闘教令 第1巻(p.153)では、小銃の最大有効射程は400m(優良射手は800m)、集団目標に対する集中射撃は800mとなっている。

米軍(1940年当時)ではどうだったのか。教本には以下のような記述がある。

"■ 203. RANGE ESTIMATION.ー ...As a minimum requirement the individual soldier will be able to estimate ranges up to 600 yards and be sufficiently versed in estimation of longer ranges to enable him to locate reference points designated."
("FM 7-5",1940,p.141)

「最低限の条件として、(訓練により)個々の兵士が600ヤード(≒548m)までの距離の推定ができるようになっているだろう、それ以上の距離に関しては、指示された基準点(標点)を見つけることができるように十分に精通しろ」

翻訳するとすればおそらくこのような感じだろうか?

FM 7-5(p.12)では距離(yard)を以下のように区分している。

Short Point blank to 200     
Close 200 - 400
Midranges   400 - 600
Long 600 - 1,500
Distant Beyond to 1,500


短距離、近距離、中距離、長距離、遠距離といったところか?

600ヤードは MidrangesLong の境界となっているが、Midranges として扱っても問題無いだろう。
米軍の観測能力の基準は600ヤード(≒548m)。

では、射撃もこの距離が基準なのかというとそうでは無く、例えば小銃に関してはこのような記述がある。

"Rifle fire is not ordinarily opened at ranges beyond 400 yards."

("FM 7-5",p.162)

"小銃射撃は通常、400ヤードを超えて行われない"

ということは、つまり(少なくとも1940年頃の)米軍の小銃手(小銃分隊)は、大体400ヤード(≒ 365m)から射撃を行うということになる。

また、p.45には、

"At ranges beyond 400 yards, rifle company weapons open fire only when other available fire support is inadequate."

とあるので、小銃もBARも基本的には400ヤードが射撃開始距離であったと見てよいだろう。

防御時に関しては、FM 7-5 の該当箇所を一通り見てみたが、具体的な数値というものは見当たらなかった。
見落としの可能性もあるが、数字ではないもの、つまり、Close や Long で示されているものはぼちぼち見つかる。

"d. Long-range fire are executed by the heavy weapon (pat. 338c). Premature opening of fire by rifle companies discloses the defensive dispositions and exposes the troops holding the main position to the annihilating fire of the hostile artillery."

("FM 7-5"Sec VII Rifle Company,p.221)

"長距離の射撃は重火器が行う。ライフル中隊の射撃が尚早だと防御配置や主陣地を曝して敵砲兵の殲滅射撃を受ける"

といった感じか。

"■ 249. CONDUCT OF DEFENSE.ーa. General.ー(1) The fire of front-line platoons is held until the attacker comes within close range and hostile artillery lifts or ceases its fire. Premature opening of fire reveals the defensive dispositions and permits the neutralization of the defense by the hostile artillery before the infantry attack."

("FM 7-5",Sec III Rifle Platoon,p.189)

"第一線の小隊は攻者が近距離に来たり、敵砲兵が射程延伸するか射撃を中止するまで射撃を待つ。過早に射撃を始めると防御配置を曝し、歩兵の攻撃の前に敵砲兵によって防御が無力化される。"

小隊でも中隊でも同じことを述べているようだ。

敵が近接してきて、Long-renge(1500 yards)辺りに入ったら重火器が射撃を開始。
敵が更に接近し、Close-range(400 yards)付近に到達して初めて小銃やBAR(ライフル小隊)が射撃を開始する。というのがマニュアルによる典型的な米軍の防御戦闘の推移のようだ。

旧軍は南方作戦の緒戦にフィリピンにおいて米軍と戦闘を行っている。
大東亜戦争 小戦例集 工兵、鉄道兵(1943)には、附録として米英蘭の築城に関する事項が掲載されている。これによると米軍は、

「一、素質
一般に大なる特異性を認めざるも砲(爆)撃並に奇襲に対する着意濃厚なり偽装は着意徹底しあるも実施幼稚なり」(p.68)

「(1) 射撃
1、火力は重火器の一部を以て中(遠)距離、主火力を以て陣前概ね四百乃至五百米の間に濃密なる火網を構成しあり」(p.72)

とある。旧軍の評の通り、いたって普通の防御である。


米ソと異なる旧軍の射撃開始距離(?)

