2016年8月10日水曜日

戦傷戦死

戦時衛生勤務研究録(陸軍軍医団,1927)、軍陣外科学教程(陸軍軍医団,1940)を中心に各記述を項目ごとに抜粋、カナを平仮名に、送り仮名等を追加するなどしてまとめたもの。
統計の数字等は各書籍の編纂当時のものであるため、現在一般的な数値とは違う場合がほとんどなので注意。


損耗統計
戦役及国軍 平均
兵員[1]
戦役
月数
戦死 傷者 傷死 病者 病死
西南役 官軍 45,819 9 4,653 11,615 1,976 5,834 1,203
日清役 皇軍 80,442 19 977 3,973 362 114,734 18,532
北清役 皇軍 10,459 13 267 918 87 6,772 909
日露戦 皇軍 373,978 26 46,423 153,623 9,232 245,357 21,559
クリミヤ戦 英軍 45,000 27 2,755 18,283 1,847 144,390 17,579
仏軍 99,000 27 8,250 39,868 9,923 361,459 59,273
伊太利戦 仏軍 130,302 13 2,536 17,054 2,962 112,476 13,788
米国南北戦 北軍 492,369 62 44,238 284,055 34,849 6,170,779 160,778
独丁戦 独軍 46,000 9 422 2,021 316 26,717 310
普仏戦 普軍 280,000 3 2,553 13,731 1,455 64,191 5,219
独仏戦 独軍 815,000 12 17,255 99,555 11,023 480,035 14,904
露土戦 露軍
ドナウ軍
529,085 28 11,905 43,386 4,955 875,929 45,969
露軍
カウカサス軍
246,454 28 5,000 13,266 1,869 1,184,757 35,572
米西戦 米軍 ? 12 643 4,276 325 ? 5,438
南阿戦 英軍 270,000 13 5,774 22,829 2,044 418,264 14,530
(大正7年軍陣防疫学教程, 附表第7より抜粋)

[1]某地に於ける某月の健康人員を算出するは、月初より月末に至る日々の人員を累加し、所謂延べ人員を得て、之を其の月の日数にて除し、1日平均人員を算出し、之を某月の健康人員と名付けたり。
全戦役間の1日平均健康人員を算出するに二法あり。
一つは各月の健康人員 各月の1日平均人員 を合算し、月数を以て之を除し、一つは日々の健康人員 即ち各月の延べ人員 を合算し、日数を以て之を除するにあり
甲は乙に比し稍正確を欠くを以て、人員表には繁を忍びて乙法に因れり。(C13110332300)
おそらく本表の平均兵員は全戦役間の1日平均(健康)人員。
日清戦争の数字から見ると、どうやら内地等の人員を除いた、戦地にある人員に限定したものである様子。(参考⇒C13110332400)




期間損耗率
戦闘に因る損害の観察に二種あり。即ち、某戦闘に限るもの〔会戦(又は戦闘)死傷率〕及び、戦役の期間を通するもの(期間損耗率)是れなり。共に衛生企画の基礎となり各其の利用の途を異にせり。
(昭和2年戦時衛生勤務研究録, pp.4-5)

日露戦 日本軍 自1904年2月
至1905年9月
3.7%
欧州大戦 独軍 自1914年8月
至1918年11月
3.3%
仏軍 自1914年8月
至1918年7月
5.0%
英軍 自1914年8月
至1918年11月
4.4%
露軍 自1914年8月
至1918年2月
6.0%
(同上, p.19)


戦闘死傷率
日露戦役奉天会戦の死傷は70,065名にして戦闘人員に対し26.5%に当たるも、之を更に軍内に就いて観るときは区々にして其の二、三を掲ぐれば左の如し。

死傷 - - 歩兵連隊最大 1日最大
第2軍
21,669
(30.73%)
第3師団 4,779
(37.21%)
1,179 1,179
第4師団 3,358
(21.49%)
1,296 490
第5師団 5,777
(45.90%)
1,257 786
第8師団 5,454
(37.29%)
1,202 667
第3軍
18,578
(36.12%)
第1師団 3,906
(35.11%)
914 567
第7師団 4,607
(42.72%)
917 536
第9師団 6,220
(56.33%)
1,330 507

