2016年11月27日日曜日

物料の耐弾性

まずは旧軍の野戦築城教範に掲載されている小銃弾に対する各種物料の耐弾性を一覧してみよう。

明治34年(1901年)『野戦築城教範草案』の附録第2によれば、
75cm
尋常土 1m
重畳したる糾草、泥土 2m
踏固めたる雪 2m
木材 60cm〜1m
鋼板 2cm
磚壁 50cm

2016年8月10日水曜日

戦傷戦死

戦時衛生勤務研究録(陸軍軍医団,1927)、軍陣外科学教程(陸軍軍医団,1940)を中心に各記述を項目ごとに抜粋、カナを平仮名に、送り仮名等を追加するなどしてまとめたもの。
統計の数字等は各書籍の編纂当時のものであるため、現在一般的な数値とは違う場合がほとんどなので注意。


損耗統計
戦役及国軍 平均
兵員[1]
戦役
月数
戦死 傷者 傷死 病者 病死
西南役 官軍 45,819 9 4,653 11,615 1,976 5,834 1,203
日清役 皇軍 80,442 19 977 3,973 362 114,734 18,532
北清役 皇軍 10,459 13 267 918 87 6,772 909
日露戦 皇軍 373,978 26 46,423 153,623 9,232 245,357 21,559
クリミヤ戦 英軍 45,000 27 2,755 18,283 1,847 144,390 17,579
仏軍 99,000 27 8,250 39,868 9,923 361,459 59,273
伊太利戦 仏軍 130,302 13 2,536 17,054 2,962 112,476 13,788
米国南北戦 北軍 492,369 62 44,238 284,055 34,849 6,170,779 160,778
独丁戦 独軍 46,000 9 422 2,021 316 26,717 310
普仏戦 普軍 280,000 3 2,553 13,731 1,455 64,191 5,219
独仏戦 独軍 815,000 12 17,255 99,555 11,023 480,035 14,904
露土戦 露軍
ドナウ軍
529,085 28 11,905 43,386 4,955 875,929 45,969
露軍
カウカサス軍
246,454 28 5,000 13,266 1,869 1,184,757 35,572
米西戦 米軍 ? 12 643 4,276 325 ? 5,438
南阿戦 英軍 270,000 13 5,774 22,829 2,044 418,264 14,530
(大正7年軍陣防疫学教程, 附表第7より抜粋)

[1]某地に於ける某月の健康人員を算出するは、月初より月末に至る日々の人員を累加し、所謂延べ人員を得て、之を其の月の日数にて除し、1日平均人員を算出し、之を某月の健康人員と名付けたり。
全戦役間の1日平均健康人員を算出するに二法あり。
一つは各月の健康人員 各月の1日平均人員 を合算し、月数を以て之を除し、一つは日々の健康人員 即ち各月の延べ人員 を合算し、日数を以て之を除するにあり
甲は乙に比し稍正確を欠くを以て、人員表には繁を忍びて乙法に因れり。(C13110332300)
おそらく本表の平均兵員は全戦役間の1日平均(健康)人員。
日清戦争の数字から見ると、どうやら内地等の人員を除いた、戦地にある人員に限定したものである様子。(参考⇒C13110332400)

2016年7月19日火曜日

旧軍式戦闘群式戦法

「一番」と「指揮者」が副分隊長ではないのはなぜだろうか?という疑問から派生した旧軍式の分隊戦闘の特色についての一考察。
精査も推敲も不十分だが取り敢えず公開。
全般的に充分な資料を基にした考察ではないので信頼性もその程度の認識で。



戦闘群式戦法一般
一般的な(戦闘群式戦法における)分隊は、制圧班と機動班に分かれて片方を分隊長、もう片方を副分隊長が指揮する(厳密に言えば分隊長は分隊全般の指揮を執りつつ、どちらかの班を重点的に直接指揮する)という形態であり、分隊は2つの半分隊で構成されているとも言える。
アメリカを除くWW2時の列強は大体これに近い形態を採っていると思う。

旧軍の場合は、前方散兵群(軽機班)と後方散兵群(小銃班)に分かれていて、前方散兵群を分隊長(または「一番」)が指揮し、後方散兵群は「指揮者」(または分隊長)が指揮を執る。

この段階では同じようなものに見えるが、どのような運用をするのかという所に目を向けると一般的な戦闘群式戦法とは異なるもののように見えてくる。


前方散兵群あれこれ

前方散兵群の編成

軽機関銃射撃の為停止せば、二番は自ら射撃位置を選び、三番は弾倉嚢を二番の左側に送り、四番は三番に弾薬を逓送し得るを度とし、二番を基準として逐次其の左後方に地形地物を利用して伏臥す
一番は敵情及び射撃目標、特に弾着に注意し、分隊長を輔佐し、要すれば直ちに二番に代わりて射撃を行う
(昭和15年歩兵操典 第125)

この記述からすると、一般分隊の前方散兵群(軽機班)の各兵の役割は以下のようである。

分隊長:後方散兵群を直接指揮する場合は不在
一番:射撃観測、分隊長補佐、予備軽機関銃手
二番:軽機関銃手
三番:弾薬運搬
四番:弾薬運搬


前方散兵群の「一番」

分隊長は通常、分隊の前方に在りて前進方向を維持す
傘形散開に在りては、分隊長は自ら前方に在る散兵を直接指揮し、他の散兵は指揮者の指揮に依り勉めて敵眼敵火を避け、一意前進す
状況に依り一番をして、一時前方に在る散兵を指揮せしむることあり
(昭和15年歩兵操典 第118)

前方散兵群は、基本的に分隊長が指揮をとるということになっている。
「一番」はその補佐役であり、第125条にあった通り、必要に応じて軽機関銃手である「二番」に代わって軽機関銃手となることもある。

最新図解陸軍模範兵教典(1940, p.539)では、歩兵操典 第125条の記述を「一番は敵情と射撃目標、特に弾着によく注意し、射手に故障が起こったときは、之に代って射撃をする。」という具合に若干言い換えて記述している。
「一番」が射手となるのは主に「二番」の故障(死傷)時なのだろう。
分隊長が後方散兵群の指揮をとる場合は、「一番」が分隊長に代わって前方散兵群の指揮をとる。


「一番」による前方散兵群の指揮

新操典に於ける「一時前方ニ在ル散兵ヲ指揮セシムルコトアリ」の法則は、単なる前進方向維持の誘導に止らず、更に火戦の指揮をも執らしむることあるを認められてあるのである。即ち其の状況に依っては前方散兵群(狙撃手を含む)は一番の指揮を以て正面より射撃しつゝ攻撃を続行せしめ、分隊長は自ら分隊主力(後方散兵群)を指揮し包囲行動に出づるを有利とする場合あるを以て、此の間の指揮に関し特に増補せられたものである。
(『歩兵操典詳説 第1巻』1942, p.73)

分隊長が前方散兵群を指揮する場合、後方散兵群は「指揮者」(上等兵や一等兵、先任兵等)がその指揮をとる。ここでいう「指揮」は、後方散兵群が損害を受けないように地形等を利用してとにかく前進させるというもの。(歩操 第118)

分隊長が一時前方散兵群から離れたり、後方散兵群の指揮をとる場合、前方散兵群の指揮は一番がとる。
ただし、こちらは後方散兵群の「指揮者」による「誘導」のみの意を持つ「指揮」ではなく、『歩兵操典詳説 第1巻』の記述にあるように、射撃と移動(誘導)の両方の意を持った「指揮」となっている。


誰が「一番」?

観測射撃は軽機関銃手及び小銃上等兵に対し行うものとす
下士官に対しては此の機会を利用し、分隊長としての観測修正に関する技能を向上せしむるを要す
(諸兵射撃教範 第二部 第91)

観測射撃を行うには......次いで各種地形に於いて左の要領に依り実習せしむ
一 軽機関銃手
初年兵を射手及び一番、第二年兵を分隊長たらしめ、初年兵には一番としての観測、第二年兵には分隊長としての観測修正の要領を修得せしむ
二 小銃上等兵
交互に射手及び分隊長たらしめ、分隊長としての観測修正の要領を修得せしむ
(諸兵射撃教範 第二部 第92)

諸兵射撃教範改正要点に関する説明(p.112)では、『諸兵射撃教範 第二部』の第91条に関し、旧教範からの変更点として、

次に旧教範は教育の主体を新任下士官と第二年兵に置いて居たが新教範は軽機関銃手及小銃上等兵に改められて居る
下士官は軽機関銃出身者は勿論小銃出身でも下士官候補者時代に本教育を受けてをり任官後更に教育をする必要がないので削除された
軽機関銃手は第二年兵のみならず初年兵でも一番は其の任務上射弾の観測を為し得る技能を必要とする故第二年兵と限定せず軽機関銃手として初年兵をも加へられた
小銃上等兵は戦時分隊長として軽機関銃をも指揮し其の射弾を観測修正する技能を要する故加へられて居る

と述べている。
つまり、観測射撃訓練時の初年兵・二年兵・小銃上等兵はそれぞれ、

初年兵..........軽機関銃手、一番
二年兵..........分隊長
小銃上等兵...軽機関銃手、分隊長

としての教育を受けるということになる。
「上等兵」や「軽機関銃手としての教育を受けた兵」は、そのほとんど全員が「一番」を務める素養があるわけである。

とはいえ、少し前に触れた通り、後方散兵群は「指揮者」が「移動(誘導)」の指揮を執るが、「一番」はそれに加えて更に「火戦」の指揮も可能なのである。
つまり、事実上「一番」は分隊内で分隊長に次ぐ指揮の権限が与えられているのである。
明らかに「指揮者」以上の能力や経験が必要である。
指揮の権限の大きさを考えれば、「一番」となるのは、分隊内の兵の中で最も階級が高い兵(兵長、上等兵)か、古参の兵、あるいは能力的に優秀な兵だと考えるのが順当だと思う。


「指揮者」≠「副分隊長」

旧軍では分隊に副分隊長を設けておらず、例えば『歩兵操典詳説 第1巻(p.66)には、

茲に一言附加して置かねばならぬことは、「分隊長の定むる指揮者は外国の戦闘群に見受ける副分隊長を意味するものでない」と云ふことである。

という文言が盛り込まれている。

「分隊は分隊長を核心として挙止恰も一体の如く行動する」というのが理想なのだが、分隊長1人で前方・後方両散兵群(つまり、一つの分隊)の指揮を満足に執ることができず、現実的にはもう1人指揮を執る人間が必要なので「指揮者」が設けられたわけである。
参考⇒『歩兵操典詳説』新歩兵操典草案ノ研究

草案時代の新歩兵操典草案ノ研究 第2巻』(p.44)では、将来(昭和15年歩兵操典)の「指揮者」に類する者(草案の頃はまだ「指揮者」という名称が付けられていない)について「小銃兵より上等兵又は優秀なる兵等に臨時組長(副分隊長)式の任務を与え......」と記述している。

新歩兵操典草案ノ研究』にしろ『歩兵操典詳説』にしろ、これらで述べられていることはつまるところ、「副分隊長のようなものではあるが、副分隊長でない」ということに尽きる。

「指揮者」は、射撃の指揮を執ることができないため、他国の「半分隊をある程度意のままに指揮することが可能な副分隊長」と「分隊長の命令に基づいて誘導的な移動の指揮しかとれない指揮者」というように対比させれば、確かに副分隊長らしくないといえばらしくない。(絶対的な副分隊長の定義というものは存在しないとは思うが)


「一番」≠「副分隊長」

「指揮者」が副分隊長ではないということは前項の通りなのだが、ここでちょっと思い返してみると「指揮者」よりもよっぽど副分隊長らしい存在のように思えるのが「一番」である。
移動の指揮しかできない「指揮者」に対し、「一番」は射撃と移動両方の指揮が執ることが可能である。
副分隊長のように思われてもおかしくはない。

