2015年10月28日水曜日

『萱島大佐実戦談摘録』抜粋 (二)

六、萱嶋支隊忻口鎮附近の戦闘

編成
歩兵第二連隊
戦車中隊
騎兵中隊
工兵中隊
輜重
砲兵は諸種の関係上、後送せらるる筈なるも、当時は附しあらず
参謀一、各部も小乍(なが)ら附す

5D司令部は太原北方原平鎮に在り、第5師団長の隷下に入らしめらる。大同迄は汽車輸送とし、大同より原平鎮迄は騎兵、戦車、大隊砲連隊砲の馬は徒歩行軍。其の他は自動車輸送に依り、途中敗残兵と戦闘しつつ、十月十八日より二十三日迄に原平附近に集結を了す。
第五師団は、当時迄に作戦七十五日、戦闘三十余回なり。行軍行程百有余粁にして、現役将校は殆ど戦死傷しあり。
第五師団将兵は、萱嶋支隊来たるの報に将兵の士気大いに揚がる。

戦況の概要
二十二日攻撃開始の筈なりしも、二十三日午前十時を期して攻撃前進を命ぜらる。午前十時とせるは、太陽の関係にて、其の時刻にあらざれば観測困難なるに依る。
萱嶋部隊は二十三日、栗原部隊の後方に至り、之を超越して攻撃。師団砲兵の主力を以って協力せしめらる。
夜に入り大隊砲、連隊砲は皆山地に担ぎ上げ第一線と同線に出す。甚だ困難せり。
此の夜一度、右翼方面に敵の逆襲を受けたるも大なる損害なし。
砲兵射撃を開始するや、新操典の方式に依り、各部隊は前進す。谷底に至り、敵の背射、側射を受く。
原位置に後退するの已むなきに至れり。

手榴弾巣山攻撃概況
手榴弾巣山を一中隊にて攻撃せしに大損害を蒙り、准尉以下二十五名となる。
敵の手榴弾投擲は甚だ巧にして、我が部隊の投擲距離に前進するや洞窟より背投に依り集中す。其の数も亦夥(おびただ)し。
某小隊長500迄数えたるも、其の後は数うる能(あた)わざりしと。
次いで、工兵中隊を以って坑道に依る攻撃を実施す。
萱嶋支隊の工兵中隊は坑道中隊にあらざるも、小隊長に坑道を極めし者ありしを以って、教育しつつ坑道作業を実施し、有効距離と思意せる処(敵の土地を打つ音聞ゆ五米位ならんと)迄接近し、爆破せしも失敗に終わり、第二回目も亦有効距離に至らず。敵は破裂口より「ノソノソ」登り来れり。
次いで、将校斥候の偵察に依り交通壕の入り口を発見せしに依り、歩兵の破壊班を以って遂に之を奪取す。其の要領左の如し。
第一班 将校の指揮する十二名 正面
第二班 下士官の指揮する十二名 右側
第三班 将校の指揮する十三名 左側
午後六時半を期し、一斉に突入す。第一班全滅、第二班は最初に飛び込みし下士官の外(ほか)全員死傷す。第三班は四、五名のみ死傷者を出せり。

教訓
1、手榴弾戦に在りては、最初に飛び込める勇者は多くは生存するも、後(おく)るるものは敵に準備の時間を与うるを以って戦死傷者多し。

2、指揮官の位置に蝟集(いしゅう)するの風は尚矯(た)まらず。本戦闘に於いても損害を受けたり。

3、軍艦山附近に於いて、敵の夜襲を受く。敵は迫撃砲を以って射撃せり。最初、兵は恐怖心より射撃せしも沈静せば、敵の夜襲を軽視し、沈着して行動するに至れり。

4、敵の迫撃砲の爆音は甚大にして、精神的威力は大なるも、命中効力は比較的少なし。後方部隊にして岩陰に依れる者は却(かえ)って損害を蒙りたり。

5、大平山攻撃に於いて、谷底に至るや俄然側射、背射を受け、二◯◯名の死傷者を出せり。戦闘に於いて、後傷は武士の恥辱なりしとして教育せしも、此の際は後傷を受くるに至れり。


