2015年9月24日木曜日

小銃の紋章

『軍隊精神教育資料』(川流堂、鷹林宇一、1940)という書籍に小銃に刻印された菊の紋章についての来歴がまとめられている。
なかなか興味深い内容なのでご紹介しよう。




小銃々身に刻せられたる御紋章に就て

 一、起因――廃藩置県に伴ひ、明治五年各藩兵器を政府に還納せしが、是等兵器中には各藩の家紋又は徽章を彫刻しありし為、政府は所有権が国に移り陛下の兵器となれる事を明にするため、主要兵器たる銃砲には小なる御紋章を彫刻す。今日残存する当時の銃砲(兵器廠の参考兵器及遊就館陳列兵器)には、総てとは云い得ざるも多く見る所なり。

 二、制式小銃に御紋章を刻せられたる由来――前述の如き関係より維新当時陸軍使用の銃砲は殆ど御紋章附のものたりしなり。故に十三年式村田銃制定の際には自然御紋章彫刻の議あり。特に小銃は各人携帯のものなるを以て兵器の尊重心を涵養(かんよう)する事最も必要と認め、此の議を決行せられたるものなりと伝えらる。以後制定の各式小銃にも前例に基き刻せられ、今日に至れるものと認めらる。

 三、火砲に就て――明治十六年四月七糎野山砲の制定に伴ひ、御紋章を刻する事に関して詮議せられたが、当時の陸軍砲兵会議は諸種の理由に依り、之を否決し沙汰止みとなれり。

 四、小銃に刻せられたる御紋章の由来――明治五年幕府及各藩より兵器の還納があった。之等兵器には夫々幕府及二百六十余大名の紋章が刻しあって政府の兵器としては兎も角余り面白くない。そこで種々研究の結果、帝室の御紋章を之に刻することに決定し、即ち菊花の御紋章(単弁のもの)を打刻し、之を当時の軍隊に支給したが、之が即ち兵器に菊花御紋章を打刻した嚆矢(こうし)であった。遊就館及兵器廠所蔵の旧式兵器には総て此の打刻を見る。
明治十三年村田銃の制定せらるゝや該銃にも亦菊花御紋章打刻の議あり、東京砲兵工廠より陸軍省を経て宮内省に伺出て之を実施することゝなった(陸軍少将男爵村田經芳談)。当時東京砲兵工廠提理より陸軍卿大山巌に提出したる申進左の如し。

村田銃刻印ノ議ニ付キ申進(廠第十八号)
当廠製造之村田銃々身ハ別紙の図面(省略)之通刻印相用ヒ云々。
明治十三年八月十五日
陸 軍 卿 宛東京砲兵工廠提理
陸軍砲兵大佐 關   迪 教

 五、兵器局長の照会――大正四年四月八日筑紫兵器局長より兵第一八三号を以て、東京砲兵工廠及陸軍技術審査部へ(陸軍技術本部前身)左の如く照会があった。
(東京砲兵工廠提理へ照会)
『本邦制式小銃ハ村田銃以来御紋章ノ刻印有之候得共調査上必要有之候ニ付御紋章ヲ附スルニ至リシ歴史ノ大要ヲ調査シ通報相成度候成』

(陸軍技術審査部ヘ照会)
 本邦制式小銃ニハ従来御紋章ノ刻印アルモ其他ノ兵器ニハ之ヲ附セズ経過致居候処兵器尊重心ノ向上ヲ計ル為ニハ単ニ小銃ノミナラズ重要ナル兵器全部ニ之ヲ附スルヲ有利トモ認メラレ候ニ付本件ニ関スル貴部ノ意見並ニ既往ニ於テ本件ニ関スル研究有之候哉ニ及聞候ニ付其ノ経過等調査ノ上併テ通報相成度候也


右照に対会し砲兵工廠提理及技術審査部長回答の概要は左の通りであった。

(宮田東京砲兵工廠提理ヨリノ回答)
 大正四年四月八日第一八三号照会相成候本邦制式小銃ニ御紋章ヲ附スルニ至リシ歴史ノ件調査候処之ニ関スル記録無之亦文書モ現存セザル故確タル回答ニ及難ク候得共左記退役陸軍少将男爵村田經芳氏ヨリ聞得シタル点参考迄回答候也