だが、「一番は副分隊長では無い」と言及している教本は無く、「一番」を副分隊長とみなすような記述も同様に見当たらない。
つまり、「一番」は、そもそも副分隊長とみなされること自体がなく、副分隊長として扱われるおそれも無かったということだ。

旧軍の分隊は一般的(他国の)な戦闘群とは異なり、分隊内の2つの班の扱いが独特(別の投稿で扱う)なため、副分隊長に関してもあれこれ違うということもできるが、おそらく、軍の「分隊は分隊長を核心として......」という方針等とツジツマを合わせるために「副分隊長では無い」と言い張っている側面もあるだろうから、旧軍がこれは副分隊長であると言っていたら「指揮者」も「一番」も副分隊長だっただろう。


「三番」と「四番」
「三番」と「四番」の行動は、『歩兵教練ノ参考 第二巻(1942, p.141)によれば、

三番
1、弾倉嚢を二番の左側に送り常に銃側に弾薬の不足なからしむ
2、弾倉の充填を行う
3、前進に方り弾倉嚢二箇を携行す

四番
1、三番弾薬を逓送
2、弾倉を充填す
3、前進に方り残置せる弾倉嚢を携行す

要するに「弾持ち」であり、弾薬(と弾倉)の運搬とバラの弾薬を弾倉に詰めて射手へ送るということが主な仕事のようである。
また、後方散兵群の小銃手も軽機関銃の弾薬を運搬、前方散兵群(主に「四番」)へ弾薬を送るという旨の記述がある。
分隊全体が軽機関銃を中心としていることが分かる。

防御時の前方散兵群
攻撃時は「一番」から「四番」(+分隊長)で前方散兵群(軽機班)を構成するが、防御時はこのまとまりは分解されるようで、運用の様相も若干変化するが、依然として分隊における軽機関銃の火力には重点が置かれている。

歩兵操典では分隊長の地形偵察に関して、

分隊長は状況の許す限り綿密に地形を偵察し射撃区域の地形及び隣接部隊との関係を考慮し火器特に軽機関銃又は擲弾筒の威力を最も有効に発揚し得る如く配置を定む
(歩操 第136)

と記述しており、一般分隊の陣地配置に関して言えば、特に「軽機関銃の威力の発揚」に重点を置いていることがわかる。

軽機関銃、擲弾筒の為には各種の状況に応じ十分なる火力を発揚し且つ損害を避けんが為数箇の射撃位置を設け又之に近く弾薬集積等の為掩護の設備を設く
(歩操 第138)

この条項の通り、分隊の陣地には数個の軽機関銃用の掩体を構築することを求めている。

防御に於ける分隊火力の主体は、軽機関銃である。従って至近距離に対し最も有効に火力を発揚する為には特に軽機関銃の活用に着眼せなければならない。而して防御に於ける火力配置は、敵の攻撃法に依り変化すべきものなるを以て、火器を同一位置に固定することなく状況に応じ適宜射撃位置を移動せしむることが肝要である。殊に軽機関銃の如き分隊火力の主体たるべき火器に対しては、予め数箇の射撃位置を設備し、至近距離に対しては遺憾なく其の威力を発揮し得る如く準備して置かねばならぬ。
(『歩兵操典詳説 第1巻』pp.118-119)

軽機関銃手の位置は固定されず、分隊の陣地にいくつか設けられた軽機関銃の射撃位置(軽機関銃用掩体)のいずれかに就いて射撃を行う。

では、一つの分隊の陣地に軽機関銃の射撃位置(軽機関銃用掩体)はいくつ設けられるのか?
歩兵操典詳説 第1巻(p.119)では、「軽機関銃は戦況に応じ最も有効に火力を発揚し得る如く各群毎に射撃位置を設備し置く」とある。
防御時は分隊を数個の群に分ける(歩操 第137)ので、例えば、分隊を3つの群に分けた場合は、軽機関銃の射撃位置も3つ設ける。というのが理想的なのだろう。
⇒ここでいう「分隊の陣地」は、ある程度しっかりと構築されたもの。
昭和十四年改訂 応用戦術ノ参考 (p.269) によれば、目安として6時間で「分隊陣地(正面約三十米)を概ね完成す然れども分隊、小隊、中隊陣地等の間隔の連接及び縦深に於ける交通の為の工事を実施する余裕なし」

「監視兵」

防御時は「監視兵」というものが設けられる。

狙撃兵、監視兵等は分隊の陣地と適宜離隔せしむるを利とすることあり
(歩操 第137)

分隊長は自ら敵情を監視すると共に所要の兵をして敵情監視に任ぜしむ
(歩操 第141)

「監視兵」が何番の兵なのかは特に指定されていないが、任務等を考えると「一番」が充てられていたのではないかと思う。

2016年6月12日日曜日

米軍の分隊 1942〜46年+α

WW2時の米軍の分隊編成は1942年から

分隊長 "Squad Leader"
副分隊長 "Assistant Squad Leader"
偵察兵(小銃手)×2 "scouts"
自動小銃班 "Automatic Rifle Team"
・自動小銃手 "Automatic Rifleman"
・自動小銃手助手 "Assistant Automatic Rifleman"
・弾薬運搬手 "Ammunition Bearer"
小銃手×5 "Riflemen"

となり、分隊内に「2人の偵察兵」、「自動小銃班」、「小銃手」という3つの班が形成されている。
この各部隊は、1942〜44年頃のマニュアルだと特に名前のようなものはつけられていないが、1946年の "FM 22-5 Leadership Courtesy and Drill" では、各班に以下のような名称が付けられている。

• No.1, Squad Leader
• No.12, Assistant Squad Leader
• "ABLE" (scouts)
◦ No.2, Team Leader
◦ No.3
• "BAKER" (base of fire)
◦ No.4, Team Leader
◦ No.5
◦ No.6
• "CHARLIE" (maneuvering element)
◦ No.7, Team Leader
◦ No.8
◦ No.9
◦ No.10
◦ No.11
(FM 22-5, 1946, par. 257)

2016年6月5日日曜日

米軍のライフル中隊の編制 1942〜45年

ライフル中隊 "Rifle Company"
中隊本部 "Company Headquarters"
指揮グループ "Command Group"
管理グループ "Administration Group"
火器小隊 "Weapons Platoon"
小隊本部 "Platoon Headquarters"
60mm迫撃砲半小隊 "60-mm Mortar Section"
軽機関銃半小隊 "Light Machine-Gun Section"
ライフル小隊 (×3) "Rifle Platoon"
小隊本部 "Platoon Headquarters"
ライフル分隊 (×3) "Rifle Squad"

米軍の中隊編制は1942年からWW2終結までこの形で一貫している。

2016年5月5日木曜日

米軍のライフル中隊の編制 1940年

ライフル中隊(1940) "Rifle Company"
中隊本部"Company Headquarters"
指揮グループ "Command Group"
管理・補給グループ "Administration and Supply Group"
ライフル小隊 (×3) "Rifle Platoon"
指揮グループ "Command Group"
ライフル分隊 (×3) "Rifle Squad"
自動小銃分隊 "Automatic Rifle Squad"
火器小隊 "Weapons Platoon"
指揮グループ "Command Group"
軽機関銃分隊 "Light Machine-Gun Section"
60mm迫撃砲分隊 "60-mm Mortar Section"
(FM 7-5, Appendix II pars. 4, 5, 8)

2016年4月5日火曜日

旧軍の射撃開始距離

典範令による射撃開始距離(?)

旧軍の分隊の射撃は「近距離に於て敵を確認し十分なる効果を予期し得る場合に於いて行う」(歩兵操典 第121)とされていた。

諸兵射撃教範 第2部(以下、新教範・諸射範と略称)には、

第二百三 兵には通常近距離(六百米以内)の目測、軽易なる角測量に習熟せしめ上等兵、特別射手等には特に中距離(六百乃至千米)の目測をも演練せしむるを要す」

とある。
旧軍の射撃開始距離は「近距離=600m」なのだろうか?
詳しく見る前にひとまず他国の射撃開始距離をいくつか見てみよう。


1940年頃の米ソの射撃開始距離

ソ連軍の分隊は防御の際、狙撃手が1000m、軽機関銃が600m、小銃手が400mでそれぞれ射撃を開始する。
(『歩兵小部隊 戦闘教練 陣中勤務 実戦指導計画』1944,p.21の図より)

一九三二年新編制に基く 狙撃分、小隊及擲弾銃分隊戦闘教令草案(p.66)では、軽機関銃と優良射手が800m、他の戦闘員(小銃手)は400mから射撃を開始するとしており、後年に新しく出された『千九百三十八年制定 ソ軍歩兵戦闘教令 第1巻(p.153)では、小銃の最大有効射程は400m(優良射手は800m)、集団目標に対する集中射撃は800mとなっている。

米軍(1940年当時)ではどうだったのか。教本には以下のような記述がある。

"■ 203. RANGE ESTIMATION.ー ...As a minimum requirement the individual soldier will be able to estimate ranges up to 600 yards and be sufficiently versed in estimation of longer ranges to enable him to locate reference points designated."
("FM 7-5",1940,p.141)

「最低限の条件として、(訓練により)個々の兵士が600ヤード(≒548m)までの距離の推定ができるようになっているだろう、それ以上の距離に関しては、指示された基準点(標点)を見つけることができるように十分に精通しろ」

翻訳するとすればおそらくこのような感じだろうか?

FM 7-5(p.12)では距離(yard)を以下のように区分している。

Short Point blank to 200     
Close 200 - 400
Midranges   400 - 600
Long 600 - 1,500
Distant Beyond to 1,500


短距離、近距離、中距離、長距離、遠距離といったところか?

600ヤードは MidrangesLong の境界となっているが、Midranges として扱っても問題無いだろう。
米軍の観測能力の基準は600ヤード(≒548m)。

では、射撃もこの距離が基準なのかというとそうでは無く、例えば小銃に関してはこのような記述がある。

"Rifle fire is not ordinarily opened at ranges beyond 400 yards."

("FM 7-5",p.162)

"小銃射撃は通常、400ヤードを超えて行われない"

ということは、つまり(少なくとも1940年頃の)米軍の小銃手(小銃分隊)は、大体400ヤード(≒ 365m)から射撃を行うということになる。

また、p.45には、

"At ranges beyond 400 yards, rifle company weapons open fire only when other available fire support is inadequate."

とあるので、小銃もBARも基本的には400ヤードが射撃開始距離であったと見てよいだろう。

防御時に関しては、FM 7-5 の該当箇所を一通り見てみたが、具体的な数値というものは見当たらなかった。
見落としの可能性もあるが、数字ではないもの、つまり、Close や Long で示されているものはぼちぼち見つかる。

"d. Long-range fire are executed by the heavy weapon (pat. 338c). Premature opening of fire by rifle companies discloses the defensive dispositions and exposes the troops holding the main position to the annihilating fire of the hostile artillery."

("FM 7-5"Sec VII Rifle Company,p.221)

"長距離の射撃は重火器が行う。ライフル中隊の射撃が尚早だと防御配置や主陣地を曝して敵砲兵の殲滅射撃を受ける"

といった感じか。

"■ 249. CONDUCT OF DEFENSE.ーa. General.ー(1) The fire of front-line platoons is held until the attacker comes within close range and hostile artillery lifts or ceases its fire. Premature opening of fire reveals the defensive dispositions and permits the neutralization of the defense by the hostile artillery before the infantry attack."