欧州大戦間の戦闘死傷率の状況左の如し。
(軍) 軍団 師団 騎兵師団 歩兵連隊
仏軍
(Troussaint)
10-15% 15-25% 25-30% - 30-60%
独軍
(Straub)
10-15% - 25-30% 10% 40-60%
(昭和2年戦時衛生勤務研究録, p.5)

戦闘死傷率は戦闘の状況により自ずから差異あるも概して増加の傾向あり。

日露戦
(日本軍)
南山戦 11.1%
得利寺戦 2.9%
遼陽戦 18.2%
沙河戦 14.3%
黒溝台戦 9.1%
奉天戦 26.5%
旅順戦 第一回 25.0%
第三回 28.0%
欧州大戦
(仏軍)
エーヌ戦 23%
ソンム戦 25%
アルトア・シャンパニィ戦 26%
マルヌ戦 32%
ウェルダン戦 23%
1918年攻勢 38%
同 防勢 18%
(英軍)
ソンム戦 27%
アラス戦 23%
フランダー戦 27%
(同, p.9)

往時、武器の発達せざる時代に於いては、敗者の損害は必ず勝者に倍する多数なりしも、近代に在りては損害の多寡必ずしも勝敗に一致せず、損害なきものより全滅に至るまで種々の程度ありと雖も、一般に昔は激戦多く、七年戦争にては43%、ナポレオン戦争中に47%に達したることあるも、その後漸次減少して独仏戦争に在りては20%を超えたる事なし。
日露戦役にては、奉天附近に於いて皇軍26.5%、露軍28.5%、旅順第三回総攻撃及び二龍山攻略の際、皇軍は28%の損害を受け、金州及び南山附近戦闘に於いては、露軍46%の損害あり。最も少なき損害は大石橋に於ける皇軍2%、露軍3.9%にして、奉天附近会戦に於いて皇軍の最大損害数は一箇連隊にして、一日約2000の死傷を生じたることあり。(歩兵第三十三連隊)
欧州戦に於ける損害数は大略連合軍側2000万、独墺同盟軍側1200万にして、各戦闘の損害数は20-60%を算せり。
(昭和15年軍陣外科学教程, pp.113-114)

兵種別死傷率






















(‰)




219.9 83.8 76.8 15.5 30.8 34.3 - 2.0 1.3




144.6 63.1 30.7 18.9 16.7 14.1 1.7 0.4 0.9

146.3 63.6 32.1 18.2 17.1 15.0 1.6 1.1 1.1








(%)

64.9 25.3 38.3 3.7 4.9


39.9 12.5 10.3 2.5 2.2

歩兵

機関銃隊



















(%)

55 31 16 10 8 6 5 4 2 1

46 1 7 6 6 8 8 5 3 1
(戦時衛生勤務研究録, p.15)

普仏戦役独軍の戦闘参与人員に就き、兵種別死傷率を挙ぐれば次の如し。
歩17.1%、砲7.7%、騎5.2%、工2.0%、衛生部0.3%

日清戦役皇軍に於いては、
歩15.6%、工7.7%、砲5.4%、騎5.4%

日露戦役に於ける皇軍各兵種戦闘参与人員に就きては、
歩14.6%、工6.4%、野砲3.2%、衛生1.8%、要砲1.7%、騎1.5%、憲0.2%、輜0.2%、獣0.1%、経0.1%

同役露軍に於ける下士官兵の損傷率
歩39.9%、騎12.5%、砲10.3%、工2.5%、護境兵2.2%
(軍陣外科学教程, pp.123-124)

階級別死傷率
将校 下士卒
日露戦 日本軍 11.83% 8.83%
欧州大戦 独軍 49.00% 52.00% (Schwiening)
露軍 74.00% 56.00%
(1916年7月リガ戦闘第6軍団)

将校 下士卒
死:傷 死:傷
日露戦 日本軍 1:3.0 1:3.3
露軍 1:5.3 1:6.1
欧州大戦 英軍 1:2.6 1:3.0 (Somme戦)
伊軍 1:3.0 1:4.0 (Piave戦)
米軍 1:3.8 1:4.3
(戦時衛生勤務研究録, p.16)