資料の参照が面倒なヨーロッパ勢はさて置き、ソ連軍は小銃が400m、軽機関銃は600mから射撃するものとし、米軍も小銃(おそらくBARも)の射撃開始距離は400ヤード(≒365m)となっている。
一方、旧軍では分隊(小銃と軽機関銃を区別せず)の射撃開始距離(?)は600mである。

米軍は小銃とBARの射撃開始距離が400ヤード、ソ連軍は小銃の射撃距離を400m付近として、軽機関銃と射撃距離を明確に分けていることを考えると、旧軍の「小銃も軽機関銃もまとめて600m」というのは、少し無頓着にも思える。


近距離(600m)という「基準」

第百二十一 分隊は小隊長の命令に基き適時射撃を開始す
射撃は近距離に於て敵を確認し十分なる効果を予期し得る場合に於いて行う
精錬なる軍隊は縦い敵火の下に在りても我が射撃効力を現し得ざるときは自若として前進を続行し妄りに射撃せざるものなり」


第百二十二 射撃は先づ軽機関銃要すれば之に狙撃手を加え状況に依り先づ狙撃手のみを以て行い敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば更に所要の火器を増加す」


「射撃開始の距離を数字的に挙げることは、勿論出来ないことであるが、此処に謂う近距離とは、六百米以内の距離と見て差支なかろう(射教第二部第二百三参照)。」

(『歩兵操典詳説:初級幹部研究用 第1巻』p.78)
「...現時の目標は地形の利用巧みであって而も其の上に諸種の手段を講じ偽装を凝らして居るのであるから、近距離に於ても各散兵が目標を確認すると云ふことは中々困難であって、分隊の射撃の開始は六百米よりも更に一層近距離となるのが自然であらう。...」

(『歩兵操典詳説:初級幹部研究用 第1巻』p.78)

これらの記述を見ると、歩兵操典第121等に見られる「近距離」、つまり「600m」という距離は、あくまで「600m以下になったら射撃開始を考えろ」という「基準」でしか無いということが分かる。
どうやら旧軍では「射撃開始距離」というものを明確に規定していないようである。

とはいえ、ちょっと調べてみると「これは射撃開始距離なのではないか?」という数値が出てこないこともない。


各距離における射撃効果が望める目標(小銃)

明治30年発行(第8版)の兵卒向けの教程である『兵卒教程(p.92)には「射撃用法ノ限界」として、以下のようなことが記述されている。

「二百米突以内に於ては 都(すべ)ての目標
三百米突以内に於ては 立姿若くは膝姿の敵兵を射撃す
四百米突以内に於ては 孤立立姿及二人併列膝姿兵を射撃す*
五百米突以内に於ては 立姿群及孤立騎兵」

(*原文ではこの後に"騎兵及立姿群兵 二人以上"と続くが、誤植のように思えるので削除した。原文そのままではないので注意)

昭和4年の旧教範にもこれと似たようなものが第136および表(第18表)として掲載されている。

第百三十六 各個戦闘射撃に在りて各距離に応じ選定すべき目標は該目標に対し発射弾の約半数以上の命中を期し得べきものを以て標準とす...」

第18表には、第136の記述にある「各距離に応じ選定すべき目標」が、「約半数以上の命中を期し得べき標準」として示されている。

距離 約半数以上の命中を期し得べき標準 摘要
200m 頭首のみを現したる兵 -
300m 伏姿兵 -
400m 膝姿兵 -
500m 立姿或は或は密集せる2人膝姿兵 騎銃には適用せず
600m 密集せる2人立姿兵或は乗馬兵 同上
備考 本表は中等射手をして平静なる状態にて射撃せしめたる結果とす