("FM 7-5",Sec III Rifle Platoon,p.189)

"第一線の小隊は攻者が近距離に来たり、敵砲兵が射程延伸するか射撃を中止するまで射撃を待つ。過早に射撃を始めると防御配置を曝し、歩兵の攻撃の前に敵砲兵によって防御が無力化される。"

小隊でも中隊でも同じことを述べているようだ。

敵が近接してきて、Long-renge(1500 yards)辺りに入ったら重火器が射撃を開始。
敵が更に接近し、Close-range(400 yards)付近に到達して初めて小銃やBAR(ライフル小隊)が射撃を開始する。というのがマニュアルによる典型的な米軍の防御戦闘の推移のようだ。

旧軍は南方作戦の緒戦にフィリピンにおいて米軍と戦闘を行っている。
大東亜戦争 小戦例集 工兵、鉄道兵(1943)には、附録として米英蘭の築城に関する事項が掲載されている。これによると米軍は、

「一、素質
一般に大なる特異性を認めざるも砲(爆)撃並に奇襲に対する着意濃厚なり偽装は着意徹底しあるも実施幼稚なり」(p.68)

「(1) 射撃
1、火力は重火器の一部を以て中(遠)距離、主火力を以て陣前概ね四百乃至五百米の間に濃密なる火網を構成しあり」(p.72)

とある。旧軍の評の通り、いたって普通の防御である。


米ソと異なる旧軍の射撃開始距離(?)

資料の参照が面倒なヨーロッパ勢はさて置き、ソ連軍は小銃が400m、軽機関銃は600mから射撃するものとし、米軍も小銃(おそらくBARも)の射撃開始距離は400ヤード(≒365m)となっている。
一方、旧軍では分隊(小銃と軽機関銃を区別せず)の射撃開始距離(?)は600mである。

米軍は小銃とBARの射撃開始距離が400ヤード、ソ連軍は小銃の射撃距離を400m付近として、軽機関銃と射撃距離を明確に分けていることを考えると、旧軍の「小銃も軽機関銃もまとめて600m」というのは、少し無頓着にも思える。


近距離(600m)という「基準」

第百二十一 分隊は小隊長の命令に基き適時射撃を開始す
射撃は近距離に於て敵を確認し十分なる効果を予期し得る場合に於いて行う
精錬なる軍隊は縦い敵火の下に在りても我が射撃効力を現し得ざるときは自若として前進を続行し妄りに射撃せざるものなり」


第百二十二 射撃は先づ軽機関銃要すれば之に狙撃手を加え状況に依り先づ狙撃手のみを以て行い敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば更に所要の火器を増加す」


「射撃開始の距離を数字的に挙げることは、勿論出来ないことであるが、此処に謂う近距離とは、六百米以内の距離と見て差支なかろう(射教第二部第二百三参照)。」

(『歩兵操典詳説:初級幹部研究用 第1巻』p.78)
「...現時の目標は地形の利用巧みであって而も其の上に諸種の手段を講じ偽装を凝らして居るのであるから、近距離に於ても各散兵が目標を確認すると云ふことは中々困難であって、分隊の射撃の開始は六百米よりも更に一層近距離となるのが自然であらう。...」

(『歩兵操典詳説:初級幹部研究用 第1巻』p.78)

これらの記述を見ると、歩兵操典第121等に見られる「近距離」、つまり「600m」という距離は、あくまで「600m以下になったら射撃開始を考えろ」という「基準」でしか無いということが分かる。
どうやら旧軍では「射撃開始距離」というものを明確に規定していないようである。

とはいえ、ちょっと調べてみると「これは射撃開始距離なのではないか?」という数値が出てこないこともない。


各距離における射撃効果が望める目標(小銃)

明治30年発行(第8版)の兵卒向けの教程である『兵卒教程(p.92)には「射撃用法ノ限界」として、以下のようなことが記述されている。

「二百米突以内に於ては 都(すべ)ての目標
三百米突以内に於ては 立姿若くは膝姿の敵兵を射撃す
四百米突以内に於ては 孤立立姿及二人併列膝姿兵を射撃す*
五百米突以内に於ては 立姿群及孤立騎兵」

(*原文ではこの後に"騎兵及立姿群兵 二人以上"と続くが、誤植のように思えるので削除した。原文そのままではないので注意)

昭和4年の旧教範にもこれと似たようなものが第136および表(第18表)として掲載されている。

第百三十六 各個戦闘射撃に在りて各距離に応じ選定すべき目標は該目標に対し発射弾の約半数以上の命中を期し得べきものを以て標準とす...」

第18表には、第136の記述にある「各距離に応じ選定すべき目標」が、「約半数以上の命中を期し得べき標準」として示されている。

距離 約半数以上の命中を期し得べき標準 摘要
200m 頭首のみを現したる兵 -
300m 伏姿兵 -
400m 膝姿兵 -
500m 立姿或は或は密集せる2人膝姿兵 騎銃には適用せず
600m 密集せる2人立姿兵或は乗馬兵 同上
備考 本表は中等射手をして平静なる状態にて射撃せしめたる結果とす

昭和十一年改訂 生徒用 射撃学教程 』には、旧教範の「単一銃を以てする射撃の半数必中界の表」(第5表)の数値を表中に加えたものが掲載されている。

距離 半数必中界 約半数以上命中を期し得べき標準
垂直(cm) 水平(cm)
200m 13 12 頭首のみ現したる兵
300m 19 18 伏姿兵
400m 26 24 膝姿兵
500m 32 30 立姿兵≪密着せる2人膝姿兵≫
600m 39 36 乗馬兵≪密着せる2人立姿兵≫

備考 命中を期し得べき標準は平均弾道目標の中央に通せるものと仮定して算出す

これらの表には600mまでの距離における射撃目標が示されているが、各個戦闘射撃習会表(第16表)を見ると、第1習会は200〜300m付近からの射撃、第2習会でも300〜400m付近でとどまっており、どうやら各個の射撃訓練では、500m以上の距離での射撃を行なっていなかったようである。(軽機関銃も同様)

500m以上の距離に対する射撃は部隊戦闘射撃の方で行っていたのかもしれないが、教範に示されている範囲内で、少なくとも各兵単位の射撃訓練では400mが最大射撃距離である。

実戦で敵の歩兵が立姿で身体の大部分を暴露していたり、何人かで寄り集まって身を晒しているといったような状況がどれだけあるのかといったことを考えると、射撃習会表で300m、400mが中心となっているのは理にかなっているように思える。


諸兵射撃教範の射撃習会表

諸兵射撃教範改正要点に関する説明(1940,p.120)には、

「...第百三十六及第十八表を削除されたのは同じく習会表中に目標種類を限定し且命中弾数標準を加えられたからである」

とある。
新教範では習会表に射撃目標が示されているので、旧教範の第18表のようなものは必要が無くなったということだが...
各個戦闘射撃の習会表(諸射教第2部 附表第7)を見てみよう。

小銃手・特別射手(諸射範 附表第7)
射手種手 習会順次 距離(m) 目標 使用弾 命中弾数標準
初年兵 一般兵 1 200-300付近 伏的1(固定) 8 2
2 300付近 伏的2
(固定1、射倒1)
10 2的2
3 300-400付近 偽装伏的2(隠顕) 12 2的2
特別射手 1 200-300付近 伏的1(固定) 8 3
2 200付近 頭的4(射倒) 12 3的3
3 300-400付近 偽装伏的1
(隠顕)
10 2
4 300付近 立姿側方移動的1
(移動)
5 1
5 300-400付近 伏的2
(固定1、射倒1)
10 2的2
6 400-500付近 膝的1
偽装伏的1
(隠顕)
12 2的2
第2年兵 一般兵 1 300-400付近 偽装伏的2
(隠顕)
15 2的3
特別射手 1 400-500付近 偽装伏的4
(射倒)
15 3的3
2 300付近 偽装伏的1
(隠顕)
6 3
3 500-600付近 膝的2
偽装伏的2
(隠顕)
15 3的3


軽機関銃(諸射範 附表第8)
射手種類 習会順次 距離(m) 目標 使用弾 射法 命中弾数標準
初年兵 1 300付近 伏的1(固定) 30 点射反復 3
2 400付近 偽装伏的5
(固定)
45 点射移動 3的4
3 500付近 偽装伏姿自動火器的2
(隠顕)
45 点射反復 2的4
第2年兵 1 400-500付近 偽装伏的5
(固定)
偽装伏姿自動火器的1
(隠顕)
60 点射反復及び移動 散兵2的3
自動火器的2
2 500付近 偽装伏姿自動火器的2
(隠顕)
伏的1(射倒)
80 点射反復 3的5

部隊での戦闘射撃も行われるが、こちらは教範上に詳細が示されていないので除外。


伏的ばかりの射撃訓練

新教範の射撃習会表に出てくる射撃距離を見ると、小銃は300mを中心に最大400m。軽機関銃は400mを中心に最大500m。という距離が射撃距離として設定されている。
小銃手の射撃距離は旧教範と変化は無いが、軽機関銃の方は旧教範と比べて100m増加している。
昭和15年歩兵操典の「軽機関銃と狙撃手中心の分隊戦闘」、「軽機関銃か狙撃手がまず射撃」という方針を考えれば、訓練時の軽機関銃の射撃距離が増え、小銃には変化が無いというのも特段おかしなことではないだろう。

旧教範では、習会表に射撃目標が記載されていなかった。
そのため、「距離に応じた射撃目標の参考」が記載された第18表が掲載されており、旧軍の教官等の教育者達はこの表を基に射撃目標を(ある程度)独自に設定することが可能であった。

一方、新教範では射撃目標が示されているので、基本的にはその示された射撃目標を使用して射撃訓練を行う。
ここで今一度小銃手(軽機関銃)の射撃習会表を見てみると、300mでも400mでも、射撃目標は伏的となっている。

旧教範の第18表を見るに、400m付近の敵が膝立ち(高さ1m)程度の面積を晒していなければ有効な射撃結果は得られないということになっているにも関わらず、新教範では400m付近であっても射撃目標は伏的(高さ45cm)が設定されている。

これについては、『諸兵射撃教範』等に目立った言及が無いので正確なところはわからないが、新教範は「より実戦的に」という趣旨に則って編纂されているようなので、射撃目標に関しても、旧教範よりもより実戦的な「伏的」が多用される。ということなったのではないかと思う。

「日露戦役に於ける皇軍の全戦傷者の受傷部位百分比例は概ね左の如し

頭部 27% 頸部 2% 胸部 17%
腹部 10% 上肢 23% 下肢 21%

欧米五戦役(クリム戦、伊太利戦、南北戦、独丁戦及独仏戦)に於ては部位別比例に依れば下肢、上肢、頭部、胸部、腹部、頭部、頸部の順序にして概ね一致するを見るもクリム戦の英軍及日露戦役の皇軍は頭首多くして下肢少し欧州大戦に於ても胸部以上の損傷著しく増加せり要塞戦の多きと塹壕戦に於ける地物の応用及伏姿等の関係に因るものと認めらる日露戦役に於て要塞戦と野戦とを比すれば要塞戦に頸部の増加、下肢の減少著しきを見る猶日露戦役に於ける皇軍傷者の入院したるものに就き部位別百分率を見るに

頭部 19% 頸部 2% 胸部 14%
腹部 8% 上肢 30% 下肢 27%

にして従前の戦役に比し頭首の比例最も増加し胸部之に次ぎ下肢に於て著しく減少せり」

(『軍陣外科学教程』,陸軍軍医団,1940)

特に第一次世界大戦以降は、身体の大部分を遮蔽したり、伏せた状態で射撃することが普通となっているので、新教範ではそれをより強く反映させて、射撃目標は伏せた状態の敵を模した「伏的」が多くなっているのだろう。


旧軍の軽機関銃の射撃開始距離は?

