2016年7月19日火曜日

旧軍式戦闘群式戦法

「一番」と「指揮者」が副分隊長ではないのはなぜだろうか?という疑問から派生した旧軍式の分隊戦闘の特色についての一考察。
精査も推敲も不十分だが取り敢えず公開。
全般的に充分な資料を基にした考察ではないので信頼性もその程度の認識で。



戦闘群式戦法一般
一般的な(戦闘群式戦法における)分隊は、制圧班と機動班に分かれて片方を分隊長、もう片方を副分隊長が指揮する(厳密に言えば分隊長は分隊全般の指揮を執りつつ、どちらかの班を重点的に直接指揮する)という形態であり、分隊は2つの半分隊で構成されているとも言える。
アメリカを除くWW2時の列強は大体これに近い形態を採っていると思う。

旧軍の場合は、前方散兵群(軽機班)と後方散兵群(小銃班)に分かれていて、前方散兵群を分隊長(または「一番」)が指揮し、後方散兵群は「指揮者」(または分隊長)が指揮を執る。

この段階では同じようなものに見えるが、どのような運用をするのかという所に目を向けると一般的な戦闘群式戦法とは異なるもののように見えてくる。




旧軍式戦闘群式戦法の流れ
旧軍式の場合、まず分隊の射撃は軽機関銃か狙撃手(前方散兵群)が行う。(歩操第122)

その後、火力の増加を必要とするに至って小銃手(後方散兵群中の兵の一部)が火戦に投入される。(歩操第122)

その後戦闘が進展して突撃が近づくと、更に小銃手が火戦に増加される。(歩操第129)
参考(概念図)⇒『歩兵操典詳説』(p.101)

そして突撃の際は、分隊長が「率先先頭に立ち全分隊を挙げて猛烈果敢に突入すべし」(歩操第130)となる。


後方散兵群の位置付け
小隊の疎開後、分隊が戦闘を開始しようと決めた時に分隊は散開(傘形散開)し、前方と後方の2つの散兵群に分かれる。
その後、後方散兵群は途中から徐々に前方散兵群に吸収されていき(?)、最終的には1つの分隊となって突撃を敢行する。というのが歩兵操典上の理論的な分隊運用法であるようだ。

つまり、旧軍の後方散兵群は、白兵戦用、火力増加用として前方散兵群の後方に置かれている予備兵力のようなものであり、他国の戦闘群式戦法の機動班のような「独立した半分隊」として射撃や機動を行うことが主の運用法では無いということになる。


分隊長による後方散兵群の指揮
とはいえ、必ずしも後方散兵群が他国の戦闘群の機動班のような動作を行わないというわけでは無いようで、歩兵操典第118には「状況に依り一番をして一時前方に在る散兵を指揮せしむることあり」という条文がある。

『歩兵操典詳説 第1巻』(p.73)ではこの条文を

新操典に於ける「一時前方ニ在ル散兵ヲ指揮セシムルコトアリ」の法則は、単なる前進方向維持の誘導に止らず、更に火戦の指揮をも執らしむることあるを認められてあるのである。即ち其の状況に依っては前方散兵群(狙撃手を含む)は一番の指揮を以て正面より射撃しつゝ攻撃を続行せしめ、分隊長は自ら分隊主力(後方散兵群)を指揮し包囲行動に出づるを有利とする場合あるを以て、此の間の指揮に関し特に増補せられたものである。

と説明している。

『歩兵教練の参考 第2巻』(pp.47-48)もほぼ同様の記述で、

状況に依り一番をして一時前方に在る散兵を指揮せしむることあり例えば狙撃手或は軽機を以て正面より射撃せしめ自ら分隊の主力を指揮して包囲の為前進するを有利とすることあり斯くの如き場合に於ては一番をして一時前方に在る散兵を指揮せしむ

と記述している。
後方散兵群による他国の戦闘群の機動班のような動作も想定されており、実行も可能ということになる。

ただし、歩兵操典 第118が想定しているのは、「指揮者」が後方散兵群を指揮し、敵に対して行動を起こすというものではなく、分隊長が前方散兵群の指揮を「一番」に任せて、自身で後方散兵群の指揮を執って突撃(あるいは射撃?)を行うというものである。

後方散兵群の指揮をとる「指揮者」は、移動の指揮をとることはできるが、射撃の指揮は許されていない。
そのため、後方散兵群が後方散兵群として射撃や移動を行うためには分隊長が指揮官にならなければならないのである。


交互躍進が無い戦闘群式戦法?
戦闘群は、軽機班と小銃班は共に機動と射撃を行いながら交互に前進して行き(交互躍進)、最終的に小銃班が突撃を行うというのが基本的(理論上)な戦闘の経過である。(国によって違いがあるとは思うが)