階級の関係は一般に将校の死傷率は下士官兵よりも高きを常とす。
Berndt に依れば、7年戦争以後の将校死傷率は1000人中4-6人を算す。然るに、戦闘部隊の将校の数は2%を最大限とするを以て、将校の死傷率は下士官兵の2-3倍に達するものなりと云う。
日清戦役に於いては、死傷将校2.05%、下士官兵1.39%にして、将校は約1倍半に相当す。
日露戦役に於いても、皇軍は将校17.9%、下士官兵12.8%にして、将校は下士官兵の1.4倍に当たる。
露軍に於いては、将校は下士官兵の2倍前後に在り、戦死率も将校は下士官兵よりも多きを常とす。
(軍陣外科学教程, p.124)


創傷の種類
第百八 創とは皮膚の破れたる外傷を云う
第百九 創は血管、神経を損傷するが為出血、疼痛あるを常とす
第百十 創に切創、刺創、挫創、銃創、砲創、爆創等あり
第一 切創
第百十一 切創は鋭き物(刀剣、硝子片等)にて生じたる創なり
治療の目的にて身体に加うる手術創も亦切創なり

第二 刺創

第百十二 刺創は尖りたる物(銃剣、竹木の鋭端等)にて生じたる創なり、深部の臓器を損傷し又創を起こしたる物の破片、不潔物等を創内に残すことあるが故に外見の小さきに拘らず危険なるを常とす

第三 挫創

第百十三 挫創は鈍き物(衝突、転倒、打撲、重き物の落下、歯牙にて咬まるる等)にて皮膚の破れたる創なり、軟部の損傷甚だしく骨折又は内臓損傷をも兼ぬることあり

第四 銃創

第百十四 銃創は銃丸に依る創なり、其の形は銃丸の種類、射距離、射撃を受けたる部位等に従いて異なり、銃創を貫通銃創、盲貫銃創、擦過銃創に分つ
一 貫通銃創 射入口と射出口とを有するものを云う
二 盲貫銃創 射入口のみを有し体中に銃丸留まりあるものを云う
三 擦過銃創 銃創体の表面を擦過せるものを云う

第五 砲創

第百十五 砲創は砲弾、其の破片又は弾子に依る創なり

第六 爆創

第百十六 爆創は手榴弾、爆弾等に依り生じたる創なり、火薬の爆発に依る火傷を伴うことあり、不潔物にて汚さるること多きが故に危険なり
(衛生兵教程, 1932, pp.52-54)

戦傷の状態は、武器の進歩発達及び戦闘法の種類変革に依り著しく変化せり。
普仏戦に於いては、銃に於いて優り砲に於いて劣りたる為、仏にては砲創比較的多く25%に達し、独にては銃創多くして89%に達せり。
日露戦役に於いては、我は砲に於いて劣り、銃に於いて優りたるを以て、我は砲創増加し彼は銃創著しく多数なり。
日清戦役及び北清事変に於いては銃砲創の数相伯仲せしも、日独戦役に至りては砲創の数約2倍となり白兵創漸次減少し、爆創は手榴弾の為著しく増加せり。
一般に要塞戦には砲創及び爆創多く、野戦には銃創多きを常とす。
右諸戦役に於ける2、3の統計を挙ぐれば左の如し。
区分 銃創 (%) 砲創 (%) 白兵創 (%) 爆創 (%) 介達弾創 (%)
日清戦役(皇軍) 88 9 3 - -
北清事変(皇軍) 91 8 1 - -
日露戦役(皇軍) 80 17 1 (2) 2
日独戦役(皇軍) 37 51 - 6 6

又、欧州大戦に於いては英国陸軍医務局長 Goodwin の調査に依れば、
銃創 (%) 砲創 (%) 白兵創 (%) 爆創 (%) 介達弾創 (%)
欧州大戦(英軍) 25 75 - - -

仏軍陸軍軍医総監 Mrgnon の調査に依れば、
銃創 (%) 砲創 (%) 白兵創 (%) 爆創 (%) 介達弾創 (%)
欧州大戦(仏軍) 21 79 - - -