そもそも旧軍は、明確な射撃開始距離を設定していないので、 端的に言えば、「旧軍の射撃開始距離は決まっていない」ということで話は終わる。

とはいえ、教本や訓練で「よく使われる数値」というものはあるようで、例えば『歩兵教練の参考』を見ると、小隊長の射撃開始号令の例で示されている射撃開始距離は「500m」が多い。(もちろん600mや400mという場合もあるが)

新(旧)射撃教範の各個戦闘射撃習会表では、小銃は400m、軽機関銃は500m(400m)が最大射撃距離となっていた。

第百二十二 射撃は先づ軽機関銃要すれば之に狙撃手を加え状況に依り先づ狙撃手のみを以て行い敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば更に所要の火器を増加す」

という歩兵操典の条文を踏まえて考えてみると、例えば、小隊長が分隊に対して「500m」から射撃開始を命令した場合、分隊長は「500m」付近から「射撃を開始することを考慮」する。(歩操第121の「射撃は近距離に於て敵を確認し十分なる効果を予期し得る場合に於いて行う」という文からして、必ずしも小隊長の命令そのまま「500m」から射撃を開始するというわけではない)

仮に500m付近で「十分効果を予期できる」場合、まず、500m付近から分隊の前方散兵群(狙撃手、軽機関銃)が射撃を始め、後方散兵群である小銃手(群)は、白兵貯存の主義に則り「勉めて敵眼敵火を避け一意前進」(歩操 第118)する。

軽機関銃に関しては諸射教範の数字や歩兵操典の記述等からすれば「500m」が実質的な射撃開始距離なのではないだろうか?

問題は小銃である。


旧軍の小銃の射撃開始距離は?

前進している小銃手(群)は爾後、第122の記述の通り、「敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば更に所要の火器を増加す」(第122の「火器」は、小銃手だけではなく、軽機関銃や狙撃手も含む)
この「近接」が示す距離が一体どれ位なのか?
単純に考えれば600m以下のことだが、それでは直接的すぎる。
他の記述からして、600mより小さい距離、さらに言えば、軽機関銃の射撃開始距離以下を示していそうでもある。

小銃が撃ち始める時期の内、比較的推測しやすい例として、攻撃側が最も火力を必要とするのは突撃の直前である。

第百二十九 突撃の機近づくや分隊長は要すれば更に小銃手を火線に増加し益々沈着して火力を発揚し...」

突撃直前と言っても、砲兵の突撃支援がある場合は、敵前250m前後から射撃をせずに砲撃に膚接して前進することも可能であるし、反対に歩兵独力での突撃であれば、本当に突撃直前(例えば敵前50m等)まで射撃が必要な場合もあるだろうから一様には言えないが、参考として『初級戦術講座』にはこのような言がある。

「突撃準備を為すべき時期に就ては、先に歩兵操典草案(※大正14年)の記述が明瞭でなかった為、突撃準備は動(やや)もすれば、敵に近迫後始めて実施すべきものかの様に誤解せられ勝ちであった。即ち各隊の演習等を見ても敵前二百米位に近迫してから、此所に暫く停止し、始めて何だ彼だと一度に突撃の諸準備を行い、然る後突撃を開始するのを常態とした様に思われる。演習で弾丸が飛んで来ないからよい様なものの、敵前二百米位の処と云えば実戦に於ては敵歩兵火の最も熾烈な所である。...」
(『初級戦術講座』,稻村豐二郎,1931)

距離が近くなればなるほど敵火が激しくなるであろう事は想像に難くない。
(近づくにつれて敵兵が減っていき、火力が衰えるという事もあるだろう)

敵前200m付近では相応の火力が必要だろうから、それまで小銃手を一切火線に出していない場合でも、それなりの人数の小銃手を火線に出さざるを得ないだろう。
少なくとも、200m付近で小銃が射撃を開始する可能性は非常に高い。

とはいえ、突撃前に火力が必要なのは分かるが、実際にはそれ以前の段階で必要になることもあるだろう。
というよりも、むしろこちらの場合の方が多そうではある。

例えば、旧陸軍の仮想敵国であるソ連軍の小銃手は400m位から射撃を始めるわけだから、単純に考えれば「敵の射撃が熾烈になり始める」のは、400m付近と考えることもできる。
(旧軍の射撃習会表において、小銃手の最大射撃距離が400mとなっている理由の一つでもありそうだ。)

ソ連軍の軽機関銃が沈黙していないのであれば、400m付近からは軽機関銃(+狙撃手)+小銃の火力を受けることになる。
旧軍の前方散兵群(軽機と狙撃手)の火力で対抗できるのかといえば、おそらく難しいだろう。

歩兵操典や諸射教範その他の記述等を考慮すれば、旧軍の小銃手の実質的な射撃開始距離は「400m」なのではないだろうか。


各種資料から考えた実質的な射撃開始距離

軽機関銃は500〜400m付近(小隊長の射撃開始命令の距離、分隊長の射撃開始命令の距離と近似)
狙撃手は600〜400m付近(軽機より早い段階で撃ち始める場合も)
小銃手は400〜300m付近(基本的には軽機・狙撃手よりも後に射撃開始)

これらが旧軍の射撃開始距離とみることできそうだ。
当然、射撃開始の時期は時と場合によって変化するものであるから、この数字も目安に過ぎないのだが、それは米ソも同様のはずなので、より一層、旧軍が射撃開始距離を明確に設定していないのが際立つ。

分隊長のような、より下級の指揮官に、より多くの裁量を与えているのだ。と言うこともできる。
ものは言いようである。


2016.6.27 追記
新歩兵操典草案ノ研究 第2巻(戦術研究会編, p.115)
射撃開始の時機は敵が陣地前幾何の距離に接近したるとき行うべきやに関し屢々質問を受くることあるも之に対する答解は数字を以て示すは害あるを以て甚だ漠然と教示する他なきも、初学者は火網の前端を六百米とすれば此附近より射撃を開始する如く解するもの多く、漠然と示すは却て誤解を生ずるを以て此所に一の基準を示し「分隊は通常四百米以内に於ける火戦に任ずるものなり」として参考に供せん

とのこと。
草案時代の話なので後年もこれが引き継がれているのか不明だが、米ソとほとんど同じような基準となっている。
ただ、この文は(射撃開始距離を仕方なく示しているが)公式では無く、あくまで一つの参考であるということに気を遣って記述しているように思える。
やはり旧軍として「公式の射撃開始距離」というものは設定されていないようである。

2016.7.24 追記
徒歩小、分隊ノ指揮及訓練ノ参考(陸軍騎兵学校編, 1941, p.212)
十二、分隊は状況に応じ必要なる火力を火戦に参加せしめて射撃を為す之が為分隊当初の火戦は通常軽機関銃及狙撃手を以て之に充て時として単に狙撃手のみを以て之に充つることあり又逐次敵に近接し火力の増加を必要とするに至れば所要の小銃手を火戦に加う
十分なる射撃効果を期待し得る距離は目標の状態、天候、気象等依り異なるも特に有利なる目標を除きては軽機関銃に在りては概ね六百米以内、狙撃手に在りては概ね八百米以内、小銃手に在りては概ね四百米とす

同書第3章(pp.24-27)には、各兵器の効力等が掲載されている。
これによると小銃手と狙撃手と軽機関銃の実用射程距離は以下のようになっている。

実用射程距離
一般小銃手...400m以内
狙撃手...........600m以内(狙撃眼鏡使用時は1000m以内)
軽機関銃.......600m以内(状況により1000m付近でも相当の効果あり)

つまり、射撃開始は実用射程距離(有効射程)以下から。というわけである。

騎兵や機甲に限らず、工兵や輜重兵も小隊・分隊戦闘は歩兵のものとほぼ同じ要領(歩兵のものを参考というか、流用している)なので、おそらく歩兵も同様だろう。
ある程度はっきりとした数値を示した参考書が歩兵ではなく、騎兵(機甲)の方から出てきた形である。

とはいえ、この記述も厳密に見れば「射撃開始距離」が示されているわけではなく、射撃開始の目安として「十分なる射撃効果を期待し得る距離」が示されているだけである。
有効射程をもとに射撃開始距離を公式的に設定すること」と、「射撃開始距離の目安として有効射程を示すこと」は、結局どちらも「射撃開始距離は有効射程」ということであり、本質的にはなんら違いはない。
結果的に両者の違いは、「明示している」か「明示していないか」というだけの話である。
要は旧軍も他国の例に漏れず、射撃開始距離は有効射程が基準となっていたというわけだ。

2016年2月12日金曜日

六年式山砲?

歩兵砲教練ノ参考(分隊基本) 第壹巻(陸軍歩兵学校,1939)という書籍を読んでいた時の話である。
本書籍は題名の通り歩兵砲(「四一式山砲」、「九二式歩兵砲」、「九四式速射砲」)の教練の参考書で、『歩兵教練ノ参考』なんかと比べればふんだんに写真や図が使われていたりして面白い。
久しぶりに読み返しているとp.159の註に「六年式山砲」なる見慣れない砲の名前が。
この註(※注)は標準後坐長について触れた箇所で、

四一式山砲
八七◯粍ー九二◯粍
六年式山砲
八八◯粍ー九◯◯粍

とある。

2016年2月10日水曜日

軍隊精神教育

昭和15年『歩兵操典』綱領

第六 軍隊は常に攻撃精神充溢し志気旺盛ならざるべからず
攻撃精神は忠君愛国の至誠より発する軍人精神の精華にして鞏固なる軍隊志気の表徴なり武技之に依りて精を致し教練之に依りて光を放ち戦闘之に依りて勝を奏す蓋し勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず精錬にして且攻撃精神に富める軍隊は克く寡を以て衆を破ることを得るものなればなり」

昭和4年『軍隊教育令』綱領

軍隊教育の目的は軍人及び軍隊を訓練して戦争の任に当らしむるに在り而して戦争の為緊要欠くべからざる要素は堅確なる軍人精神並厳粛なる軍紀たり故に軍隊教育は此要素を涵養(かんよう)するを以て主眼とす
夫れ生を棄て義を取り恥を知り名を惜み責任を重んじ艱苦(かんく)に堪え奮て国難に赴き悦んで任務に斃るるは我が国民の古来継承尊重せる大和魂にして特に軍人に必須の資性なり故に軍隊教育に於ては此国民性を砥砺(しれい)拡充し以て事実上に其成果を発揮せしめざるべからず」

昭和15年『軍隊教育令』綱領

第一 軍隊教育の目的は将兵を訓練して百戦必勝克く宏猷(たいゆう)を扶翼すべき軍隊を錬成するに在り而して此の目的達成の為緊要欠くべからざる要素は堅確なる軍人精神並に厳粛なる軍紀たり故に軍隊教育は此の要素を涵養するを以て主眼とす」

昭和9年『軍隊内務書』綱領

軍人精神は戦勝の最大要素にして其の消長は国運の隆替に関す而して名節を尚(とうと)び廉恥を重んずるは我武人の世〻砥砺せし所にして職分の存する所身命を君国に献げて水火尚辞せざるもの実に軍人精神の精華なり是を以て上官は部下をして常に軍人に賜りたる勅諭勅語を奉体し我国体の万国に冠絶せる所以と国軍建設の本旨とを銘肝し且兵役の国家に対する崇高なる責務及名誉たることを深く自覚せしめ苟(いやしく)も思索の選を誤るが如きことなからしむべし而して精神教育は唯精神を以て教育するを得べく百の言辞は一の模範に如かず上官先ず至誠を以て之に臨み身を以て部下を感化することを期すべし」


旧軍の典範令その他に溢れる『軍人精神』という記述。
そもそも軍人精神とは一体どのようなものなのか?
軍人勅諭(明治15年)を見てみると、

「右の五ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすべからずさて之を行わんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑(そもそも)此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり…」

軍人勅諭の「五ヶ条」というのは、以下の「」から始まる条文である。(各条の本文は省略。下の文は解説のようなもの)

一 軍人は忠節を尽すを本分とすべし

「君に事(つか)うの道を忠と謂う、忠とは君に事えて誠意信実を尽すの名である。節とは竹に節あるが如くに吾心に斯くと思い定むる節操を謂うのである。

忠節を尽すとは如何なる事かと云うに、我が一命を惜まず君の為めには何時でも死ぬ事を厭わぬという心得である。此心得を常々軍人は其本分とせよとの聖訓である。」
(『軍隊精神教育資料』,pp.495-496)

