2015年1月31日土曜日

日本軍 近代の歩兵戦法 (五)

歩兵操典草案 分隊

新戦法の導入

昭和3年(1928)に改定された歩兵操典の中身、「疎開戦闘方式」は旧式だというのが前回の話。
そのため、他国に遅れまいと「新戦法」と言う名の戦闘群戦法の研究に入るのが昭和8年頃。
参照:『JACAR Ref.C14010759700、支那事変 大東亜戦争間 動員概史(防衛省防衛研究所)、p.2』

2015年1月15日木曜日

日本軍 近代の歩兵戦法 (四)

時代遅れの疎開戦闘

 

昭和3年に歩兵操典を改正し、疎開戦闘方式を導入した。しかし実際のところ、形式に差異はあるが疎開戦闘自体は第一次世界大戦の頃に列強が運用していた戦闘方式に近いものであり、その疎開戦闘も大戦後期に小部隊での戦闘が行われるようになって以降、特に第一次大戦後は陳腐化して、列強各国は大戦以降に順次、戦闘群戦法を採用・運用していた。
とは言っても、戦後しばらくは小銃分隊と軽機関銃分隊が分かれた、日本軍の疎開戦闘方式と似たような編成がなされていたが…(英軍や独軍がこれ。ただし、日本軍とは違い軽機分隊と小銃分隊の数は同数だったようだが。一方、仏軍は本家だけあって、大戦中に導入した戦闘群戦法をそのまま戦後も運用している。当然か。)

ちなみに、仮想敵国であったソ連軍は1930年初期に戦闘群編成に移行。近代デジタルライブラリーで閲覧できるソ連の新しい(改正?)歩兵操典が1938年に発布となっているので、正式な導入はおそらく1938年頃だろう。
もっとも、『狙撃分、小隊及敵弾銃分隊戦闘教令草案』(ソ軍の教令の翻訳)では、1932年夏に歩兵操典が改正されるという予定だったようだ。改正が遅れたのか、二回改正したのか。詳細は不明。

昭和12年頃のガリ版の「某軍ノ編成装備」(“某軍”は大体がソ連軍を指す)という資料では、狙撃小隊の編成は小銃三分隊軽機二分隊となっている。ソ連軍でも完全に戦闘群編成に移行していたわけでは無さそうだ。日本側の情報が古いだけかも知れないが。

※疎開戦闘や戦闘群戦法と言う語は日本軍が使用した単語。直訳なのか旧軍が作った言葉なのかは不明。ただ、「戦闘群」に関してはフランス語で"Groupe de combat"という分隊(半小隊?)を示す語がある。

戦闘群

戦闘群についての説明としては『世界大戦ノ戦術的観察. 第3巻』 が良い。
引用すれば、

「(前略)此ノ教令ニヨル戦闘群ハ半小隊ヲ以テ単位トスルモノニシテ歩兵各小隊ハ之ヲ全ク同一編成ノ二半小隊ニ分チ各半小隊ノ定員ハ
 軽機関銃一(弾薬手ト共ニ三名ヲ以テ一組トス)
 擲弾銃  三(銃榴弾ヲ発射スル小銃ナリ)
 擲弾歩兵約七(小銃並ニ手投榴弾ヲ携行スル歩兵トス)
・・・ 『世界大戦ノ戦術的観察. 第3巻』p,124
(近代デジタルライブラリー:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907096/84)

ただし、これは大戦中のフランス軍が生み出した、最初期の戦闘群についての説明である。
大戦中にフランス以外でもこの様な編成を採った国があるかも知れない。
戦後になって戦闘群編成は各国でも採用されることとなるが、戦闘群(分隊)の編成は各国で若干違っており、当然といえば当然か戦闘群の生みの親たるフランス軍も後年には、上記の説明違う装備・編成になっているようだ。

 「一九三二年新編制ニ基ク 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案」
(歩兵学校によるソ連軍の教令草案の翻訳書籍)
戦闘群(分隊)の編成は国によって違う
戦闘群戦法

戦闘群戦法が登場する以前のフランス軍の戦法は、部隊を横に並べて第一波・第二波に分けて直進、波状攻撃を行ういわゆる散開戦闘(疎開戦闘と呼んでいる書籍もある)であった。
その後、1916年に歩兵の装備に軽機関銃が取り入れられて、若干の変化が起こる。(この時期の戦法がおそらく日本軍が昭和最初期まで運用していた疎開戦闘方式の源流。ただし、未確認)
※追記:戦後(WW1)のイギリス軍が小隊を戦闘単位として重視していた模様。これを参考にはしたと思うのだが、関連書籍に英軍を参考にしたという話は出てこない。