昭和十一年改訂 生徒用 射撃学教程 』には、旧教範の「単一銃を以てする射撃の半数必中界の表」(第5表)の数値を表中に加えたものが掲載されている。

距離 半数必中界 約半数以上命中を期し得べき標準
垂直(cm) 水平(cm)
200m 13 12 頭首のみ現したる兵
300m 19 18 伏姿兵
400m 26 24 膝姿兵
500m 32 30 立姿兵≪密着せる2人膝姿兵≫
600m 39 36 乗馬兵≪密着せる2人立姿兵≫

備考 命中を期し得べき標準は平均弾道目標の中央に通せるものと仮定して算出す

これらの表には600mまでの距離における射撃目標が示されているが、各個戦闘射撃習会表(第16表)を見ると、第1習会は200〜300m付近からの射撃、第2習会でも300〜400m付近でとどまっており、どうやら各個の射撃訓練では、500m以上の距離での射撃を行なっていなかったようである。(軽機関銃も同様)

500m以上の距離に対する射撃は部隊戦闘射撃の方で行っていたのかもしれないが、教範に示されている範囲内で、少なくとも各兵単位の射撃訓練では400mが最大射撃距離である。

実戦で敵の歩兵が立姿で身体の大部分を暴露していたり、何人かで寄り集まって身を晒しているといったような状況がどれだけあるのかといったことを考えると、射撃習会表で300m、400mが中心となっているのは理にかなっているように思える。


諸兵射撃教範の射撃習会表

諸兵射撃教範改正要点に関する説明(1940,p.120)には、

「...第百三十六及第十八表を削除されたのは同じく習会表中に目標種類を限定し且命中弾数標準を加えられたからである」

とある。
新教範では習会表に射撃目標が示されているので、旧教範の第18表のようなものは必要が無くなったということだが...
各個戦闘射撃の習会表(諸射教第2部 附表第7)を見てみよう。

小銃手・特別射手(諸射範 附表第7)
射手種手 習会順次 距離(m) 目標 使用弾 命中弾数標準
初年兵 一般兵 1 200-300付近 伏的1(固定) 8 2
2 300付近 伏的2
(固定1、射倒1)
10 2的2
3 300-400付近 偽装伏的2(隠顕) 12 2的2
特別射手 1 200-300付近 伏的1(固定) 8 3
2 200付近 頭的4(射倒) 12 3的3
3 300-400付近 偽装伏的1
(隠顕)
10 2
4 300付近 立姿側方移動的1
(移動)
5 1
5 300-400付近 伏的2
(固定1、射倒1)
10 2的2
6 400-500付近 膝的1
偽装伏的1
(隠顕)
12 2的2
第2年兵 一般兵 1 300-400付近 偽装伏的2
(隠顕)
15 2的3
特別射手 1 400-500付近 偽装伏的4
(射倒)
15 3的3
2 300付近 偽装伏的1
(隠顕)
6 3
3 500-600付近 膝的2
偽装伏的2
(隠顕)
15 3的3


軽機関銃(諸射範 附表第8)
射手種類 習会順次 距離(m) 目標 使用弾 射法 命中弾数標準
初年兵 1 300付近 伏的1(固定) 30 点射反復 3
2 400付近 偽装伏的5
(固定)
45 点射移動 3的4
3 500付近 偽装伏姿自動火器的2
(隠顕)
45 点射反復 2的4
第2年兵 1 400-500付近 偽装伏的5
(固定)
偽装伏姿自動火器的1
(隠顕)
60 点射反復及び移動 散兵2的3
自動火器的2
2 500付近 偽装伏姿自動火器的2
(隠顕)
伏的1(射倒)
80 点射反復 3的5