日露戦役に於ける皇軍全戦傷者を野戦及び要塞戦に分ては其の創傷百分比例左の如し。
銃創 (%) 砲創 (%) 白兵創 (%) 爆創 (%) 介達弾創 (%)
野戦 84.4 14.2 1.0 0.4 -
要塞戦 67.7 23.5 0.8 8.0 -
(軍陣外科学教程, pp.117-118)

銃創 砲創 その他
日露戦 日本軍(%) 80 17 3
露軍(%) 銃砲創 その他 白兵創
98.35 1.65
銃丸 弾片 弾子 斬創 刺創
75 14 11 21 79
銃創 砲創 その他
日独戦 日本軍(%) 37 57 6
欧州大戦 仏軍(%) 23 75 2 (1914年)
11 56 33 (1917年) (Toubert)
15 54 31 (1918年)
英軍(%) 20 75 5 (Goodwin)
小銃 榴弾 榴散弾 瓦斯 手榴弾
米軍(%) 13.31 12.48 23.68 49.85 0.68
匈牙利軍(%) 70-75 8-10 20-22 (セルビア戦場)
22 50 20-22 (伊太利戦場)

露軍、イキユスキュール橋頭堡に於いて歩兵1連隊、野砲1大隊は独軍の瓦斯攻撃を受け30%の損傷を生ぜり。
又、米軍の入院患者の33%は毒瓦斯中毒者なりき。
又、1918年4、5月リド・フランネ防御戦闘に於いては後送患者中32%は毒瓦斯傷者にして、モンヂチアーノのワイヨン攻撃戦には30%を生ぜり。(仏 Toubert)

米軍の蒙りし毒瓦斯の種類
塩素 ホスゲン イペリット ヒ素 不明
2.61% 9.69% 39.28% 0.82% 47.61%

毒瓦斯死
英軍 仏軍 米軍 独軍
自1918年9月
至同 12月
1918年1月1日
同 9月30日
2.2% 2.8% 1.8% 3.0%
(戦時衛生勤務研究録, pp.13-14)


戦傷部位
上肢 下肢
日露戦 日本軍 野戦(%) 17.2 1.8 17.8 9.7 27.7 25.8
要塞戦(%) 24.7 1.8 15.4 10.4 24.2 23.8
脊柱 上肢 下肢
欧州大戦 仏軍(%) 16 2.6 12.0 4.0 34.0 33.0 (Tuffier)
15.5 3.2 9.8 4.5 31.6 35.8 (Toubert)
上肢 下肢 その他
米軍(%)
(陸軍省医務局)
13.46 2.22 3.36 25.39 3.86 21.12 27.25 3.32
四肢
英軍(%) 10-20 5-10 6 60 (Goodwin)
骨盤 四肢
独軍 30
射創
29
刺創
1
25

肺射創
9
脊髄射創
5
5 3
射創
2
刺創
1
6 70
下肢
41
上肢
26
上下肢
3
(Von Baumgarten)
(戦時衛生勤務研究録, pp.14-15)

日露戦役に於ける皇軍の全戦傷者の受傷部位百分比例は概ね左の如し。
頭部 頸部 胸部 腹部 上肢 下肢
27% 2% 17% 10% 23% 21%

欧米5戦役(クリム戦、伊太利戦、南北戦、独丁戦及び独仏戦)に於いては、部位別比例に依れば下肢、上肢、頭部、胸部、腹部、頸部の順序にして、概ね一致するを見るも、クリム戦の英軍及び日露戦役の皇軍は頭首多くして下肢少なし。
欧州大戦に於いても胸部以上の損傷著しく増加せり。要塞戦の多きと塹壕戦に於ける地物の応用及び伏姿等の関係に因るものと認めらる。
日露戦役に於いて要塞戦と野戦とを比すれば、要塞戦に頸部の増加、下肢の減少著しきを見る。
猶、日露戦役に於ける皇軍傷者の入院したるものに就き部位別百分率を見るに、

頭部 頸部 胸部 腹部 上肢 下肢
19% 2% 14% 8% 30% 27%

にして、従前の戦役に比し頭首の比例最も増加し、胸腹之に次ぎ下肢に於いて著しく減少せり。
(軍陣外科学教程, pp.116-117)