世界大戦ノ戦術的観察. 第2巻』p.111
……仏軍ハ十六年二月十三日『軽機関銃ノ用法ニ関スル教令』ヲ発布シ其使用ヲ指示シ且歩兵一中隊ニ八銃ノ軽機関銃ヲ配属セリ
……軽機関銃ノ使用法ヲ重機関銃ノ使用法ニ準拠セリ即チ軽機関銃ハ突撃ニ任スル第一波及塹壕ノ掃蕩ニ任スル第二波ニ附スルコトナク第三、第四波ニ附シ(若シ中隊カ二線ノ波トナル時ニハ第二線ニアル中隊内ニ編入ス)……


世界大戦ノ戦術的観察. 第3巻』p.123
……十六年九月二十七日発布ノ教令ニヨリ更ニ左ノ如ク変更セリ
「攻撃ニ於テハ軽機関銃ハ第一波ニ使用シ擲弾兵ノ追ヒ出シタル敵ヲ軽機関銃ニヨリ射撃シ又ハ逆襲アル場合ニ直ニ火力ヲ発揚ス而シテ突撃兵タル軽歩兵ハ第二波ニ位置シ第一波ニヨリテ損害ヲア与ヘタル敵ヲ撃滅ス
時トシテ正面普通ヨリ大ナル場合ニ於テハ軽歩兵ヲ第一線ニ出シ軽機関銃ヲ囲繞スル如ク配置ス 」ト

一方で、連合軍の対抗軍たるドイツ軍の陣地は年を追うごとに変貌し、1917年頃には地帯防御・自動火器中心の小拠点網状陣地の採用などにより強固なものとなり、散兵戦闘等では対処しきれない状況となった。

1917年9月、仏軍大本営教令の発布により、フランス軍では戦闘群編成が採用される。
その目的は、敵の砲撃の被害を減少させるとともに、 各戦闘群が前後左右に独断的に移動及び戦闘を行えるようにすること、つまり、小部隊の運用に柔軟性を与えることにあった。

<追記.2015.11.21>
このサイト(http://www.151ril.com/)ではフランス軍に関する情報を掲載している。上のhistoryのタブから左のFrench Armyへ行くと、フランス軍の中隊編成(Organization of an Infantry Company)の情報がある。

1916年7月から1917年9月まで
中隊:4個小隊
小隊(Section):2個半小隊
第1半小隊:2個分隊
第1分隊(擲弾兵部隊):8名
擲弾兵伍長1名、擲弾兵(投擲手)2名、弾薬運搬兵2名、補助兵2名、"floater"擲弾兵1名
第2分隊(自動小銃部隊):7名
部隊長伍長1名、射撃手2名、弾薬運搬兵2名、補助兵2名
※擲弾兵は手榴弾投擲兵。自動小銃はおそらくFM mle1915(ショーシャ軽機関銃)
第2半小隊:2個分隊
第3分隊(小銃部隊):12名
歩兵伍長1名、V.B.小銃擲弾兵2名、弾薬運搬兵1名、小銃兵8名
第4分隊(小銃部隊):13名
歩兵伍長1名、V.B.小銃擲弾兵2名、弾薬運搬兵1名、小銃兵9名

※ここでは小銃兵としたが、元サイトでは"Vaulters"となっている。原語のフランス語では"Voltigeurs"となるようだ。直訳すれば躍進兵とでも呼べば良いのか。ナポレオン戦争の頃の歩兵の一種で、日本では選抜歩兵と訳されている様子。本分隊は、V.B.(vivien bessières)小銃擲弾と小銃を装備した分隊。小銃擲弾を装備する等の部隊の変化にあたり、伝統的な小銃兵を"Voltigeur"と呼ぶようになったとのこと。WW2中にドイツが一般歩兵を擲弾兵と呼ぶようになった事と似たような感じだろうか?単に小銃兵/部隊と呼んでも差し支えはないと思う。また、フランス軍では小隊を"Section"と呼ぶ。

1917年10月から1918年10月まで
中隊:4個小隊
小隊(Section):2個半小隊
第1半小隊:2個分隊
第1分隊(擲弾兵部隊):7〜9名
擲弾兵伍長1名、擲弾兵(投擲手)2名、弾薬運搬兵2名、補助兵2名、"floater"擲弾兵2名
第2分隊(自動小銃・小銃擲弾部隊):7〜9名
歩兵伍長1名、自動小銃射手1名、弾薬運搬兵2名、V.B.小銃擲弾兵3名、"floater"自動小銃射手1名、弾薬運搬/小銃擲弾兵1名
第2半小隊:2個分隊
第3分隊(自動小銃・小銃擲弾部隊):7〜9名
歩兵伍長1名、自動小銃射手1名、弾薬運搬兵2名、V.B.小銃擲弾兵3名、"floater"補助兵2名
第4分隊(小銃部隊):7〜9名
歩兵伍長1名、V.B.小銃擲弾兵2名、弾薬運搬兵2名、補助兵2名、"floater"補助兵2名