部隊での戦闘射撃も行われるが、こちらは教範上に詳細が示されていないので除外。


伏的ばかりの射撃訓練

新教範の射撃習会表に出てくる射撃距離を見ると、小銃は300mを中心に最大400m。軽機関銃は400mを中心に最大500m。という距離が射撃距離として設定されている。
小銃手の射撃距離は旧教範と変化は無いが、軽機関銃の方は旧教範と比べて100m増加している。
昭和15年歩兵操典の「軽機関銃と狙撃手中心の分隊戦闘」、「軽機関銃か狙撃手がまず射撃」という方針を考えれば、訓練時の軽機関銃の射撃距離が増え、小銃には変化が無いというのも特段おかしなことではないだろう。

旧教範では、習会表に射撃目標が記載されていなかった。
そのため、「距離に応じた射撃目標の参考」が記載された第18表が掲載されており、旧軍の教官等の教育者達はこの表を基に射撃目標を(ある程度)独自に設定することが可能であった。

一方、新教範では射撃目標が示されているので、基本的にはその示された射撃目標を使用して射撃訓練を行う。
ここで今一度小銃手(軽機関銃)の射撃習会表を見てみると、300mでも400mでも、射撃目標は伏的となっている。

旧教範の第18表を見るに、400m付近の敵が膝立ち(高さ1m)程度の面積を晒していなければ有効な射撃結果は得られないということになっているにも関わらず、新教範では400m付近であっても射撃目標は伏的(高さ45cm)が設定されている。

これについては、『諸兵射撃教範』等に目立った言及が無いので正確なところはわからないが、新教範は「より実戦的に」という趣旨に則って編纂されているようなので、射撃目標に関しても、旧教範よりもより実戦的な「伏的」が多用される。ということなったのではないかと思う。

「日露戦役に於ける皇軍の全戦傷者の受傷部位百分比例は概ね左の如し

頭部 27% 頸部 2% 胸部 17%
腹部 10% 上肢 23% 下肢 21%

欧米五戦役(クリム戦、伊太利戦、南北戦、独丁戦及独仏戦)に於ては部位別比例に依れば下肢、上肢、頭部、胸部、腹部、頭部、頸部の順序にして概ね一致するを見るもクリム戦の英軍及日露戦役の皇軍は頭首多くして下肢少し欧州大戦に於ても胸部以上の損傷著しく増加せり要塞戦の多きと塹壕戦に於ける地物の応用及伏姿等の関係に因るものと認めらる日露戦役に於て要塞戦と野戦とを比すれば要塞戦に頸部の増加、下肢の減少著しきを見る猶日露戦役に於ける皇軍傷者の入院したるものに就き部位別百分率を見るに

頭部 19% 頸部 2% 胸部 14%
腹部 8% 上肢 30% 下肢 27%

にして従前の戦役に比し頭首の比例最も増加し胸部之に次ぎ下肢に於て著しく減少せり」

(『軍陣外科学教程』,陸軍軍医団,1940)

特に第一次世界大戦以降は、身体の大部分を遮蔽したり、伏せた状態で射撃することが普通となっているので、新教範ではそれをより強く反映させて、射撃目標は伏せた状態の敵を模した「伏的」が多くなっているのだろう。


旧軍の軽機関銃の射撃開始距離は?

そもそも旧軍は、明確な射撃開始距離を設定していないので、 端的に言えば、「旧軍の射撃開始距離は決まっていない」ということで話は終わる。

とはいえ、教本や訓練で「よく使われる数値」というものはあるようで、例えば『歩兵教練の参考』を見ると、小隊長の射撃開始号令の例で示されている射撃開始距離は「500m」が多い。(もちろん600mや400mという場合もあるが)

新(旧)射撃教範の各個戦闘射撃習会表では、小銃は400m、軽機関銃は500m(400m)が最大射撃距離となっていた。

第百二十二 射撃は先づ軽機関銃要すれば之に狙撃手を加え状況に依り先づ狙撃手のみを以て行い敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば更に所要の火器を増加す」