*現代の "Fire and Movement" の説明は主に射撃開始から交互躍進を経て敵の位置に突入するまでの一連の経過、あるいは交互躍進のことを指しているという印象がある。
個人的には制圧班が制圧している間に機動班が敵に突撃を行うというような交互躍進がほとんど無い場合も "Fire and Movement" と呼んでいるが、もしかすると違うものかもしれないので、一応ここでは突撃直前に行われる交互躍進が無い "Fire and Movement" を扱う場合は「突撃時のもの」として便宜上区別しておこう。

これに対し、軽機班(前方散兵群)小銃班(後方散兵群)は共に前進するが、射撃は基本的に軽機班のみが行う。敵との距離が詰まるに連れて敵の射撃も熾烈となるから、こちらも敵の火力に負けないように小銃班の小銃手を徐々に軽機班に加えて(?)行って、最終的には1つの分隊となり、分隊全体で突撃。場合によっては、軽機関銃が制圧射撃を行い、他の分隊員が軽機の援護下に突撃を行う。というのが旧軍の分隊戦闘の経過である。

軽機関銃の援護下の突撃は、現状ひとまず2つのパターンが考えられる。
1つ目は、歩兵操典 第118の「一番」が指揮する前方散兵群の援護下、分隊長が指揮する後方散兵群が突撃を行うというもの。
2つ目は歩兵操典 第130の軽機関銃(教本では軽機射手のみに見える)を突撃に参加させずに制圧射撃を行わせ、その間に他の全分隊の兵が突撃を行うというもの。

旧軍の分隊戦闘は1つの群(前方散兵群)が徐々に火力を増加させながら前進し(射撃開始〜突撃準備)、突撃の前の段階では最大に近い火力を発揚し(突撃準備)、突撃時は火力を白兵力に転換、(参加していない小銃手がいればこれも加えて)分隊が持てる最大の白兵力で敵を粉砕するという方針であり、戦闘群の半分隊規模での交互躍進とは全く異なる形態となっている。


一応可能?な交互躍進("Fire and Movement")
前項の話は、旧軍の分隊は交互躍進が出来ないのではないか?という話だったが、一応旧軍の操典の方針でも交互躍進を行うこと自体は可能だと思われる。

歩兵操典詳説』や『歩兵教練の参考』の記述からすると、歩兵操典 第118の「状況に依り一番をして一時前方に在る散兵を指揮せしむることあり」という条文は、比較的突撃に近い時期を想定しているようにも思えるが、歩兵操典 第118の記述は時期に関して特に制限を加えていないので、実際には射撃開始〜突撃準備までの期間にも適応されていると解釈することができる。

例えば、敵前500mといった地点から地形を利用すれば終始敵の射撃を受けず前進可能で、上手くいけばそのまま突撃まで行える可能性がある。という状況が存在したとする。
この時、分隊長が前方散兵群の指揮を「一番」に任せ、自身は後方散兵群を率いて隠れながら前進し、敵に突撃を敢行した方が有利だと判断しても、おそらく歩兵操典の精神に反することは無いため、この計画を分隊長が採用したとしても何らおかしなことはない。

実際にこの計画を実行に移し、前進の途中で運悪く後方散兵群が敵に発見されても、後方散兵群の指揮官は分隊長であるから当然射撃も移動も可能である。
分隊長不在時の前方散兵群の指揮を執る「一番」は、射撃と移動の指揮をとることが許されているため、前方散兵群として独断的に射撃と移動を行うことはできる。(事前に分隊長が自身の計画を伝えたり、ある程度の指示を出すので、それから逸脱しない範囲内であればある程度自由に指揮を執ることが可能)

前方散兵群は「一番」、後方散兵群は分隊長。という形態であれば2つの群がそれぞれ独自に戦闘を行うことができるので、途中で分隊長が前方散兵群の方へ戻ったりしなければ、射撃開始から突撃まで一般的な戦闘群の "Fire and Movement" を再現することも可能である。
あるいは、分隊長が頻繁に前方・後方両散兵群を行き来すれば、交互躍進のようなものが成立するかもしれない。実際には色々な形態ががあったと思う。
(分隊規模の戦闘は「戦闘法の定型」といった「マニュアル的な戦闘法」の情報が主に出回っている。反対に「実際はこのような動作・戦闘をしていました」という情報は少なく、結果、資料不足から抽象的な事しか言えないのが心苦しいところ)


小銃手の価値
旧軍が戦闘群式戦法を導入する前の疎開戦闘方式(軽機関銃分隊と小銃分隊による交互躍進)の時点で、専ら軽機関銃が射撃を行い、分隊の小銃手が射撃をせず、突撃のみ行った。という戦闘もあったようである。