『萱嶋大佐実戦談摘録』抜粋 (一)

本投稿はガリ版の資料と一緒に綴じられていた印刷物の転載である。
萱嶋大佐(恐らく後年中将となった萱嶋高)の実戦談の講話を文章化したもののようだ。
全文を採り上げるのは量的にも厳しいので、一部を省略した抜粋という形になるが紹介しようと思う。
昭和12年(1937)の太原作戦の話である。この時期は歩兵操典草案が配賦された頃の話で、草案の戦法に関する感想がほんの少し出てくる。草案が昭和3年の歩兵操典と比べてどうなのか、ほんの参考程度にしかならないが、こういった話は結構珍しいので今回紹介する次第である。

一、緒言

萱嶋大佐は支那事変に際しては、支那駐屯軍歩兵第二連隊長として当初、通州の警備に任じ、第二十九軍の歩兵大隊の武装解除を行い、南苑の攻撃に際しては、之に赴援参加を命ぜられ、其の退路を遮断したるも大なる戦闘を行わず。次いで、北寧鉄道の警備に任ぜられ、十月、萱嶋支隊を編成し、第五師団の忻口鎮、太原の戦闘に参加し、終了後士官学校に転任せられたり。大佐は自己の戦功に対しては極めて謙遜しつつ、努めて戦場の実想を明らかならしむる如く講話せられたり。之を整理収録したる為、真相の脱逸、聞き漏らし等なきやを恐る末、文章推敲の余地多きも、敢えて印刷に附することとせり。

三、通州の戦闘に就いて

萱嶋連隊は事変当初、通州警備の任を受け、天津より行軍(約二十五里)に依り、七月十八日朝、通州師範学校に到着す。
当時の編成左の如し
歩兵二大隊(各大隊は二中隊とMG一隊とす)
連隊砲一隊 …四門
第一大隊砲小隊 …六門
機関銃隊…八門
歩兵中隊…銃剣二◯◯(弾薬各自二七◯携行し、手榴弾を有す)
中隊はLMG分隊二小銃分隊二擲弾筒分隊一(二)
山砲二中隊
十五榴…二中隊
輜重……なし
大、小行李…支那大車を以って編成す

高粱(コーリャン)は、二,◯◯二,五◯米繁茂しあり
当時、軍司令官より八里橋以西には一兵も出さざる様厳命あり。
駐屯間、屡々(しばしば)29軍の武装解除を具申せしも容れられず。特務機関も亦楽観しあり。此の間、城壁攻撃及び高粱畑通過(方向維持)の訓練のみを行う。
萱嶋部隊は、通州駐屯支那兵の武装解除の後、明払暁(ふつぎょう)迄に南苑攻撃の為、其の東北角に進出を命ぜらる。
武装解除には約二時間を費やせり。

教訓
1、本部等に蝟集(いしゅう)するは大禁物なり
連隊長が戦闘開始前、要図(※要図は省略)の位置の城壁に上り敵情を視察中、連隊本部機関、命令受領者等多数蝟集せる時、支那迫撃砲三発を受け、一発は先ず左後方遠く。第二弾は右後方に落下し、大なる効力なしと考え居たる所、第三弾命中し、連隊副官、旗手、通信班長負傷し、兵一名戦死者を出すに至れり。

2、地物に蝟集せざること
兵に喧(やかま)しく注意せるも、尚十分ならず為に損害を蒙ること多かりき。

3、家屋及び囲壁に依る敵を攻撃するに方(あた)りては、大隊砲、連隊砲等を以って家屋及び囲壁を射撃することなく、其の前方に在る陣地を直接射撃するを要す
本戦闘に於いて、高粱繁茂しありし関係上、大隊砲は約六十米迄接近し、囲壁に突撃路を開き、突撃せり。其の命中は実に正確にして、家屋及び囲壁の崩壊する状壮観なりき。故に敵は既に逃走せりと思料せるに、地上の陣地に在りて抵抗せり。