 六、村田經芳氏の言――明治十三年村田銃を創製し之を軍用銃として制定せらるる際外国軍用小銃には徽章を刻しあるに倣ひ本邦製式銃にも御紋章を附したき旨東京砲兵工廠より陸軍省を経て宮内省に伺出で即時御裁可を得て之を実施するに至りたるものと記憶す
 【註】村田男(爵)の此の記憶に関しては砲兵工廠及陸軍省大日記に何事の記録なく殊に御裁可を仰ぎたる此の如きは頗る疑点に存す。

(島田技術審査部長の回答)
 本年四月兵第一八三号ヲ以テ照会相成候主要兵器ニ御紋章鍋刻ノ件ハ依然之ヲ鍋刻スルトセバ其ノ範囲ノ決定容易ナラズ実施上尠カラサル困難ヲ惹起スルコトト相成リ殊ニ兵器ノ種類ニ依リテハ使用間或ハ御紋章ニ対シ不敬ニ陥ルノ嫌ナシトモ申難候間小銃ノ如ク従来慣用セルモノヲ除キ其ノ他ノ兵器ニハ之ヲ鍋刻セザルヲ適当トスル意見ニ有之候也


 七、御紋章の菊花弁数に関する疑義――御紋章は三十二弁の菊花である。然るに小銃に刻せられたる御紋章は十六弁である、されば小銃の刻印は御紋章でない。此の議論は一時当事者間の問題となった事がある。之に対し当事者は左の如き断定を下した。
 御紋章は必ずしも複弁に非ずして単弁なるものある故に小銃の菊花章は御紋章に非らずと断定することを得ず。
 之で十六弁も三十二弁も等しく、皇室の御紋章であることは明瞭となったのである。
 菊花弁数に関し調査したる断片は次の通りである。
 抑〻皇室にあらせられて菊の御紋章を最初に御使用になりたるは、後鳥羽天皇の御代である。天皇は深く刀剣を愛せられて、遂には御親から太刀を御鍛へ給ふた。而して其の太刀には必ず菊花を銘せられた。現時此の御太刀の存在せるものは宮中に三振、九條、山内、水戸徳川、尾張徳川、姫路酒井、大島義昌及久原家に各一本にて都合十本である。之等菊弁は皆十六枚である。されば帝室御紋章は兎も角十六弁が根本ではあるまいか否か。其の後美観の為に三十二弁に変った。其の年代は不明であるが、毛利元就が正親町天皇の御即位式の資として米千石を献上し、天皇嘉納し永禄三年正月大礼を挙行し給ひ、詔して元就を大膳大夫に任じ菊桐の記号を賜ふた。此の時賜ひたる菊は始めて複弁で即ち三十二弁であった。是が抑〻三十二弁の嚆矢である様に思はれる。昔時は兎も角近時は我が皇室の御紋章は三十二弁である。今貴族院の玉座を飾る菊花御紋章は十六弁であって、当時某新聞が大に之を攻撃した事があった。議院が否か新聞が是か。

菊花御紋章ニ関スル諸々ノ達
◎明治元年二月九日太政官布告
 先般御制度改正ニ付諸藩宮門警衛被仰置候銘々旗幕並提燈等ニ至ル迄菊花御紋相用候様追討被仰附諸藩以来一隊ニ一旒迄菊花御旗被下候間家々ニテ可相調御沙汰ニ相成候へ共右御沙汰ハ御取消ニテ相成以来追討被御附候出兵ノ向ハ朝廷ヨリ御旗渡ニ相成候旨被仰出候事

◎明治元年三月二十八日太政官布告
 提燈其ノ他陶器其ノ他売物等へ御紋章ヲ画キ候事類如何ノ義ニ候以来右類御紋ヲ私ニ付ケ候事屹度可禁止旨被仰出候事

◎明治二年八月二十五日太政官布告
 社寺ニテ是迄菊花御紋ヲ用ヒ来ルモノ不尠候処今般改正ニ相成リ社ハ伊勢八幡上下賀茂等寺ハ泉湧寺般計観等ノ外ハ一切差止メ候旨被仰出候事
但各別由緒有之社等ハ由緒ヲ以テ可伺出候事

◎明治三年十月十四日太政官布告
府県庁(並飛地出張所)等門玄関自今御紋ノ提燈可相用候

◎明治四年六月十七日太政官布告
 菊花御紋禁止ノ儀ハ予テ御布告有之候所尚又向後由緒ノ有無ニ不関皇族ノ外総て被禁止候尤モ紛品相用候儀モ同様不相成候條相改可申候
但従来諸社ノ社頭ニ於テ相用来候分ハ地方官ニ於テ取調可申候事