戦傷の重軽
日露戦 日本軍 重傷 20% 貴重内臓損傷 骨血管損傷
(13+7=20)
欧州大戦 独軍 24% 1917年
匈利軍 25% U. Suepsy
仏軍 20% 1917年エーヌ戦
米軍 29% (Pershing) 20% (1917年マルメイゾン戦)
平均 25% Gaston Bodart

傷者中、微傷にして留隊する者あり。後送傷者中より除かざるべからず。
日露戦 日本軍 9% 露軍 8.27%
欧州大戦 仏軍 5% Troussaint
独軍 3.8% 1915年
英軍 10%
(戦時衛生勤務研究録, pp.12-13)

重傷及び軽傷に関する統計少なからざるも、標準確実ならざる為、実際上価値少なし。
H. Fischer に依れば、

クリム戦 仏軍 軽傷 69.6% 重傷 30.3%
同 英軍 67.7% 32.3%
南北戦 70.6% 29.4%

にして、平均30%内外の重傷者あり。
日露戦役皇軍入院傷者損傷部位比率左の如し。
頭部 穿透創 3.2% 42.9%
非穿透骨血管神経損傷 1.5%
顔面 骨及び器官損傷 3.9%
頸部 器官損傷 0.9%
胸部 穿透創 6.1%
非穿透骨血管神経損傷 0.9%
腹部 穿透創 3.0%
非穿透臓器、骨、血管等の損傷 0.8%
四肢 大管状骨損傷 9.8% 22.0%
大関節損傷 6.4%
指趾骨損傷 5.7%
神経血管損傷 1.6%
全身単純軟部損傷 57.1%

欧州戦役に於いても、軟部射創は全収容傷者の60%内外を占め、其の中3分の2は四肢に在り。
四肢骨射創は全射創の5分の1にして、其の4分の3は大管状骨とす。

各種臓器組織損傷の死亡率は次の順序とす。
1 腹部穿透 68%
2 頭部穿透 65%
3 頸部器官 20%
4 胸部穿透 15%
5 腹部非穿透臓器 10%
6 顔面器官 6%
7 四肢血管神経 5.7%
8 四肢骨 3.5%
9 胸部非穿透骨血管等 3.0%
10 四肢関節 1.3%

重傷を狭義に解して、直接生命の危険甚だしきもの(前表第5以上)を採るときは13%となり、之に重き血管損傷及び骨折を加うるも20%に過ぎず。
又、重傷を広義に解して、単純軟部射創及び指趾骨損傷を除きて、他の全部を採るときは37%となり、更に各部に於ける軽き骨神経損傷等を除けば比較的重傷と称すべきは概して全傷者の3分の1と解すべし。
(軍陣外科学教程, pp.119-121)

多創(複創)
戦場の於いては、1人にして2箇以上の創傷を被る者少なからず。一回に数創を被り、または数回負傷することあり。
普仏戦独軍死傷者の約半数(64,877人)に就き、 G. Fischer の調査せる所に依れば、
単創 58,893 即ち 90.9%
2創乃至34創
内 2創 5,100
5,984 同 9.1%

日清戦役皇軍死傷者(4,416人)中、2創以上を被れる者は430にして、9.7%とす。(死者9%、傷者9.9%)
日露戦役収容傷者に就き精査するに、多創者の比例は著しく増加せり。
単創 77.1%
2創以上 22.9%
武器と多創との関係は武器の種類により(る)も、その精巧進歩の度に関すること大なり。
日露戦役傷者に就いては、
区分 単創 2創以上
銃創 79.4% 20.6%
弾子創 82.0% 18.0%
破片創 77.4% 22.6%

日露戦役露軍に於ける多創者は、Fischer 及び Schäfer によれば左の如し。
区分 歩兵 砲兵
銃創 17.6% 23.9%
弾子創 16.7% 17.8%
砲弾破片創 12.0% 17.5%

猶、Schäfer に依れば、傷者31,391人中1905年夏再び戦線に在りし者 8,030人を算し、その一回1創79.8%、一回多創7.9%、二回以上負傷12.3%なりと云う。
狙撃兵連隊の癒後再傷者は13.5%にして、最も多きは22%に達し、多創及び再傷者を通算するときは50%に達するものあり。
多創中著しきものは、摩天嶺にて戦死せる Keller 将軍にして、31の弾子創と5の破片創とを受け、猶将校にして18の銃創を受けたる者あり。
多創者の比例は戦況地形の影響を受くるのみならず、軍隊の志気旺盛なる時に多し。傷者と創傷数との比もまた複創の増加に依り変化せり。
日清戦役には傷者100に就いて創傷数111なるも、日露戦役にては130に達せり。
(軍陣外科学教程, pp.121-122)