という歩兵操典の条文を踏まえて考えてみると、例えば、小隊長が分隊に対して「500m」から射撃開始を命令した場合、分隊長は「500m」付近から「射撃を開始することを考慮」する。(歩操第121の「射撃は近距離に於て敵を確認し十分なる効果を予期し得る場合に於いて行う」という文からして、必ずしも小隊長の命令そのまま「500m」から射撃を開始するというわけではない)

仮に500m付近で「十分効果を予期できる」場合、まず、500m付近から分隊の前方散兵群(狙撃手、軽機関銃)が射撃を始め、後方散兵群である小銃手(群)は、白兵貯存の主義に則り「勉めて敵眼敵火を避け一意前進」(歩操 第118)する。

軽機関銃に関しては諸射教範の数字や歩兵操典の記述等からすれば「500m」が実質的な射撃開始距離なのではないだろうか?

問題は小銃である。


旧軍の小銃の射撃開始距離は?

前進している小銃手(群)は爾後、第122の記述の通り、「敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば更に所要の火器を増加す」(第122の「火器」は、小銃手だけではなく、軽機関銃や狙撃手も含む)
この「近接」が示す距離が一体どれ位なのか?
単純に考えれば600m以下のことだが、それでは直接的すぎる。
他の記述からして、600mより小さい距離、さらに言えば、軽機関銃の射撃開始距離以下を示していそうでもある。

小銃が撃ち始める時期の内、比較的推測しやすい例として、攻撃側が最も火力を必要とするのは突撃の直前である。

第百二十九 突撃の機近づくや分隊長は要すれば更に小銃手を火線に増加し益々沈着して火力を発揚し...」

突撃直前と言っても、砲兵の突撃支援がある場合は、敵前250m前後から射撃をせずに砲撃に膚接して前進することも可能であるし、反対に歩兵独力での突撃であれば、本当に突撃直前(例えば敵前50m等)まで射撃が必要な場合もあるだろうから一様には言えないが、参考として『初級戦術講座』にはこのような言がある。

「突撃準備を為すべき時期に就ては、先に歩兵操典草案(※大正14年)の記述が明瞭でなかった為、突撃準備は動(やや)もすれば、敵に近迫後始めて実施すべきものかの様に誤解せられ勝ちであった。即ち各隊の演習等を見ても敵前二百米位に近迫してから、此所に暫く停止し、始めて何だ彼だと一度に突撃の諸準備を行い、然る後突撃を開始するのを常態とした様に思われる。演習で弾丸が飛んで来ないからよい様なものの、敵前二百米位の処と云えば実戦に於ては敵歩兵火の最も熾烈な所である。...」
(『初級戦術講座』,稻村豐二郎,1931)

距離が近くなればなるほど敵火が激しくなるであろう事は想像に難くない。
(近づくにつれて敵兵が減っていき、火力が衰えるという事もあるだろう)

敵前200m付近では相応の火力が必要だろうから、それまで小銃手を一切火線に出していない場合でも、それなりの人数の小銃手を火線に出さざるを得ないだろう。
少なくとも、200m付近で小銃が射撃を開始する可能性は非常に高い。

とはいえ、突撃前に火力が必要なのは分かるが、実際にはそれ以前の段階で必要になることもあるだろう。
というよりも、むしろこちらの場合の方が多そうではある。

例えば、旧陸軍の仮想敵国であるソ連軍の小銃手は400m位から射撃を始めるわけだから、単純に考えれば「敵の射撃が熾烈になり始める」のは、400m付近と考えることもできる。
(旧軍の射撃習会表において、小銃手の最大射撃距離が400mとなっている理由の一つでもありそうだ。)

ソ連軍の軽機関銃が沈黙していないのであれば、400m付近からは軽機関銃(+狙撃手)+小銃の火力を受けることになる。
旧軍の前方散兵群(軽機と狙撃手)の火力で対抗できるのかといえば、おそらく難しいだろう。

