歩兵操典草案 分隊 |
新戦法の導入
昭和3年(1928)に改定された歩兵操典の中身、「疎開戦闘方式」は旧式だというのが前回の話。そのため、他国に遅れまいと「新戦法」と言う名の戦闘群戦法の研究に入るのが昭和8年頃。
参照:『JACAR Ref.C14010759700、支那事変 大東亜戦争間 動員概史(防衛省防衛研究所)、p.2』
疎開戦闘 |
疎開戦闘では、基本的に小隊中にある分隊は”小隊の攻撃目標”に向かって前進するくらいの行動しか出来ない。隊形からもある程度予想できるように、ほぼ横一線に並べている状態の為、分隊の左右への移動は限定されている。
戦闘の展開によっては、分隊が左右に移動することがあるかも知れないが、基本的には前進か後退かの二択である。
昭和12年(1937)に配賦された歩兵操典草案では、戦闘群戦法の導入が成された。
分隊は小隊の行動範囲内で前後左右の移動ができるようになり、疎開戦闘方式と比較すると有機的な戦闘が可能となった。
ただ、勘違いされやすいのだが、歩兵操典草案中の
第二百二 (前略)疎開せる小隊の前進、停止は小隊長の命令に依り分隊長の号令を以って行う
第二百四 小隊長は火戦の実行に先だち各分隊長に現地に就き小隊の攻撃目標を示し所要の分隊に戦闘任務を附与し爾後の分隊の行動の準拠を与う
戦闘任務を付与するには通常分隊の攻撃目標を以ってするものとす時として射撃目標及攻撃前進すべき方向を以ってすることあり(後略)
第二百五 戦闘任務を附与したる後に於ける小隊の運動及び射撃は小隊長之を統轄し各分隊の前進、停止及び射撃は分隊長をして直接指揮せしむるものとす
といった記述の通り、分隊(分隊長)の独断で移動や攻撃を出来るわけではない。小隊長からの命令や戦闘任務の付与以降、ある程度の自由が許されているだけである。当然、分隊が小隊長の命令と異なるような行動はできない。
「独断専行」という言葉もあるが、これは命令を受けられない、又は命令が届くのを待っていられないような状況下で、上官の意図を見抜いて、それに沿うような行動を独断で行うことであり、上官の意図から逸脱するような行動は当然(少なくとも一般的には)許されていない。
なにより、小隊長が最前線に出ていく日本軍にあって、分隊規模で独断専行をするというのは、まずありえないだろう。
この草案で戦闘群戦法が日本軍に導入され、その直後にこの新戦法を実戦で運用する機会を得るが……
歩兵操典草案の配賦が1937年5月。直近の戦闘といえば第二次上海事変(1937年8月)だが、操典草案の配賦後間もない上、歩兵操典草案はあくまで「草案」であり、本採用された典範令というわけではないので、この上海事変では、昭和3年の歩兵操典に則った編成・運用をしている部隊もあれば、草案の編成・運用をしている部隊もあるといった状況である。
昭和13年(1938)の時点でも草案ではなく、現行の歩兵操典(昭和3年)の編成運用を行っている部隊もある。この新戦法がほぼ全部隊で運用されるのは、昭和15年の歩兵操典の施行まで待つこととなる。
昭和15年歩兵操典の内容へ⇒基本各個教練(一)
参考文献
・陸軍歩兵学校 編『歩兵中隊教練ノ参考(小隊)第三巻ノ上』(陸軍歩兵学校将校集会所, 1938)
・『歩兵操典草案 』(武揚堂書店,1937)
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