※"floater"は分遣隊。徐々に使われるようになったが、毎回いるとは限らないため分隊の兵員数が変動する。とのこと。

1918年10月〜
小隊(Section):3個戦闘群
戦闘群(分隊):2個班
第1班(自動小銃部隊):6名
班長伍長1名、自動小銃射手1名、弾薬運搬兵1名、補助兵3名
第2班(擲弾兵部隊):6名
擲弾兵伍長1名、擲弾兵(投擲手)2名、弾薬運搬兵2名(内1名は小銃擲弾兵)、予備擲弾兵1名

※完全な戦闘群編成。元のサイトでは分隊長や副分隊長を"team leader corporal"、"grenadier corporal"と記述しているので直訳したが、班長伍長や擲弾兵伍長といった階級があるわけではないと思う。

この編成を見ると、上で説明してきた旧軍の認識による戦闘群編成の変遷と若干異なるのが気になる。
この情報によれば、完全な戦闘群の正式な登場は1918年であるということになり、しかも、第一次世界大戦末期に誕生した戦闘群編成は、第二次世界大戦までほとんど変化せずに運用されていたということになる。
実際、海外では小部隊(分隊)の"Fire and Movement"が行われるようになったのはWW1の末期からであると説明している場合が多い。
旧軍の情報が間違っているのかというと、判然としない。実際に教令が出ていて、訓練等を行って、完全に導入できる目処がたってから導入したという場合もある。機会を見て更に調べてみようと思う。

<追記ここまで>

旧来の戦闘方式では、各部隊は前進するか後退するか程度の動きしか出来ず、機械的な戦闘しか出来なかったが、戦闘群戦法では戦闘群は自部隊が行動できる範囲内(小隊の行動範囲から脱しない程度)であれば前後左右自由な運動が可能であり、以前の戦闘と比べると俄然有機的な運用が行えることになる。
この“分隊が比較的自由に運動できる編成”は、日本が連合軍陣営であったためか、日本の文献では記述が希薄だが、ドイツの”Stoßtrupp”にも当てはまるだろう。”Stoßtrupp”もその根本的な狙いは分隊規模で比較的自由な運動を行うことにある(と思われる)。
結局のところ、自分が思いつくことは同時期に他人も思いつくし、相手が使う良い戦法や編成は参考にされたり、取り入れられる。

『戦術学要綱』中の図

導入された戦闘群戦法 

昭和12年(1937年)5月に歩兵操典草案が配賦される。この草案から新たに日本軍で運用されることとなるのが軽機関銃を各分隊に配備し、分隊長にもある程度独断を許し、分隊規模で独立した運動ができる戦闘方式。つまり戦闘群戦法である。
昭和12年の歩兵操典草案発布、昭和15年の歩兵操典改定・施行から終戦まで、日本軍の戦闘は基本的に戦闘群戦法を基礎とした日本独特の(戦闘群)戦法が採用されている。

しかし、戦闘群戦法は第一次世界大戦以降、一般的な戦法と化しているためか、「戦闘群戦法」自体についての具体的な説明は希薄で、草案にも操典にも「戦闘群」という単語は出てこない。(歩兵操典以外の書籍で多い記述は”新戦法”)
関連書籍には記述されているものもあるが、十分とは言えなかったため、本格的な内容に入る前に戦闘群戦法に関して、ここで少し触れておくことにした。

昭和12年歩兵操典草案の新戦法⇒近代の歩兵戦法(五)
参考文献

・偕行社編纂部 編『世界大戦ノ戦術的観察. 第3巻』(偕行社, 1924)
(近代デジタルライブラリー:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907096)

2015年1月8日木曜日

小銃分隊の射撃

射撃の挙動

日本軍の小銃射撃


旧軍の小銃射撃はいわゆる部隊射撃と呼ばれるもので、歩兵操典(1940)中では分隊の射撃に関して以下のように記述されている。

第百二十五 分隊長は予め目標、射距離(照尺)、要すれば射向修正量、照準点を示し発射を号令す散兵を増加するときは先ず其の位置を示す
射撃開始後は分隊長は通常目標、射距離の要するときの外号令を下すことなく散兵は停止せば自ら射撃を行ふ