歩兵操典や諸射教範その他の記述等を考慮すれば、旧軍の小銃手の実質的な射撃開始距離は「400m」なのではないだろうか。


各種資料から考えた実質的な射撃開始距離

軽機関銃は500〜400m付近(小隊長の射撃開始命令の距離、分隊長の射撃開始命令の距離と近似)
狙撃手は600〜400m付近(軽機より早い段階で撃ち始める場合も)
小銃手は400〜300m付近(基本的には軽機・狙撃手よりも後に射撃開始)

これらが旧軍の射撃開始距離とみることできそうだ。
当然、射撃開始の時期は時と場合によって変化するものであるから、この数字も目安に過ぎないのだが、それは米ソも同様のはずなので、より一層、旧軍が射撃開始距離を明確に設定していないのが際立つ。

分隊長のような、より下級の指揮官に、より多くの裁量を与えているのだ。と言うこともできる。
ものは言いようである。


2016.6.27 追記
新歩兵操典草案ノ研究 第2巻(戦術研究会編, p.115)
射撃開始の時機は敵が陣地前幾何の距離に接近したるとき行うべきやに関し屢々質問を受くることあるも之に対する答解は数字を以て示すは害あるを以て甚だ漠然と教示する他なきも、初学者は火網の前端を六百米とすれば此附近より射撃を開始する如く解するもの多く、漠然と示すは却て誤解を生ずるを以て此所に一の基準を示し「分隊は通常四百米以内に於ける火戦に任ずるものなり」として参考に供せん

とのこと。
草案時代の話なので後年もこれが引き継がれているのか不明だが、米ソとほとんど同じような基準となっている。
ただ、この文は(射撃開始距離を仕方なく示しているが)公式では無く、あくまで一つの参考であるということに気を遣って記述しているように思える。
やはり旧軍として「公式の射撃開始距離」というものは設定されていないようである。

2016.7.24 追記
徒歩小、分隊ノ指揮及訓練ノ参考(陸軍騎兵学校編, 1941, p.212)
十二、分隊は状況に応じ必要なる火力を火戦に参加せしめて射撃を為す之が為分隊当初の火戦は通常軽機関銃及狙撃手を以て之に充て時として単に狙撃手のみを以て之に充つることあり又逐次敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば所要の小銃手を火戦に加う
十分なる射撃効果を期待し得る距離は目標の状態、天候、気象等依り異なるも特に有利なる目標を除きては軽機関銃に在りては概ね六百米以内、狙撃手に在りては概ね八百米以内、小銃手に在りては概ね四百米とす

同書第3章(pp.24-27)には、各兵器の効力等が掲載されている。
これによると小銃手と狙撃手と軽機関銃の実用射程距離は以下のようになっている。

実用射程距離
一般小銃手...400m以内
狙撃手...........600m以内(狙撃眼鏡使用時は1000m以内)
軽機関銃.......600m以内(状況により1000m付近でも相当の効果あり)

つまり、射撃開始は実用射程距離(有効射程)以下から。というわけである。

騎兵や機甲に限らず、工兵や輜重兵も小隊・分隊戦闘は歩兵のものとほぼ同じ要領(歩兵のものを参考というか、流用している)なので、おそらく歩兵も同様だろう。
ある程度はっきりとした数値を示した参考書が歩兵ではなく、騎兵(機甲)の方から出てきた形である。

とはいえ、この記述も厳密に見れば「射撃開始距離」が示されているわけではなく、射撃開始の目安として「十分なる射撃効果を期待し得る距離」が示されているだけである。
有効射程をもとに射撃開始距離を公式的に設定すること」と、「射撃開始距離の目安として有効射程を示すこと」は、結局どちらも「射撃開始距離は有効射程」ということであり、本質的にはなんら違いはない。
結果的に両者の違いは、「明示している」か「明示していないか」というだけの話である。
要は旧軍も他国の例に漏れず、射撃開始距離は有効射程が基準となっていたというわけだ。