一 軍人は礼儀を正くすべし

「人を尊び人を敬う之を礼と謂い、我が分を守り、我が行いを慎む之を義と謂う。礼儀を正しくするとは、下級の者は上官を尊敬し能く其命令に服従するを謂うのである。又上官たる者は下級の者に対するに専ら慈愛の心を以てし、驕らず侮らず能く之を敬愛するを謂うのである。」
(同上,pp.545-546)

一 軍人は武勇を尚ぶべし

「武勇とは正義に従い危難を避けず、事に臨んで勇猛果敢なるを謂う。此の性情は我国民の特有にして又我建国の本旨である。而して我国民の勇猛果敢なる性情の母は即ち大和魂に他ならない。而して彼の中世以降武士道と云う一種の気風を部門武士の間に養成して来たのは、取りも直さず武勇を尚びたるに因るのである。」
(同上,pp.579-580)

一 軍人は信義を重んずべし

「信とは己れが口に発した言葉を間違なく実行するのを謂い、義とは人に対して己が本分を尽すを謂う。若し約束に背き己が言葉に違うときは之を食言と謂い、甚だ鄙(いやし)むべきものであるばかりでなく遂に遂に他人が我を信用しない様になる。」
(同上,p.625)

一 軍人は質素を旨とすべし

「質素とは華美を好まず、奢侈(しゃし)に流れないことを謂う。勤倹以て身を修め節約以て家を斉(ととの)う、是れ軍人の本領である。
軍人の生活は只寒暑風雨に堪うるのを以て足れりとせねばならぬ。若し軍人であって華美を好み奢侈に流れるときは、飲食には忽ち好悪を生じ、衣服にも住居にも軽暖華美を好み、軍人の本分たる戦時の実用に遠ざかり、遂に困苦欠乏に堪えない軍人と成り、又寒暑風雨に堪えない軍人と成るであろう。警(いまし)めねばならぬ事である。」
(同上,pp.651-652)


『勅諭の末文に「抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり」と御諭になった。即ち勅諭の忠節、礼儀、武勇、信義、質素が軍人精神である。この精神は建国以来我が国に伝われる武士道に外ならぬ。』
(『軍隊精神教育の参考』,1941,p.79)


どうやら『軍人勅諭』の「五ヶ条」が軍人精神を示しているらしいことはわかった。
今度は、昭和15年『軍隊教育令』の精神関連の記述を見てみよう。

第四十二 精神要素の涵養は教育の神髄にして寤寐(ごび)の間も忽(ゆるが)せにすべからざるものなり故に教育に任ずる者は予め企画すると共に凡百の機会とを捕捉して之が涵養に勉むるを要す」

第四十三 勅諭及勅語は実に精神要素涵養の本源なり故に時と所とを論ぜず機に触れ物に毎に聖旨の存する所を訓諭し之を脳裏に銘刻せしめ以て拳々服膺(けんけんふくよう)実を現さしむるを要す」

第四十四 国体の特長就中(なかんずく)建軍の本義及皇室と臣民との関係を明かにするは忠君愛国の信念を益〻鞏固ならしむる所以にして又国防に関し的確に理解せしむるは己の責務を自覚し彌〻奉公の念を堅くせしめ得るものとす」

第四十五 凡そ精神要素の涵養は幹部にして率先範を垂るるにあらざれば其の目的を達し難し乃(すなわ)ち幹部は百の言辞は一の垂範に如かざることを銘肝し絶えず修養研鑽を積み奮って難局に当り進んで実践の範を示し黙々の間部下を薫化(くんか)し其の景仰の中心たるの域に達せざるべからず」

第四十六 精神要素の涵養は実地に鍛錬陶冶(とうや)するを主眼とす而して日常生起する有ゆる事象は一として之が企画ならざるはなし就中(なかんずく)周到適切に企画し整生厳格に実施する教練は実に軍人精神を鍛錬し軍紀を振作するの要道なり而して諸般の演習、内外の勤務並(ならび)に行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の間薫化して懈(おこた)らざるは亦之が涵養に欠くべからざるものとす斯くの如くして彼此相応じ表裏兼該し始めて能く軍人精神並に軍紀の涵養を期し得るものとす」

第四十七 訓話は精神要素涵養の有力なる一手段なり而して訓話資料の選択に方りては被教育者の素質と心情とに適合する如く工夫し訓話の実施に方りては能く其の本旨を会得せしむる如く平易直截(ちょくせつ/ちょくさい)に説示し且勉めて感激と印象とを深刻ならしめ終には鞏固なる信念たるに至らしむると共に実践躬行(じっせんきゅうこう)に依り具現体得せしむるを要す」

第四十八 典令の綱領、我が国粋たる古今の史実、光輝ある国軍の偉績就中所属団隊の戦績若くは先輩、戦友の建てたる勲功等は精神要素涵養の為重要なる資料なり故に懇切に之を説明被教育者の自覚を促し其の識見を高尚にし且躬行の規範を与うることに勉むべし」

第四十九 軍人精神の涵養は実践躬行せしむるに始り之と説示とを反復して聖旨の存する所に帰一せしめ更に鍛錬を加え終には一挙手一投足の微に至る迄軍人たるに背馳(はいち)せざるに至らしめざるべからず」


これらの記述を見ると精神教育には、

周到な訓練
『軍人(軍隊)をして自己の確乎たる信念を涵養せしむる。必勝の信念は軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以て之を培養せしめなければならぬ。
射撃に就ては一弾一敵を斃すの技倆は平時の基本射撃に於て訓練し自信を持たしむ。剣術に於て機先を制し斬撃を以て常に勝利を得るの信念を持たしむれば、俄然敵に遭遇するも聊(いささか)も狼狽することなく、克く任務を遂行することが出来る。』
(『軍隊精神教育の参考』,p2)

幹部の率先躬行(率先垂範)
『率先躬行も可なり。吾人は乃木大将、橘中佐でないから中々容易の業でない。幹部は「独慎」の精神に則り居常(きょじょう)俯仰不愧天地(ふぎょうてんちにはじず)の模範的行動によって始めて其の効果を得ると思う。
要は「人を見て法を説け」の要訣を忘れてはならぬ。』
(同上,p.3)

訓話
『訓話者は常に被教育者の立場に立ち脳力を判断し之に適切なる如く計画するを要する。高尚な理解し難い話は効果が少いのみならず却って惰気を催し価値を失うことがある。
予め訓話の計画を立案し順序方法を究め被教育者の気分転換の為には時々諧謔(かいぎゃく)を加えるも必要である。要は趣旨、要点を脱さぬことである。』
(同上,p.3)

といった手段による教育方法があったようである。
訓練に限らず、精神教育の場は軍隊生活全般に渡るので、これら以外にも様々な方法はあると思われるが、 典範令等から読み取れる代表的な精神教育の方法はこの3種類。

今一度『軍隊教育令』の記述を見てみると、「軍人精神」の他に「精神要素」という単語が見られる。
この「精神要素」は、各種資料での記述から判断すると、『軍人勅諭』の「五ヶ条」そのものでは無いようだ。
例えば、『歩兵教練ノ参考(各個教練) 第一巻』(1942)の本文巻頭、開口一番このような記述がある。

常に精神要素の涵養に留意するを要す
事変の教訓に鑑みるに近代歩兵戦闘の惨烈性、戦闘継続期間の増加等は充溢せる攻撃精神、鞏固なる意志、熾烈なる責任観念、不撓不屈(ふとうふくつ)の熱意等各種精神要素の涵養を益〻必要とするに至れり之を以て苟も教練を実施するに方りては終始之が養成に留意するの外特に精神要素涵養を目的とする教練を実施すること緊要なり之を例せば左の如し

1、教練の指導に方り同一課目を長時間又は長距離に亙り厳正に実施せしめ或は困難なる地形及気象を克服せしめ以て堅忍持久(けんにんじきゅう)の精神を養成す

2、戦闘各個教練の実施に方り負傷の状況を与え自ら救急の処置を施しつつ戦闘を続行せしめ仮令(たとい)負傷するも俄然戦闘を持続するの精神を養成す

3、突撃の際指揮官若くは戦友に後(おく)るるが如きは最大の恥辱なるを銘肝せしむると共に断乎として独断突入すべき状況を作為して指導し攻撃精神特に率先突入の精神を養成す

4、夜間行進方向を維持して某地点に到着すべきを命じ若し到着せざるときは幾回にても反復実施せしめ以て責任観念を養成す

歩兵教練ノ参考(分隊) 第二巻』(1942)も第一巻と同様に、精神的要素の涵養についての記述が本文の始めにある。

精神的要素の涵養(二、一◯ノ二)
1、教練を以て軍人精神鍛錬の重要機会たるの趣旨を上下に徹底せしむること就中(なかんずく)教練の終始を通じ時と所とを問わず熾烈なる責任観念の養成に勉め一切の泣言文句を言わず常に積極溌剌不撓の熱誠を以て忠実に黙々として責任を果す者にして初めて克く光輝ある戦果を収め得るの意を徹底すること

2、常に綱領精神の涵養発揮に勉むること特に今次事変の経験に徴するに下級幹部以下は一層堅忍不抜(けんにんふばつ)克く困苦欠乏に堪うるの気力体力を鍛錬し難局に処して攻撃精神愈〻旺盛にして鞏固なる意志を以て百折不撓(ひゃくせつふとう)勝つ迄戦うの持久力を養うこと

3、幹部率先範を垂れ軍隊の儀表として其の尊信を受け部下をして自ら誠意奮励する如く指導すること

4、適時貴重なる戦史戦例を引用し部下をして一層自覚自奮せしむること

5、戦闘間兵一般の心得を特に計画的に演習に織込みて指導し具体的に且深刻に教育すること必要なり従来機会教育にのみ之を委したる傾向あり

第一巻の「充溢せる攻撃精神、鞏固なる意志、熾烈なる責任観念、不撓不屈の熱意等各種精神要素の涵養を益〻必要とするに至れり」という記述を見ると、「攻撃精神」、「鞏固なる意志」、「責任観念」、「不撓不屈の熱意」といったものが「精神要素」であるようだ。

第二巻では「綱領精神」という用語が出てくる。
ここでいう「綱領」とは、各兵科の『操典』と『作戦要務令』の綱領のことである。
作戦要務令』と各兵科の『操典』の綱領は一部(各兵科の操典の第11条は各兵科の本領についての条項となっている)を除いて共通のものとなっている。

ひとまず、綱領中に記述のある「精神要素らしきもの」を拾ってみると、

必勝の信念(第2,3)軍紀(第2,4)攻撃精神(第2,6)忠君愛国(第3,6)共同一致(第7)堅忍不抜(第8)責任観念(第10)鞏固なる意志(第10)

歩兵教練ノ参考』第一巻で見た「精神要素らしきもの」と同じものがチラホラ。

歩兵小部隊 戦闘教練 陣中勤務 実戦指導計画(1944,pp.11-12)にはこのような記述がある。

「演習を以て軍人精神鍛錬の重要機会である趣旨を一兵に至る迄徹底せしめ、典令の綱領に示す各種精神要素の中の何れかを捉えて、之を涵養すべく努めることが必要であるのだが、...」

本書は教練の計画案を掲載した書籍である。
収録されている計画案には、その教練で鍛錬される精神要素が記載されているが、これも概ね綱領に示されているものと同様である。
(犠牲的精神旺盛なる企画心積極的職責の遂行等、綱領に無い要素もある。必ずしも綱領に記述のあるものとは限らないようである)

先ほど抽出してみた「精神要素らしきもの」は、どうやら「精神要素」そのものであったようだ。


旧軍の3つの精神教育法である「周到な訓練」・「幹部の率先躬行」・「訓話」の内、「周到な訓練」と「幹部の率先躬行」は、現実的な精神教育法である。
周到な訓練」とは、つまり、ひたすら訓練を行うことである。
訓練を何度も行って、各種動作や射撃技能、判断力を養い、優れた技能等を持たせる。
その優れた技能等を持つことから発生する自信や誇りが「精神要素」の「必勝の信念」や「攻撃精神」等に繋がるわけである。