戦傷転帰率
戦傷の転帰は各国により其の標準を異にし、這回欧州大戦の如き戦期の長き時にありては兵員需要の関係上、また其の趣を異にすることを弁ぜざるべからず。
戦地治癒 戦地死 内地治癒 帰郷療養 内地死 除役
日露戦 日本軍(%) 11.7 5.9 38.1 27.7 0.8 15.8
露軍(%) 50 3 後送 26.4 20.6
戦線復帰 長期加療 廃疾
欧州大戦 仏軍(%) 85 3 12 (Troude)
79 (Toubert)
治癒 97.6 重なる影響なきもの 82.2
不具または重要なる解剖的損失あるもの 4.6
重要なる機能減少を胎すもの 13.2
勤務可能 勤務不能 死亡
独軍(%) 83.3 9.3 7.4
再出征 72.1(Schwiening) 70.0(Körte)
戦線復帰 軽易軍務 廃疾
墺軍(%) 60 20-30 10-15
勤務に堪うる者
(快復期のものを含む)
死亡 廃疾
英軍(%) 95 0.86 4.14 (1916年調)
米軍(%) 治癒 70.77 (W. Ireland)

純減耗たる死亡、又は廃疾を10%と仮定するは獨逸参謀本部の計算にして、フライハッタ、フォンローリングホーヘン将軍著『世界大戦ノ教訓』中にも同率を採用し、ガストン、ボタルト『古今戦役ニ於ケル損傷』中にも10%(全然兵役に堪えざるもの 2%、就職不能のもの 8%)を挙げたり。
欧州大戦に於いて各国軍中、治癒と見做すべき戦線復帰、又は勤務可能者の率、比較的高きは(1)戦況の固定せしこと多きと(2)衛生機関の完備せしと(3)自動車等の活動により傷者の収容迅速に行われしと(4)治創術の進歩と(5)矯正外科の発達に帰せざるべからず。
傷者収容の迅速なりし例を挙げれば左の如し。
独軍に於いて腹部射創は10-12時間以内に手術を行われたり。
英軍に於いて腹部射創の大多数は負傷後9時間以内に収容せられたり。
仏軍に於いて塹壕内にて負傷したる後、35分-40分の間に既に病院手術台上に横たえられたる負傷者数名ありたり。(Stephenthron)
米軍の1917年マルメイゾン戦に於いて病院中心地帯は戦線後12-15吉米にあり。早きは負傷後2-5時間にて後送せられたり。
(戦時衛生勤務研究録, pp.16-18)

毒瓦斯中毒者の転帰
1. 仏軍の独軍黄十字弾イペリットによるもの 13158(内死143)
原隊復帰
30日以内 65% 1917年ウェルダン戦間
45日以内 13%
60以内 35%
70日以内 17%

2. 米軍毒瓦斯治療日数
クロール 53.5日 平均 54.34日 米軍戦史第14巻
ホスゲン 44.7日
イペリット 62.55日
混合ガス 67日
(同上, p.19)