◎明治七年四月二日太政官達府県
 社寺ニテ菊御紋相用候儀禁止明治二年八月布告候自今官幣社々殿ノ装飾及社頭ノ幕提燈ニ限リ菊御紋相用不苦候旨管内官幣社へ可相達事

◎大正三年四月払下若ハ下付小銃ノ菊花御紋章ノ抹殺ニ関スル陸軍省副官ノ通牒
陸 普第一一四七号

軍用小銃ニ於ケル御紋章ニ関スル件通牒
大正三年四月二十日陸軍省副官

兵器本廠宛
 軍用各種小銃及其ノ廃品ヲ部外ニ払下若ハ下付スル場合ニ於テハ自今銃身ノ菊花御紋章ヲ抹殺スル事被定候條承知相成度候
 大正十一年十二月二十七日(陸普第六四九六号)ヲ以テ払下軍用銃標識打刻ノ件通牒中ニ諸学校及在郷軍人会ニ払フベキ小銃ニハ尾筒御紋章下部ニ学校払下小銃ニ在リテハ「文」又在郷軍人会払下小銃ニ在リテハ「M」字ヲ刻スルコトニ定メラレアリ。


2015年9月17日木曜日

採り入れられなかった?もう一つの「万歳突撃」

「万歳突撃」と言えば普通、戦争末期の自殺的な最後の突撃のことを指す。ここではバンザイ突撃としておこう。

「突撃」は純粋な一般的な戦闘の動作で、戦闘のある一部分の最終局面で行われる行動であり、相手に止めを刺すことが目的である(当然これ以外の目的もあるだろう)。
一方の「バンザイ突撃」は戦闘の最後、相手に一矢報いることを望みつつ「自分」に止めを刺す動作とも言える。玉砕することが主目的であるようにしか見えない。

このバンザイ突撃。戦闘動作としては特殊な動作である。
何しろ、このような死ぬことを前提とした、比較的大規模な突撃に関して記述した典範令というものはないのだ。戦術書にも無い。若干捻くれた解釈ではあるが、戦陣訓でさえも直接的に「最後は突撃して死ね」とは述べていない。何にせよ完全にマニュアル外の戦法である。


バンザイ突撃については深入りせず、この辺でお終いにして、標題の『万歳突撃』の話に入っていこう。

まず、標題の『万歳突撃』というのは一体何なのか?というと、至極簡単。
「万歳」と叫びながら行う突撃のことである。
普通の「突撃」の際に万歳と叫ぶ突撃なので『万歳突撃』。
しかし、万歳と叫びながら行う突撃と言えば、自然とバンザイ突撃の方を思い浮かべるだろう。
『万歳突撃』は、この「バンザイ突撃」との混同を防ぐために“普通の”という言葉を頭につけて『“普通の”万歳突撃』としたほうがいいかも知れない。

歩兵操典等には、突撃時の喊声についての規定というものは存在しない。
一応、訓練の参考書等では「腹の底から出せ」といった注文はあるが、具体的に「ワー」だとか「ウアー」と叫べとは述べていない。つまり、突撃の際の喊声はどんなものでも良いわけだ。

そんな突撃時の喊声だが、昭和7年10月の『偕行社記事第697号附録』にこんな話が載っている。

『……此処にお出でになる武田少将は私が歩兵学校の学生であった時の中隊長で吾々の先生であります。先生を前にして申すことはをかしな話ですが、事実を申上げます。我国の突撃突喊には、どう言へと云うことは書いてありませぬ。即ち喊声は何と言ったが一番宜いかと云ふことを武田閣下が研究されて突込めと言へば万歳と唱ふ。今迄はワーと言ふ、どうも意味がない、それから万歳であるが、私の日露戦争の失敗は敵陣を取ってから万歳と言って居る、嬉しさの餘り万歳を言ふ、之を取る前に万歳と言ったらもっと効果的であろう、剣山=旅順と大連の間にある=を占領してから万歳々々をやったら、今度三方からバラバラやられて沢山の死傷者を出した。此万歳は恨めしい、それよか取る前に突込めの時に万歳々々と云ふことに依ってどれだけ士気が上るかと云ふことは部隊の訓練の時にはいつも言ふて居ることであります。此精神的威力を採用してから非常に効果があった事を確信します。』
(上海に於ける実戦談、辻權作)