幹部の率先躬行」は、指導者や指揮官である上官等、幹部が兵の模範であれ。ということであり、精神教育にあたっては、幹部がその身をもって「精神要素」・「軍人精神」を兵に示せということである。

軍人勅諭』や典令が要求する事をありのまま適用した上で、この2つの精神教育がマトモに機能していたのであれば、軍人精神や各種精神要素を体現する、尊敬の念を抱けるような、模範的な上官および幹部による、綿密で周到な、かつ熱心な訓練が行われていたはずである。


主要な精神教育方法は3つあった。
その内の2つは上で触れたので、残るは「訓話」のみである。

では「訓話」はどのように行なうのだろうか。
一例を見てみよう。

軍隊精神教育の参考(p.5-7)

第四章 精神訓話の実施
精神教育は予定(臨時)に基き実施する場合にも効果あらしむるが肝要である。

一、日取
日取に就ては予定に基き計画し変更しない方が宜しい。月四回、毎週一回を可とす。実施に方り繰越し、遡りて実施するが如きは計画の杜撰(ずさん)を暴露するもので精神教育上其の効果をを失う。

二、時刻
精神の平静状態の時を選定するを可とする。殊に初年兵第一期間は全員出場し得るを以て午前教練開始前を可とする。第二期以後は成るべく多く集合し得る時間土曜日午後(検査終了後)を可とする。

三、場所
話題により場所を選定することが必要である。神社前、陸軍墓地前にては兵の頭脳に感慨の念を起さしめ訓話の趣旨を徹底せしむるを可とす。通常内務班を可とす。教官の臨席前集合準備携行品を点呼すること。

四、訓話方法
1、断言的に話すこと
如何に明快に流暢に話すとも被教育者の脳裏に徹底せしめる為には断言的でなければ何を聞いたか薩張(さっぱ)り不明のことがある。教官は兵の素養の程度を理解し居れば曖昧な言葉を避け、兵に懐疑の念を起さしめてはならぬ。之が為断言的を可とする。

2、真剣な態度
講話者の態度如何は直ちに内容に価値を及すものである。壇上に立ち悠然と構え、話題に入り諄々(じゅんじゅん)と説き及したなら、兵は克く脳裏に徹底するであろう。四角四面に固くなり、兵も謹聴(きんちょう)して居るのでは却って訓話がお叱言を受けて居るのと誤り価値が少かろう。

3、話は論理的に
話題に基き論理的に進めるのが宜しい。自己の実戦談などが飛入して話が横の道に入り遂に収拾し得ざることがある。最初に順序方法を考え断言的に話説するが如く実施が必要である。

4、勅諭に帰納すること
総て精神教育は其の本源たる勅諭に帰納することが肝要である。例えば兵の剣術に元気がない、勅諭武勇の条項に合致しない、贅沢な物品を見て質素の観念に欠けている、などと勅諭の精神に還元せしむるを要す

五、訓話実施後の監督
軍隊は不言実行である。班長は点呼立会の際、上官の訓話の徹底如何を監督するを要す。脳力不十分な兵には時々質問し、誤解を正し、或は居室に呼び、特に懇切に教うるなどの手段を施し之が励行如何を監督するを要する。

以上は精神教育に関する私見であって、微細の穿鑿(せんさく)に亙(わた)らず梗概(こうがい)を述べたに過ぎない。取捨選択に就ては大方の叱正を乞う。

これが「訓話」の方法その他の一例である。
訓話」を行う日取や時刻等に関する記述があったが、これは「計画的な訓話」に関しての話で、計画的で無い、つまり機会を見て適時に行われる「訓話」もある。

同書の序言を見てみよう。

『凡そ軍隊教育中精神教育ほど至難にして最も重要なものはあるまい。河を越え、任務の遂行に邁進する底の精神は常に涵養せしめねばならぬ。之が為には「勅諭」を経(たていと)とし各典範令の綱領を緯(よこいと)とし部下の脳裡に徹底する如く教育することが肝要である。
、一般教育。入営当初は兵の境遇一変し、万事新しく生れ変るので、其の淳朴な精神は克く上官の訓示を直ちに之を受け入れる。其の効果も亦大である。

、機会教育。一般教育の他、機会を捉え、各個人につき諄々説き及ぼしたならば、相当の効果がある。之が為には順序方法を予め考察準備せねばならぬ。之に反し事理を極めず、徒らに叱責する如きは、却って兵の反抗心を喚起し、遂に教官に対し怨府(えんぷ)を醸す基となる。

、垂範教育。国軍の楨幹たる将校は常に活模範を垂れ、仰いで以て之に則らしむる事が必要である。之が為には挙止端正、態度厳正、言語明晰苟も蔭日向のある行動あるに於ては、精神講話は其の価値を失う。

要は兵の心の琴線に触れ、彼等の享受せる印象を深川ならしむのである。人を見て法を説け、極めて俗人に入り易き卑近な説話を工夫して以て、且つ其の精神を逃さぬ様に会得せしめ、所謂自覚の域に導くことが大切である。』

必ずしも「訓話」に限った話ではないようだが、
定期的、あるいは計画的に行うのが「一般教育」。
機会を見て、その都度必要に応じて行うのが「機会教育」。
垂範教育」は、つまり「幹部の率先躬行」のことである。

今度は「訓話」の中身である。
訓話」では一体どのような話をするのだろうか。

例として『陸軍精神教育資料p.405の「初年兵の覚悟に就ての訓話」を少し見てみる。

「諸子が軍隊に入るのは、我帝国を保護するに必要なる軍人精神を修め、軍人の技倆を磨かんが為めである。而して軍人たるの技倆を得るのは甚しく難しいものではない。歩兵の如きは四ヶ月で大概は教育され、一ヶ年で殆んど兵たる技倆を修得する事が出来る。而して第二年度に在りては多くは第一年度に修得した事柄を復習練磨して熟練の域に進ましむるのである。一年帰休というて一年で帰されるのでわかる。他の兵科でも亦大差はない。然るに軍人精神に至っては修めて際涯なく、養うて極限がない。修むれば益〻深く、養えば愈〻広いのである。故に初年兵たる者は抑〻入営の始めから此の考えを以て軍人精神を修養せよ。軍服を纏い武器を携えても決して我が帝国の真の軍人ではない。何となれば軍人精神のない軍人は、国家万一の秋(とき)に方って困難に遭えば忽ち挫折し危険に瀕すれば忽ち萎縮して、一身を犠牲に供して君国を保護すると云うことが出来ないからである。........(以下省略)」

これは一例であって、実際にはもっと色々な「訓話」が存在するのは当然のことである。
軍人勅諭』の解説や戦記の紹介も「訓話」の題材となる。
有名な爆弾三勇士は「犠牲的精神」の体現であり、これは『軍人勅諭』の「忠節」に繋がる。
日本の国体がいかに世界に冠絶するか。日本の使命とは一体どんなものか。実戦談。軍紀風紀、皇室、靖国神社、戦陣訓等々。
訓話の題材は非常に多岐にわたり、資料も豊富である。
また、その実施も訓練を行ったり、自身が模範的に振舞うことに比べれば(話しをするだけなので)とても容易である。

ここまで見てきた通り、旧軍の精神教育は「周到な訓練」・「幹部の率先躬行」・「訓話」の3つが中心である。
書籍や文書中で精神論を懇々と説いたり、精神的な文言を挿入したり、書籍を精神的な文言で満たすようなものも「訓話」の一種だろうか?

何にせよ、これらの教育法でどれが重要かというのはなんとなくでも分かりそうなものである。
旧軍では、どの教育法の比重が大きかったのか?
それぞれがどの位の割合を占めていたのだろうか?
これに関しては資料不足のため、結局は印象論とならざるを得ないのであれこれ言うことはできないのだが、このような話がある。

兵学入門 ー兵学研究序説ー(西浦進,1975,pp.135-136)

『これに関連して思い出されるのは、私の陸大一年学生当時の恩師、吉田悳将軍の次の言葉である。

「元来軍隊教育は、百戦必勝の軍隊を錬成するのが目的であって、軍人精神の涵養がその主眼とされている。しかして軍の精神的要素を向上せんとするならば、上下挙って一意専心、軍隊の教育訓練に精進してその精錬を期すべきである。この熱意と努力を不問に付し、いかに朝から晩まで精神教育を叱呼し、あらゆる文書に精神的文句を充満せしめたところで、その効果たるや知るべきのみ。……演習そのものの経過中、各種動作について、幾多啓発指導を要する事柄があるにもかかわらず、監督指導の任にある者が、ほとんどそれらを等閑視するというよりは、発見する識量を欠き、講評の大半を、いずれの場合にも通用する無難な精神的事項をもって終始するごときは、これを百万遍繰り返しても、軍隊の実質的価値は上がるものではない。演習場に臨んだ将軍が、おもむろに賞讃と激励の辞を述べ、毒にも薬にもならぬ精神訓話をもって講評に代えるがごとき、かかる道徳的仮面を被った怠け者の逃げ途を閉塞すべきである」と。

要は真に、実力ある指揮官、将帥がなければ、到底精錬強力な軍隊は求め得られないということに帰するのである。』

この言葉はどれ位の範囲に適応されるのだろうか?
軍全体、あるいは多数の部隊でこのような傾向があったのか?
"そこそこ"の数の部隊を指した言葉なのか?
それとも、このような傾向が目に余る特定の部隊を念頭に置いた話なのか......


参考文献

・『軍隊教育令』武揚社書店,1929
・關太常『歩兵全書』川流堂 小林又七,1940
・鷹林宇一『軍隊精神教育資料』川流堂 小林又七,1940
・齋藤市平『軍隊精神教育の参考』尚兵館,1941
・武揚堂編纂部『改正軍隊教育令の分類的註解』武揚堂,1942
・陸軍歩兵学校『歩兵教練ノ参考(各個教練) 第一巻』軍人会館図書部,1942
・陸軍歩兵学校『歩兵教練ノ参考(教練ノ計画実施上の注意 中隊教練 分隊) 第二巻』軍人会館図書部,1942
・川崎音吉『歩兵小部隊 戦闘教練 陣中勤務 実戦指導計画』尚兵館,1944

2016年1月15日金曜日

擲弾筒運用一考

Q.擲弾筒の役目は?

A.主として突撃動機の作為、状況により突撃発起後不意に現出する敵自動火器の制圧、逆襲阻止等に使用する。(歩操 第152)

実戦では案外ポンポン撃っていたのかも知れないが、歩兵操典が擲弾筒に求めているのは「主として突撃動機の作為」。つまり、小隊の突撃目標の制圧である。
初年兵教育(山崎慶一郎 著,1943)では、これについて2つの理由を挙げている。

「1、擲弾筒は擲射弾道にして神速機敏なる制圧効果の発揚に便利ならず
2、携行弾数は僅少なり」(p.136)

Q."擲弾筒は擲射弾道にして神速機敏なる制圧効果の発揚に便利ならず"というのは具体的にどういうことなのか?

A.擲弾筒は曲射砲なので弾道が山なりとなり、弾着まで時間がかかるため「すぐに敵を殺傷、制圧」できないということ。

擲弾筒の撃発後、射弾が着弾するまでにかかる時間は「射撃距離のメートル数の百の位の2.5〜3倍」。射距離400mの場合、約11〜12秒。
また、射撃目標に対して射撃するために停止し、配置につき、擲弾筒を据え、方向照準、距離分画の装定、弾薬手による弾薬の装填、撃発。という一連の操作にも時間がかかる。(教本の書き込みでは約12〜13秒)

擲弾筒の射撃は、距離や状況等により変化するものの、射撃準備から弾丸の弾着まで大体20〜30秒前後かかるということになる。
小隊の突撃目標の制圧のような、どちらかと言えば静目標に対する射撃が主任務となっている理由もなんとなく理解できるのではないだろうか?