此の成績(※戦傷治療成績)は戦線復帰者の数、治癒率、除役率、死亡率及び創傷伝染病の数等を以て窺うを得べし。
入院傷者の死亡率は前述(※後段の傷死率を参照)の如く、日露戦役の皇軍に在りては独仏戦、独軍の約2分の1、日清戦役皇軍に比し約3分の2となり、欧州戦役に在りては日独戦役(5.5%)の約半数2.5%に減少し、破傷風、丹毒、蜂窩織炎、敗血症、膿毒症等の創傷、伝染病も著しく減少せり。本病は日露戦役に在りては全傷者の0.76%にして、独仏戦(8.7%)の約10分の1、日清戦役(2.1%)の約3分の1なり。
欧州戦役に於ける創傷、伝染病の員数は明らかならざるも破傷風は1916年以来殆ど消滅するに至れり。予防注射(大量反復注射)の効に帰すべし。
戦線復帰者の数は、日露戦役に於いて露軍 Schäfer に依れば、22%ー。Brims に依れば45%なりしと云う。
欧州大戦に在りては、戦争の長期に亙れると治創上の進歩の関係に因り著しく増加し、Mauclaire は55%と云い、Goodwin は60-75%とし、Boatier は75-80%となし、Troude の如きは85%なりと報告せり。
治癒率は日清戦役90.9%、日露戦役94%にして、日独戦役には94.5%となり、欧州戦役にては97.5%に増加せり。
除役率は日露戦役皇軍13%にして、日清戦役(21%)に比し約3分の2に減少し、日独戦役にては15%となれり。欧州戦役にては Franz に依れば独軍の傷者250万人の中、1918年3月までに83.3%は勤務に堪うるに至り、9.3%は除役、7.4%は死亡せり。猶、19,854人の白兵創中、92.7%は勤務に堪うるに至り、5.5%は除役、1.8%は死亡せり。
之を普仏戦役の成績に比すれば、勤務に堪うるに至りし者の数は不明なるも、死亡率は11.9%より7.4%に下り、治癒率は88.0%より92.6%に上れり。
Marclaire によれば、不具廃疾15%、重傷除役見込み17%にして、Traude 氏によれば不具廃疾12%、重傷除役見込み3%、合計15%なりと云う。
創傷療法著しく進歩せるにも拘らず除役率の比較的多きは創況一般に不良なりしに因る。
(軍陣外科学教程, pp.125-126)


戦傷治療日数
治療日数の多少は衛生機関の施設に影響する所大なり。
平均1人 戦地 内地
日露戦 日本軍 89.9 19.7 70.2

入院傷者の82.55%は内地に還送せられたり。
戦地に於ける治療日数区分概ね左の如し。
隊包帯所
包帯所
野戦病院
野戦予備病院
兵站病院 占領地
兵站病院
海上輸送
日露戦 日本軍 1.5(日) 6 6 5 2
兵站管区治療 内地還送
欧州大戦 英軍 70% 30%
匈牙利軍 60-65% 30-35%
仏軍 治療日数 1914年 最小 32日
1916年 最長 67日
1917年 平均 28日

回復者90中3分の2は平均1箇月以内に戦地に復帰し、3分の1は平均5箇月(最大7箇月、最小2箇月)内地にありたり。(Toudert)
(戦時衛生勤務研究録, p.18)

戦死率
戦死とは、戦場即死及び衛生機関に収容前死亡したるものを云い、重傷を負い、入院後死亡したるものは通例傷死と称し、傷者中に算入す。
(軍陣外科学教程, pp.114-115)

日露戦 日本軍 欧州大戦 仏軍 独軍 匈牙利軍 英軍
23.2% 22.2% 26.0% 25.0% 20.0%

戦死率に就き留意すべき点を挙ぐれば左の如し。
1、戦闘の劇易 戦闘劇しければ戦死者多し
西南戦 28.6% 日清戦 19.7%
2、多創(複創) 多ければ戦死者多し
普仏戦 9.2% 日清戦 9.7% 日露戦 18.2%
欧州大戦(1917年エーヌ戦)仏軍 20%
(1917年マルメイゾン戦)米軍 20%
3、頭部の損傷 多ければ戦死者多し、戦地即死者の死傷部位左の如し(日露戦)
頭首 上肢 下肢
銃創(%) 58 32 30 36 23 0.5 1.8
砲創(%) 43 27 27 35 15 2.2 4.1

欧州戦に於いて仏軍は軍兜採用以来、頭部の損傷を免れしもの9%に達せり。英軍に於いては頭部損傷は15%を占め、塹壕戦を除外すれば25%なりしが、軍兜使用以来頭部貫通射創は0.5%に過ぎず、また一般に頭部損傷は1%のみなりと。即ち、軍兜の頭部損傷を予防し得ることを知るべし。