どうも戦争末期以前、第一次上海事変の時点で突撃の際の喊声を「万歳」としたほうが良いという話があったようだ。
とはいえ、この万歳突撃。実戦で行われたのか、訓練時だけ行っていたのか、はたまた講話として話されただけなのか、はっきりとは分からない。

だが、上記の話の通りならば、突撃の喊声を万歳と叫ぶように教育するだけで兵の士気が上がり、強くなる(?)はずなのだ。
金もなにも必要ない。非常に安上がりで効果的な方法であるように思える。

ただ少なくとも、突撃の喊声を万歳とする。という教育は一般的ではないし、操典や教練書その他でこのようなことを述べているものは見たことがない。

結局のところ、この突撃の喊声を万歳にしてみるという試みは、一部で行われたに過ぎないのだろう。

2015年9月12日土曜日

週番勤務とは?

軍隊の内務に関するマニュアルである『軍隊内務書』では、「第十四章 週番勤務」の最初の条項である第九十三において、このような規定がある。

第九十三 週番諸官ハ所属週番勤務者ヲ指揮シテ軍紀風紀ノ維持諸法則ノ実施如何ヲ警視シ以テ営内ノ取締ニ任シ且営内 当該部隊ニ属スル兵営附近ノ建造物及諸物件ヲ含ム ニ於ケル火災、盗難ノ予防及消防ノ責ニ任ス』

週番勤務についてのもう少し分かりやすい説明としては、

『軍隊は多人数が集団して起居してゐるので、中には過(あやま)って軍律を犯し、又は風儀を紊(みだ)す者が無いとも限らない。
此等の取締りは連隊長以下各隊長に責任があるが、それ等の上官は兵営の中に起居せず、日課が終れば自宅へ帰るから、其の退営不在中誰かに営内の軍紀・風紀の取締及び火災・盗難を予防する任務を命じて置かねばならぬ。そこで週番勤務といふものを定めて将校・下士官・上等兵等が一週間交代でこれに服することになってゐる。』
(帝國軍事教育社 編,『最新圖解 陸軍模範兵教典』,1941年)


もっと端的に、一文で説明したものが以下の文章である。

『週番勤務の目的は、隊内に於ける軍紀、風紀を維持し、諸法則の実施を正確ならしめ以て内務の全般的成績を向上せしむるにある。』
(武揚堂編纂部 編纂,『週番勤務提要』,1942年)


週番勤務の目的〈以下、文末の(第**)という表記は『軍隊内務書』の当該条項を示す〉

週番勤務は上記のように、兵営の軍紀・風紀の取締りや火災や盗難の予防等を目的としている。(第93)


週番勤務者一般

週番勤務は連隊全体を取り締まる(指揮監督する)ものと、中隊を取り締まるものに分かれ、土曜日の正午から翌週の土曜日の正午までが勤務期間となる。場合によっては日直となることがある。勤務期間服務した後は、別の者と交代する。(第95)

勤務者は週番士官を除き、通常の勤務や演習が免除される。週番士官は中隊長が必要に応じて免除する。(第96)

営外に居住する者でも週番勤務中は営内に宿直する。(第97)

週番勤務者は、曹長以上であれば紅白の襷(週番懸章)を右肩から左脇下に下げる。下士官以下は週番腕章を左腕(上腕)につける。


週番勤務者の区分(第94)

連隊の週番勤務者

週番司令:(大尉〜中尉、1名)

中隊が二つ以上ある部隊に置かれ、週番勤務者を指揮監督する。
週番司令室が定位(※基本的に常にいるべき場所)。(第94,99,100)


週番副官:(曹長、1名)

中隊が二つ以上ある部隊に置かれ、週番司令の指揮を承け、週番司令を補佐する。週番司令の女房役。
週番副官室が定位。(第101,102)


中隊の週番勤務者

週番士官:(中尉〜准尉または曹長、1名)

中隊ごとに1名が服務する。
週番司令の指示の下、中隊の取締りに当たり、週番下士官以下を統轄する。
人馬の員数の確認・兵舎その他の巡察・週番下士官への巡察命令等々を行う。
将校室が定位。
ただし、少尉候補者以外の特務曹長は中隊事務室が定位。(第103,104)


週番下士官:(本部附下士官または軍曹〜伍長勤務上等兵、1名)