Q.小隊内における一般分隊と擲弾分隊の運用の違いは?

A.一般分隊は分隊長が比較的自由に運用。擲弾分隊は小隊長の直轄的運用。

射撃が行われる前の段階で、小隊長は各分隊に攻撃目標等を示して小隊を展開する。各分隊は小隊長の攻撃目標等の指示に基づいて前進する。
この辺りは一般分隊と擲弾分隊で違いはほとんど無いが、「射撃」に関しては運用の違いが色濃く出ている。

擲弾筒分隊の射撃は「通常小隊長の命令に依る。分隊長は目標、距離分画、要すれば筒の位置、射向修正量、弾種を示し発射を号令す」(歩操第126)とある。

一般分隊は「展開後に於ける分隊の前進、停止及び射撃は分隊長直接指揮す」(歩操第149)という記述に加え、「小隊長の命令に基き適時射撃を開始する」(歩操第121)とあり、(一般分隊の)分隊長にある程度独断の余地を与えていることを示すような記述となっている。

一方、今一度擲弾分隊の射撃に関する記述(歩操第126)を見てみると、「小隊長の命令に基き」ではなく「小隊長の命令に依る」となっている。

擲弾分隊に関して小隊長が行う指示の内容は「擲弾分隊に射撃を命ずるには通常目標、距離及び発射弾数、要すれば使用筒数、射撃の目的、射撃位置、弾種等を示す」(歩操第152)であり、歩兵操典の第126の記述と併せて見てみると、擲弾分隊の分隊長が独自に行う指示は「筒の位置」と「射向修正量」を示すくらいである。(距離分画は小隊長の指示と違うものになるかもしれないが)

小隊の展開以後、一般分隊は運動から射撃まで半ば放任的に運用されるのに対し、擲弾分隊は小隊長が比較的強度に統制しているように見える。
この理由は前述の擲弾筒の主任務が小隊突撃目標の制圧にあることが大きいだろう。
携行弾数も少なく、射撃も即応性に乏しい。
擲弾分隊は分隊長が自由に運用するよりも、小隊長が小隊の戦闘を俯瞰して見た上で、必要な時(突撃直前等)に射撃を行わせる。という方式で運用する方が弾を節約できて効果的な運用もできるのだろう。

Q.擲弾筒の照準と射撃法は?

A.筒身中央にある方向照準線を照準点に向け、筒を45度の角度に保持。
整度器を操作し、分隊長から示された距離分画の数字に合わせ、引革(引鉄)を引き撃発する。


擲弾筒の「射撃角度45度保持」の練習時には射角器や角度桿といった補助機材を使って、正確に45度の射角を取れるように訓練する場合があるが、こういった補助機材を使うのは教育の初期の段階まで。

初年兵教育p.143
「射角器の使用は正確なる角度の標準を理解せしむる為初期に於いては之を使用するを可とするも之にのみ頼らしむるの習慣を付くるは適当ならず是擲弾筒の軽快なる特性に反すればなり」

昭和12年歩兵操典草案の頃の擲弾筒の射角は「概ね45度」であった。
第六十九 ...筒を概ね四十五度の角度に保持し...」

教練書の類は基本的に典範令を基に編纂されるので、草案と同様に「概ね45度」という記述、あるいはそれに準じた解説等がなされていた。

戦闘各個教練ノ参考{小銃 擲弾筒 軽機関銃}第壹巻p.55
「三、射角
射角は概ね四十五度を基準とし一定なる如く筒を保持するを要す蓋し仮令正確に四十五度ならざるも常に一定に保持せば射撃に何等支障なきも射角が発射毎に変らんが射撃修正混乱し命中を期し得ざるに至るべし」

このように大体45度で良かった射角だが、昭和15年歩兵操典からは「概ね」という語が取り払われ、
第四十二 ...四十五度に保ち...」
という記述となり、表向きには「正確に45度」の射角で射撃するものとなった。

教練書等でも正確に45度に保持できるように演練を行え。といったニュアンスの記述は多い。

とはいえ、常に正確に45度の射角をとるというのは現実的ではない。
そもそもの話として、この「45度の射角」は、器材を使って計測するわけではないので、どんなに演練を重ねたとしても、少なくとも±1〜5°くらいの誤差が出ると考えるのが自然である。
常識的に考えれば「実際には“概ね45度”の射角で運用されていたんだろう。」と、ほとんどの人が思うだろう。

実際、草案の頃の記述がそうであったように、擲弾筒は「厳密に45°の射角でなければならない」というわけではなく、多少の誤差は問題が無かったようである。

初年兵教育pp.142-143
「三、射角は正しきに越したることなきも器械を用いざる以上若干の誤差は免れ難し
然れども僅少の誤差は射程上大なる影響を与えざる所に本兵器の特徴あり其の関係左の如し

(1)射程の増減
薬室容積変化に伴う瓦斯圧力の作用・・・大
射角の増減・・・小

(註)小銃は射角の増減が射程増減作用の総てなり故に其の頭を以て擲弾筒を律するは大なる誤なり

(2)四十五度より(+)、(−)、各五度附近迄は同一分画に於ける射程上の差異は僅少なり夫れより弾丸を目標に導かざるは他に大なる原因あり即ち目測誤差及風の影響、弾薬の不良是なり

(3)擲弾筒の如き曲射弾道の火器と小銃の如き平射弾道の火器とに於て同一角度の増減を以てする射程上の影響は同日の談にあらず

右の如くなるを以て射角のみ如何に正しくとるも他の影響に依り正しく弾丸を目標に導くこと困難なると共に一方射角の僅少なる誤差は小銃の如く大なる影響を及さざる点に留意するを要す
故に擲弾筒の射角附与の要訣は四十五度にして常に一定(縦い誤差あるも常に同一方向にして概ね同量)なるを要す」

では、昭和15年歩兵操典の記述がおかしいのかと言えば、一概にそうだとは言えないだろう。
概ね45度の角度で構えろ」と教える場合と「正確に45度の角度で構えろ」と教える場合、どちらがより「概ね45度に近い角度」で構えられるようになるだろうか?

実際には「概ね45度」になるのだからわざわざ「概ね」という語句を残す必要は無い。また、「概ね」と記述されているから「テキトウで良いのだろう」というように解釈されてしまう恐れもある。
マニュアルは端的かつ明快な記述であった方が良い。「概ね」は不要である。

という経緯があったのかは定かではないが、いずれにせよ擲弾筒の射角は、“ 45°の角度がとれていれば大した問題は無い” 程度に「テキトウ」で良かったのである。

方向照準は筒身の中央に引かれた方向照準線を用いるが、方向照準線が目標と一致することはそうそう無かったと思われる。
というのも、擲弾筒は腔綫がある関係上、射弾が右へ流れる(偏流)。(諸兵射撃教範 第1部、第6)

擲弾筒の偏流修正量は
100〜200m 40密位
300〜400m 30密位
500〜800m 20密位

要するに、300m先の目標を照準する場合は目標から30密位左を照準することになる。
また、風が吹いていた場合も左右にいくつかズラして照準することになる。

擲弾筒の筒身の幅は約5cmで、約100密位でもある。(射教1附図第3)
中央の方向照準線は左右50密位の基準となるし、5mm刻みに線を引けば10密位刻みの目盛りとなる。擲弾筒手は必要であれば、個人で線を引くなどしていたものと思われる。

Q.擲弾筒分隊の射撃関連の号令や動作は?

A.
資料によって若干異なっていたり、そもそも記述が無いことのほうが多いが、歩兵操典では「通常小隊長の命令に依る。分隊長は目標、距離分画、要すれば筒の位置、射向修正量、弾種を示し発射を号令す」(歩操第126)
とされており、擲弾分隊の射撃は小隊長が指示を出すことから始まる。(歩操第152)

例:3筒編成の擲弾分隊が火点に対して射撃

小隊長「第4分隊は“スギ”の火点に対し集中射撃準備 270 各筒7発 射撃開始は別命す」
(小隊長が分隊に対して目標、距離、発射弾数を指示。すぐに射撃を行わせる場合は「直ちに射撃開始」)

小隊長から命令を受けた分隊長は分隊に対し目標等を示す。(歩操第126)
分隊長「目標 一本松の右端より右50密位、左80密位にわたる火点 270 20右へ」
(目標、距離分画、射向修正量を指示)

横風が吹いている場合は分隊長が号令で修正量(射向修正量)を示す。(歩操第126)

風速1mに応じた修正量の基準は以下の通り

射距離200m 1密位
射距離300m 2密位
射距離400m 3密位
射距離500m 4密位

例えば、射距離300mで風速5mの場合は「5×2=10」となるので10密位修正する。

風が斜めから吹く場合
風が射線に対して0〜20°の角度で吹くときは修正せず。
およそ30°の場合は0.5。およそ45°の場合は0.7を風速に掛ける。
60°〜90°は直角の風として扱う。(修正量の基準を適用)

例として、
距離300 風向30° 風速7m
7(風速)×0.5(30°の係数)=3.5≒4
4×2(距離300mにおける修正量)=8≒10(修正量)
距離500 風向45° 風速6m
6(風速)×0.7(45°の係数)=4.2≒5
5×4(距離500mにおける修正量)=20(修正量)

右から左・左から右。どの方向へ吹いている風なのかによって右に修正するのか左に修正するのか決まる。
右からの風であれば(弾は左へ流れるので)右へ
左からの風であれば(弾は右へ流れるので)左へ
例えば、「距離300m 風向30° 風速7m 右から左」の場合の修正号令は「10右へ」となる。

各擲弾筒射手は、分隊長から指示された距離分画を装して、その結果を報告する。(歩操第44)
各擲弾筒射手「270」

各擲弾筒射手「込め」
の合図で第1弾薬手が弾薬を装填。(歩操第127)

装填が終わった射手は、
各擲弾筒射手「(第◯) 準備終わり」※()内は擲弾筒の番号
と報告する。(歩操第44)
※以下射手の報告等は省略

各擲弾筒の準備が終われば分隊長は小隊長へ、
分隊長「準備終わり」
と報告。
小隊長は分隊長の「準備終わり」の報告を受けてから時期をみて、
小隊長「射撃開始」
と命じ、分隊長は各擲弾筒に射撃(指命射)を行わせる。(歩操第126)
分隊長「第1 撃て」
第1擲弾筒射撃
分隊長「第2 撃て」
第2擲弾筒射撃
分隊長「第3 撃て」
第3擲弾筒射撃

弾着を観測し、方向と距離の状況を判定。
分隊長「近し右、近し右、近し方向良し」
分隊長「310」

射距離の修正は、射弾が全て目標の手前(近)に落ちるか目標を超過(遠)した場合は40m修正。
(射距離300 全弾「近」→340、全弾「遠」→260)

遠近の比が1/3以下の場合(1/3を含む)と、射距離修正後の射弾が全て修正前の結果の反対側に落ちた場合は20m修正。
(4筒射撃 射距離300 近:遠/3:1→320、近:遠/1:3→280)
(射距離300 第1回目指命射全弾「近」→340、第2回目指命射全弾「遠」→320)


同一の射距離での射撃の結果は総合して判断する。
(3筒 射距離300 1回目指命射 近:遠/2:1、2回目各個射2発 近:遠/5:1=近:遠/7:2→320)
(3筒 射距離300 1回目各個射2発 近:遠/2:4、2回目各個射3発 近:遠/2:7=近:遠/4:11→2回目各個射のみの結果だと遠近比は2:7で1:3より小さいが、1回目と2回目の結果を合計した遠近比は4:11で1:3より大きいので修正しない)