九 第一線中隊は攻撃間軽機関銃及小数の小銃兵を以て敵を制圧し小銃兵の大分は地形を利用して前進せし状況なるを以て将来は狙撃兵を訓練し軽機関銃も一小隊三挺とし小銃兵は突撃直前に射撃し白兵を以て突撃し敵を破摧するを必要(と)す

歩兵第32連隊 第1大隊 熱河作戦南天門附近戦闘詳報 昭8.4.19~8.5.1、第8 本戦闘に於て経験せし事項並将来に関する意見
(JACAR:Ref.C14030367700)

昭和12年歩操草案、昭和15年歩兵操典において小銃手をほぼ白兵専用兵力として位置付けたことから考えれば、これらの操典、草案が出る以前の時点ですでに軽機関銃と限られた小銃手が射撃を行い、大多数の小銃手は射撃をしない(しなくてもよかった)という状況が少なくなかった、あるいは常態となっていたと考えることもできる。
仮にそうでなかったとしても、歩操草案と歩兵操典が軽機と狙撃兵を中心に据えている以上、これらの編纂にあたって火戦は軽機関銃と狙撃兵の火力のみでもある程度なら対応が可能だと判断されたということは間違いない。


まとめ
旧軍式戦闘群式戦法は、編成の面からみると戦闘群式の編成を採り入れて分隊に軽機関銃を導入し、火戦は軽機関銃と狙撃兵(前方散兵群)を中心に行うという方式。
小銃手(後方散兵群)は、軽機関銃と狙撃兵の火力で対応しきれなくなってきた時に逐次火戦に投入される火力増加要員、白兵戦用の兵員として基本的に分隊の後方に置かれる。

運用面では一般的な戦闘群式戦法と異なり、分隊内の2つの群による交互躍進("Fire and Movement")は限定的である。(不可能ではないと思われるので、状況によっては使われていたのではないかと思う)
後方散兵群(小銃班)は、火力増加要員、白兵用の戦力として積極的に火戦に参加させることを避け、分隊の後方に貯存される(白兵貯存の主義)。
後方散兵群は白兵戦用の兵たちの集まりだが、旧軍は分隊全員突撃主義(歩操第130)を採用しているため、歩兵操典の精神的には前方散兵群も白兵戦を行うことを求めている。
つまり、突撃までに前方散兵群後方散兵群は1つの分隊としてまとまる(1つの分隊へと戻る)必要がある。

そのため、小銃手は状況に応じて逐次火戦に投入されていく。(歩操第122)
そんなこんなで、突撃直前までに前方・後方散兵群という区分はほぼ消えて、言ってみれば分隊の全員が前方(後方)散兵群になっているという状態にあると思われる。
(分隊長が後方散兵群を戦闘群の機動班のように扱う計画を持っていた場合は、突撃直前の段階で前方・後方散兵群という区分を残しているか、突撃準備で突撃班としてまた区分し直すのかもしれない)

その後、小隊長が突撃の命令を下すか、分隊長が突撃の好機を発見すれば、分隊が一丸となって突撃を敢行する。
場合によっては軽機関銃(あるいは前方散兵群)が残置され、軽機関銃による援護下の突撃となる。

指揮に関して、基本は前方散兵群を分隊長が指揮し、後方散兵群は「指揮者」が指揮をとるという形態。
「指揮者」は射撃指揮をとることができず、基本的に散兵が敵の目に触れないように隠れながら移動するのを監督、誘導する程度。前方散兵群について行くか、分隊長に指示された方向や場所へ散兵を引き連れていくという「移動の指揮」が主任務。

後方散兵群を1つの戦闘単位(自由に移動も射撃も可能)として扱うには、分隊長が直接後方散兵群を指揮する必要がある。
この際、前方散兵群から指揮官(分隊長)がいなくなるため、分隊長に代わり「一番」が前方散兵群の指揮をとる。
前方散兵群は火力の根幹であり、火力の割合の大部分を占めるため、この指揮官は射撃の指揮も出来なければ都合が悪い。位置によっては射撃ができないということもあり得るから移動の指揮も許されていなければならない。
つまり、前方散兵群の代理指揮官である「一番」(いなければ軽機射手か?)は、射撃と移動、両方の指揮を執ることが許されている。(ただし、ある程度の方針は分隊長から指示されるため、完全な独断で運用できるわけでは無い)



それにしても、自分が頭の中で思い描いていた旧軍の分隊戦闘のイメージがまるっきり変わってしまった。
これらの解釈が正しいのか正しくないのかはともかく、こういった考えが今になって出てくるということは基礎中の基礎である歩兵操典の読み込みすら不十分だったということか。

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