4、士気 旺盛なれば戦死率増多す。即ち、死を懼れざる素質の軍隊には戦死者多し
我が国軍に戦死率の高きはその素質の外国軍と異なるによる
5、収容の難易 戦闘日数の長短は傷者収容の難易を来たし、収容の難易は戦死率の高低に比例す
平均戦闘日時 戦死率
独仏戦 9時間 14.8%
日露戦 5日7時間 野 戦 4日15時間
要塞戦 6日5時間
23.3%
(昭和2年戦時衛生勤務研究録, pp.10-11)


傷死率
傷死率とは、衛生機関に収容後負傷の因をなして死するものにして、其の趨勢左の如し。

西南戦 日清戦 日露戦 日独戦
17% 9.1% 6.6% 5.5%

欧州大戦 1914年 1915年 1916年 1917年 1918年
独軍(%) 12 10 8 7.5 3.2
仏軍(%) 前方機関 - - 4.16 5.12 7.36
後方機関 - - 7.18 0.73 1.29
米軍 6.11% (W. Ireland) 6.4% (Ayres)
英軍 8.4% (1921年調)
白軍 6.4% (Voncken)
重傷中 16.0%
軽傷中 4.0% (G. Bodart)

即ち、傷死率は収容の遅速と創傷療法の適否の他、兵器に関する所少なからず。
(戦時衛生勤務研究録, pp.11-12)

傷死率は戦死率と反対に漸次減少するを見る。
即ち、クリム戦役に於ける仏軍は25%、独仏戦役には12%にして、露土戦以前は何れも10%以上を算するも、日清戦役以後は9%以下にして、日露戦役には6.6%、日独戦役には5.5%に逓下せり。
傷死率の減少は、主として軍陣外科学の進歩に帰すべきも、猶小口径弾の効力は即死せしむること鉛弾と大差なきも、一般に軽きもの多き事実も亦之に関与す。(日露戦役に於ける露軍の治療成績良好なるは、主として日本小口径弾(6.5mm)の恩恵なりと云うべし)
戦死と傷死とを合して全死傷者に比したるものは総死亡率、クリム戦仏軍及び西南戦役及び露土戦に於いては40%に達し、米西戦にては20%なるも、多くは24-30%の間に在り、此の総死亡率は今日に於いても昔日と大差なし。
(軍陣外科学教程, p.115)

戦死と戦傷の比
戦役名 - 死:傷
日清戦 日本軍 1:4.0
日露戦 日本軍 1:3.5
欧州大戦 英軍 1:4.0
仏軍 1:5.0
独軍 1:2.75
墺軍 1:4.25
米軍 1:4.6

独軍兵学家 Weder は、死と傷との関係を1と4なりと仮定したりしが、大戦の実蹟は死者の率稍々高きが如し。
(戦時衛生勤務研究録, p.11)

従来、欧州に於ける大戦役の統計は戦死と戦傷との比、即ち戦死率1対5乃至6なりしも、近代戦にては戦死率増加せり。[1]
之、輓近に於ける火器の進歩、多数創の増加等、其の主要なる原因と認めらるるも猶戦列兵の国民性に依り、或いは地形に依りて同じからず。戦闘激烈なる時は死者増加するを常とす。
西南戦及び南北戦の戦死者多きは此の理由に因るものとす。
(軍陣外科学教程, p.115)


我が国に於ける明治10年以後の戦役事変にて生じたる戦傷者の員数を挙ぐれば左の如し。

区分 戦死 戦傷 合計 戦死と戦傷との比例
西南戦役 4,653 11,615 16,268 1:2.5
日清戦役 977 3,973 4,950 1:4.1
北清事変 267 918 1,185 1:3.35
日露戦役  46,423  153,623 200,046 1:3.2
日独戦役 408 1,521 1,929 1:3.2
満州事変[2] 2,485 7,720  10,220[3] 1:3.1
平均      1:3.2
(同上, p.114)

[1]軍陣外科学教程の書き込みには「一対三-四」とある。
[2]満州事変の戦傷者数は書き込みによる。
[3]おそらく戦死者を2500名とした合計値。

戦死と戦傷の比は出典の数値そのまま。
理由は不明だが、表中の数値から比を出すと表中の「戦死:戦傷の比例」の数値と合わない。参考までに北清事変は1:3.4、日露戦は1:3.3、日独戦は1:37という値になる。

0 件のコメント:

コメントを投稿