指命射では方向の修正(右・左にどれだけズレているか)は、各擲弾筒の射手が行う事になっている。(射教2第179)
射手が擲弾筒の筒身幅等を活用して方向上の修正量を測ることが出来る。というのは既に説明した通り。
本例に限らず各種資料でも分隊長は「右」だとか「方向良し」といったことしか言っていないような記述が多いが、射手の能力や状況如何によっては分隊長が修正量を示していた場合が多いのではないかと思う。
(下士官の双眼鏡には5密位刻みの目盛りがある上に、専門的に観測の教育を受けて演練するので具体的な数値を示すことができたのではないかと思う。分隊長の能力が低い等の場合は、おそらく小隊長が補助するものと思われる)

分隊長が射撃後に方向修正量を示す場合は、
分隊長「近し右、近し右、近し方向良し」
分隊長「第1 10左へ、第2 25左へ、第3 修正せず」
といった具合になると思われる。
(明確に記述した資料がほとんど無かったので推測だが)

全弾「近し」だったのでもう一度指命射で様子を見る。
(全弾「遠し」でも同様。これを“点検の複行”と呼ぶ)
分隊長「第1 撃て、第2撃て、第3撃て」
分隊長「遠し左、遠し右、遠し方向良し」
分隊長「290」

射弾が前回と反対に落ちたので射距離を20m修正。
射距離は310から290へ。
第一回目の指命射が全弾「近し」、今回の指命射が全弾「遠し」で夾叉が成立したので各個射へ移る。
(この射撃で射弾に遠近が混ざった場合も同様に各個射へ移行。相変わらず全弾「近し」、「遠し」の場合はもう一度指命射を行う)


各個射を行う場合、分隊長は射撃弾数を示して射撃を号令する。各個射の射撃弾数は通常2〜3発。(歩操第44,射教2第176)
分隊長「各個に2発 撃て」

各擲弾筒は最大の速度で指示された弾数を射撃し、所命の弾数を撃ち終えたら、
各擲弾筒射手「(第◯) 撃終り」
と報告する。(歩操第44)

分隊長は射弾を観測。
分隊長「遠し左、疑わし右、近し右、疑わし左、遠し右、近し右」
「疑わし」は、遠近どちらの弾着か分からなかったもので、射距離修正の判断材料から除外される。(射教2第181)
(※射撃結果の発唱は少なくとも訓練の段階では行うようだが、実戦でも同様に発唱していたかは不明)

各個射の観測と方向修正は分隊長が行う。(射教2第179)
各個射では、全射弾の偏差量(ズレの量の事。密位で示す)を平均した数値(平均偏差量)を反対方位に修正する。(射教2第180)

例えば、上の射撃結果で得られた方向上の偏差量が
「-5、+15、+4、-8、+12、+10」※(-)は左、(+)は右
であった場合、これを計算して平均を出すと、
(-5+15+4-8+12+10)/6=+24/6≒+4
となる。

しかし、擲弾筒は詳細に方向照準を行えるような照準器の類が無いので細かい修正は難しい。そのため、基本点に方向修正量は5密位刻みで示していたようである。

つまり、今回の場合の方向修正量は、
分隊長「5つ左へ」
射距離修正は無し。(「疑わし」を除外、遠:近/2:2)

射弾が偶数なら中央の2つの射弾の平均偏差量。奇数なら中央の射弾の偏差量の数値。射弾の半数以上が同一の偏差量であれば、その偏差量を採用すれば平均偏差量に比較的近い数値が得られる。
必ずしも全弾の結果の平均を計算しなければならないというわけでもない。
(射弾が多いと把握も計算も困難であるから、実戦等ではこれらの方法を主に使っていたのではないかと思う)

分隊長「各個に3発 撃て」
分隊長は射弾を観測。結果を発唱。
命中弾無し。火点は未だ沈黙せず。

小隊長から示された発射弾数は各筒7発。
指命射を2回(各筒1発×2)、各個射を2回(1回目各筒2発、2回目各筒3発)
合計各筒7発。小隊長が命令した発射弾数を全て撃ち終えたので、この擲弾分隊の射撃はひとまず終了。

分隊長は「所命弾撃終り」を小隊長に報告。次の指示を待つ。
あるいは、「第1分隊が目標火点に緊迫。突撃の機会を伺っている。今、擲弾分隊が射撃を行い、一瞬でも火点を沈黙させれば第1分隊が突撃を敢行しそうだ」といったような状況であれば、分隊長が独断「各個に2発撃て」と命令することも可能。

実戦では省略されていたり、部分的に違う可能性があるかもしれないが、以上が擲弾分隊の戦闘時(教練段階)の動作、号令の一例である。

Q.擲弾筒はジャングル戦において有効な兵器か?

A.活躍したという話は良く聞くが、これに関しては一考を要する


擲弾筒は瞬発信管(八八式小瞬発信管)を使用することが"基本"であったようで、『擲弾筒取扱上ノ参考』にも瞬発信管しか記載されておらず、各種教本でも瞬発信管での運用が前提であるような記述となっている。
これがどのような問題を引き起こすのか?
各種資料の記述を見れば一目瞭然である。

擲弾筒取扱上ノ参考p.34
「十一、壕内若くは堤防下に於て射撃する場合弾丸を前岸に撃突せしめざること必要なり筒軸の延線上に電線及樹枝等の存在する場合に於ても同じ之が為樹木下、電線下に射撃位置を選定するは成るべく之を避くるを要す」

擲弾筒教育ノ参考 p.7
「樹木等を遮蔽物として利用する場合一葉一枝と雖も弾道に触るときは◯◯信管は直に爆発すべし」

初年兵教育p.219
「樹木等を遮蔽物として利用する場合一葉一枝と雖も弾頭に触るるときは瞬発信管は直ちに爆発すべし」

戦闘各個教練ノ参考{小銃 擲弾筒 軽機関銃}第壹巻pp.60-61
「2 樹木等を遮蔽物として利用する場合一葉一枝と雖も弾道に触れざること必要なり
又遮蔽物として利用せざる場合に於ても樹枝等の為不時の爆発を来たし危害を友軍に及さざる着意極めて緊要なり」

歩兵教練ノ参考(各個教練) 第一巻pp.143-144
「2、観測に支障なき限り勉めて遮蔽せる位置を選ぶこと
遮蔽物の後ろに止板の位置を定むるに方りては遮蔽物に射弾の触れざる如く適宜離隔して之を定む之が為遮蔽物と筒位置との距離は遮蔽高より大ならしむるを要す又弾道上に樹枝、電線等在らざること必要なり」

つまり、射弾の弾道上に何かある場合は実質射撃不可能(射撃自体は可能ではあるがなるべく避けるべき)であり、密林や森林地帯で射撃を行える状況というのは案外限られていたということになる。

擲弾筒部隊、あるいは敵が森林内にいる場合は、射弾が敵に到達する前に爆発する可能性がある。
擲弾筒の榴弾の効果半径は約10mなので、擲弾筒の弾道上10m以内に木々や枝等が存在した場合は、射撃を行った擲弾筒部隊が自身の射弾によって被害を被ることになる。
一方で無事に射撃出来たとしても、(極端な例ではあるが)例えば敵が10m近い木々の下に陣取っていた場合は、擲弾筒弾は敵の頭上に広がる木々、枝、葉っぱに当たって起爆。結果、敵には被害を与えられないということになる。
木々が密生していれば、爆発の衝撃も飛散する破片も木々が吸収してしまうから、効果が薄くなってしまう。
(森林内にいる敵に対して射撃した場合は、仮に一切の直接的な被害を与えられなかったとしても、頭上で何かが爆発することへの恐怖といった「精神的な被害」はそれなりに与えられるのではないだろうか)

また、擲弾筒の射撃位置が森林内でなくとも、背の高い草が生い茂っているような場所での射撃も同様に爆発の危険があるようで、

歩兵教練ノ参考(各個教練) 第一巻p.145
「三 地形地物の改修
地形地物は常に希望通のもののみにあらず宜しく之を改修し筒の最大威力を発揮せしむるを要す
...或は「ボサ」等の中にて射撃するを要するとき弾丸が草、樹枝等に触れざる如く之を除去するが如き等是なり」

といった記述も見られる。(弾道に悪影響を与えるといった理由もあるかもしれない)

では、信管を少し鈍感にすれば良いのかといえばそう単純な話でもない。
擲弾筒の弾丸は低初速で飛行するため、信管の安全解除 (撃発時の慣性、弾丸飛行時の遠心力等により撃針が雷管を衝けるようになる)も低初速の環境で行わなければならないため、信管の安全解除の機構はそれに応じて鋭敏なものとなっていた。
これに加えて、初速が小さいということは着弾時の衝撃も小さくなるから、安全装置の機構だけでなく、撃針が雷管を衝く機構も鋭敏でないといけないということになる。

擲弾筒取扱上ノ参考』には、
「弾丸の装填に方り信管頭に指を掛くべからず信管頭部を強く押すときは八九式榴弾に在りては過早破裂を生起する危険あり」(p.33)

とある。つまり、森林で撃てないどころか、ちょっとした衝撃で信管の安全が解除され、射撃してすぐに爆発を起こす可能性がある。実際、結構発生した*そうである。
*(佐山二郎『大砲入門』pp.265-266)

擲弾筒の信管(八八式小瞬発信管)は、全般的に鋭敏なものとなっていたがこれには上述の通り理由があるので、これを鈍感にしてしまうと今度は安全の解除がなされず不発。あるいは着弾時に撃針が雷管を衝かず不発。といったことが起こる可能性が増えることになる。

瞬発信管を鈍感にできないとなれば、森林等で撃つためには瞬発信管以外の信管(真っ当に考えれば短延期信管だが、弾丸の経過時間等を考えれば時限信管の方が良いのだろうか?)を使わなければならないわけだ。
しかし、擲弾筒の参考書に記載されていないような信管が一般的に使用されていたのか?必要な時に支給できたのか?といったことを考えるとなかなか怪しいものではある。(そもそもあったのだろうか?)※

要するに、ジャングルで擲弾筒を使用するには、第一条件として擲弾筒の弾道上に木々が無いか少ない場所でなければいけないのである。(平射射撃という例外はあるが、これが公式に採用されたのは1945年に入ってからの話である)

活躍したという話の裏に、活躍できなかったという話が山のように転がっているかもしれない。

※2016.5.8 追記:米軍の敵兵器等のカタログ(Catalog of Enemy Ordnance Material)に「89式小時限信管(Type 89 Small Time Fuze)」という擲弾筒・70mm迫撃砲・火砲用の時限信管が掲載されている。 

また、米軍のテクニカルマニュアルの1つ、"TM 9-1985-5" の方では、「九五式発煙弾」に使用されていたということを示す図や文がある。(榴弾の方は「八八式小瞬発信管」のみ記載されている)
どうやらこの「89式小時限信管」は、発煙弾に装着する信管のようである。

旧軍側の資料では、アジア歴史資料センターの「八九式重擲弾筒弾薬九五式発煙弾仮制式制定の件」(JACAR Ref.C01001510500)中に「信管は八九式小曳火信管なり」(ページ8)とある。
榴弾の使用時、「状況に応じて信管を選定する」といったような記述は、今まで読んだ擲弾筒関連の教本等に限って言えば見た記憶がないので、おそらくこの曳火信管は、基本的に発煙弾専用だったのではないかと思う。


参考文献

・陸軍歩兵学校『擲弾筒教育ノ参考』兵書出版社,1937
・陸軍歩兵学校『戦闘各個教練ノ参考{小銃 擲弾筒 軽機関銃}第壹巻』丸兵書店,1938
・『歩兵操典』川流堂 小林又七,1940
・關太常 編纂『歩兵全書』川流堂 小林又七,1940
・陸軍歩兵学校『擲弾筒取扱上ノ参考』軍人会館図書部,1941
・陸軍歩兵学校『歩兵教練ノ参考(1〜3巻)』軍人会館図書部,1942
・『兵学研究 琢磨』 第十二巻、1、3、9月号,1943
・山崎慶一郎『初年兵教育』琢磨社,1943
その他、部隊教練計画等のガリ版資料も参考とした