更に詳細で平易な説明としては、以下のような説明がある。

「分隊長は、小隊長より小隊の攻撃目標を示されるから、直ちに之を兵に示し、分隊の攻撃(射撃)目標と照尺、必要あれば照準点射向修正量を示した後、発射を号令する。
其の後は、分隊長の号令を待たずに、直ちに射撃をする。照準点は各人が選定するのである。
併し敵の位置が、眼鏡で視れば判るが、肉眼では判らぬ場合がある。此の際は、敵の前又は後方近くにある森の下際とか、堤防の上端とかを照準する方が、却って射撃し易いから『照準点は森の下際』というように示すことがある。之を補助照準点と謂う。
分隊は射撃する目標に向かって前進するのであるが、時には斜め方向の機関銃を射ちつつ、前方へ前進する場合、即ち射撃目標と前進目標が違う場合がある。」  
帝国軍事教育社(1941)『最新図解陸軍模範兵教典』p.548

※上記説明では、小隊長から示されるのは小隊の攻撃目標だけのような記述となっているが、歩兵操典の第百十五第百四十八によれば、小隊長は「小隊の攻撃目標及び分隊の攻撃(射撃)目標」を示すということになっているので注意。

日本以外の列強国では、分隊長は軽機関銃の射撃を指揮し、各小銃兵が有効射程内の敵に対して、独断で射撃を行う各個射撃を基本とし、例外的に部隊での射撃(集合射撃)を行う方式《フランス》や、各個射撃と併せて、状況によって部隊射撃も行う方式《ドイツ》など、各兵が随意に射撃する方式が主流であった。 
参考:陸軍歩兵学校将校集会所(1923)『改正歩兵操典草案ニ関スル研究』pp.42,65

1923年以後に変化している可能性もあるが、列強では分隊の小銃手はなかなか自由に射撃が行えるらしい。
一方、日本軍では前述の通り分隊長が目標を示して、その示された目標を各小銃手が射撃するという部隊射撃であり、他国のように兵個人が独断で射撃目標を選ぶという形式は採用されていない。
ただし、分隊長が示す目標は、機関銃や火点なら問題ないが、敵の部隊や敵陣地といったような幅を持った目標が示される場合がある。
この場合、示された目標が例えば敵の分隊であった場合、少なくとも敵分隊の兵員数だけ射撃対象が存在する事になる。各兵は敵兵のどれを撃つかということを個人で判断・射撃することになっているので、その範囲においては各兵の独断での行動が可能となっている。


小銃と軽機関銃

軽機関銃が出現して戦闘群編成が一般的になって以降、分隊の中心火力は軽機関銃となる。
単純な話、軽機関銃は一丁で小銃10丁分以上の発射数を持つので、軽機関銃だけで小銃分隊一個分の射撃能力があると言える。そして、これは逆に言えば、小銃手10人前後が同一目標を射撃すれば、軽機関銃と(実際の所、少々劣るものの)同等の効果を得られるということでもある。

旧軍の疎開戦闘方式は軽機関銃分隊と小銃分隊に分けられていた。
小銃分隊は軽機関銃分隊と比べると火力不足かというと必ずしもそういうわけではなく、小銃分隊は分隊の兵員数が軽機関銃分隊よりも多く、基本的に軽機関銃のみが射撃を行う軽機関銃分隊とは違い、小銃分隊では分隊の全兵員による射撃も可能である。(軽機関銃分隊の軽機関銃手以外の兵は小銃を所持しているが、特に火力を必要とする場合や軽機が故障した場合等を除き、基本的に小銃の射撃は行わない)これに加え、分隊長の統轄による部隊射撃を行うことで、小銃分隊も軽機関銃分隊と比べて(実際の所、少々劣るものの)遜色ない火力を持たせている。

疎開戦闘方式は、小銃を軽機関銃と併せて主要火力として扱う戦闘方式である。
「小銃のみの戦闘」と「軽機関銃中心の戦闘」の間、過渡期の戦闘方式であり、これらをおおまかに区分すれば下記のようになる。

WW1以前~WW1初期   WW1中期~戦間期      WW1後期~WW2
散兵線戦闘(小銃のみ)→疎開戦闘(小銃と軽機関銃)→戦闘群戦闘(軽機関銃中心)

これらの戦闘方式は、装備火器によって分類したり、説明を行うのは適当でないのだが、概ねこのような変遷を経ている。

日本軍も、1937年の歩兵操典草案から戦闘群戦法を導入することになるが、この部隊射撃は一貫して採用されている。
他国が同じ戦闘方式を採用していても、細かく中身を見ていくと国によって違いがあるわけだが、日本軍の場合、良し悪しは別にして、この部隊射撃の採用は一つの特色といえるのではないか。