連隊・大隊本部服務と中隊服務の二つがある。
前者は各本部ごとに本部附下士官から1名。週番司令の指揮を受け、連隊・大隊長の指示により職務を執行する。
後者は中隊の軍曹、伍長、伍長勤務上等兵から1名。週番士官の指揮を受けて職務を執行する。
週番下士官が行う業務は非常に多く、週番勤務者の中では最も忙しい。
軍隊内務書に記述されている日常業務は17項目あり、他の週番勤務者の倍以上の項目数を誇る。
所属する本部の本部事務室または中隊事務室が定位。(第105,106,107)

(※週番勤務者の日常業務は週番下士官に限らず、列挙するには多すぎるため、ここでは週番上等兵のものを除き、全て省略している。各週番勤務者の説明の文末、軍隊内務書当該条項(第**のこと)のうち、下線がある条項が日常業務を記述している部分なので、詳細は軍隊内務書のその部分を見て欲しい。)


週番上等兵:(伍長勤務上等兵以外の上等兵、2名または1名)

中隊では2名、機関銃隊・装甲自動車隊・乗馬部隊・固定無線隊・飛行中隊では1名が服務する。
週番下士官の指揮を受けて火災、盗難防止、巡察等の細務に従事する。
具体的には、

1、兵舎の内外を巡察して、諸物品の保存、整頓、掃除が出来ているか確認。火災と盗難に注意し、夜寝る前の点呼である、日夕点呼(にっせきてんこ)の後は各室を巡察して、火鉢や暖炉などが消火されているか点検し、週番下士官の点検を受ける。

2、食事分配の時は、あらかじめ食事の数を週番下士官から聞いて置き、時間になったら当番兵を引率して炊事場で食事を受け取り、各内務班に分配する。食事が終わったら食器を洗わせ、食器を集めて炊事掛下士官(炊事場)へ返納する。

3、毎日当番兵を集めて内務班以外の区域(中隊長室、事務室、物置、廊下など)を掃除させ、掃除道具の保存を任ずる。

4、営倉に入った者に食事や寝具等を差し入れる際、検査を行い、風紀衛兵衛舎掛に引渡し、用済みとなったら衛舎掛からこれを受け取る。

5、入院または退院、休養室への入室あるいは退室する患者がいる場合、軍医や週番下士官の指示を受けて必要な処置、世話を行う。

週番上等兵は、中隊の事務室か居室が定位。(第108,109)


厩週番上等兵:(伍長勤務上等兵以外の上等兵、1名)

機関銃隊、乗馬部隊の各中隊ごとに1名が服務する。これらの隊以外でも馬がいる場合は(うまや)週番上等兵が置かれる。
週番下士官の指揮を受けて厩を取り締まる。厩内外の巡察や厩当番の人員の検査•勤務の監督、馬の状態の確認、馬糧の受領・分配等を行う。
厩週番上等兵は、厩が定位。(第110,111)


日直衛生下士官及び日直衛生兵

軍隊内務書では衛生兵の古い呼称である看護長・看護兵となっている。
日直衛生下士官(日直衛生兵)は、独立中隊を除いた各部隊ごとに、衛生下士官、衛生上等兵から1名が服務し、医務室を定位とする。
また、連隊長は上記の他に1名の衛生上等兵を週番衛生兵として日直衛生下士官(日直衛生兵)の勤務の補助を行なわせることができる。
日直衛生下士官等の任務は、他の週番勤務者と似たようなものもあるが、医務室内の取締り及び火災予防、営内の衛生の警視、入院患者等の取り扱い、その他庶務となる。(第112,113)


不寝番

不寝番(ふしんばん)は、日夕点呼後から翌朝の起床時刻まで、他の兵が寝ている中、寝ずの番を行う。不寝番は中隊ごとに基本的に1名が服務する。
週番下士官の指揮を受け、火災・盗難防止のための各所巡察点検や兵室を見廻り、暑い日は窓を開けたり、毛布を蹴飛ばして腹を出して寝ている兵がいれば毛布を掛けてやる。といったことを行う。(第114)


厩当番

機関銃隊及び乗馬部隊の各中隊ごとに設けられ、厩週番上等兵の指揮を受けて、馬の状態の観察・厩の衛生保全・給飼と水与の準備・火災及び盗難防止の監視等を行う。交代があるようだが、夜間服務もある。(第115)



参考文献

・『軍隊内務書』 武揚堂,1934
・帝國軍事教育社 編 『最新圖解 陸軍模範兵教典』 帝國軍事教育社,1941
・川口喜一 『週番勤務の参考 全』 兵書出版社,1942
・武揚堂編纂部 『週番勤務提要』 武揚堂,1942