4、手榴弾教育は兵をして、心手期せずして投擲せしむる如く訓練を要す
手榴弾教育には平素意を用い、内地部隊の三、四倍も多くの力を注ぎ、検閲にも十分注意し、之にて十分なりと思う程度に訓練せり。然れども、実戦に方りては、安全栓を抜くことを忘るるもの、発火を確認せざるもの等ありて不発多かりき。
又、日本軍の手榴弾よりも支那軍の手榴弾の精度良好にして、兵は好んで支那軍の手榴弾を使用せり。

5、戦闘中臨機に応じ、飛行隊にて規定せる空地連絡規定は其の効果絶大なり
(かね)て、空地連絡規定に依り連絡事項を定めあるも、戦闘間は対空兵の故障、布板を適宜携行しあらざる等、事故あるを以って、臨機飛行機より連絡規定を定めて、相互連絡するは大に効果あり。例えば、爆撃せよ、返事、爆撃不用等。

6、要点を占領せば、若干の守備兵を残置するを要す
要点を占領して、守備兵居らざるときは、何時の間にか敗残兵侵入しありて、後苦戦することあり。本戦闘、忻口鎮の戦闘又は追撃等に於いて屡々体験せり。

7、支那兵の一部は頗(すこぶ)る頑強に抵抗し、最後の格闘迄逃げざりき

8、鉄帽は気休めのものなりと思料しありしも、本戦闘に於いて支那兵と格闘せし際、支那兵は青龍刀にて我が兵の面を撃ち、我が兵は刺突をなし、相撃ちとなりたるに、我が兵は鉄帽に依り、単に瘤を生ぜしのみなり。又、南苑の戦闘に於いて鉄帽なき兵は多く戦死し、被れるものは助かりたり。


四、翌二十七日、保安隊と交代すべく取極めありたるも来らず。一時該地を引き上げ、守備隊の位置に帰る。
二十七日、夜行軍を以って南苑に至る。大車を以ってする大小行李を有せしを以って、六時間を要する距離を十二時間を要せり。
小コウ門に至るや、敵の退路遮断を命ぜられ、実に愉快なる戦闘を為せり。然れども、完全なる退路遮断の効果を揚ぐることなく、盧溝橋方面の戦況に依り豊台に前進を命ぜられ、夜十一時頃豊台練兵場に到着し、露営す。其の隊形は概ね陣中要務令に準拠して行えり。豊台には我が兵営ありて稍安心し居たり。
此の夜、敵約三◯◯名、東、北門より夜襲し来るも、遠方より大声を発し、盛んに射撃を行う等、威嚇的行動に過ぎざりき。
我が兵、これに応射し大声叱咤して制止するも、尚射撃せり。此の際、下士官一名負傷せるのみなり

教訓
1、大車を以ってする大小行李は、支那人の所有者之に附しありしを以って、敗残兵の為大混乱を生起せざるやと心配したるも、最後迄跟随(こんずい)し来れり。訓練せば支那人も使用し役に立つべし。

2、緒戦に於ける射撃は、兵は敵を見れば勝手に行い勝ちにして、将来十分注意を要す
南苑攻撃に於いて、敵の退路を遮断せし際、兵は「ソラ出タ出タ」とて、勝手に射撃し甚だ困惑せり。之がため、我二、三発の射撃に依り直ぐに引っ込み大なる効果を揚ぐる能わざりしも、幹部の制止厳命に依り誘引射撃を行い、大なる効果を収め得たり。

3、支那兵の夜襲は遠方より「ワイワイ」騒ぎ、威嚇的虚勢の夜襲なり。之が為、敵は多大の損害を蒙れり。又、紛に之に応射する時は、彼我の識別不明瞭となるを以って、指揮官の厳命に依り射撃を開始するを要す。


2015年10月26日月曜日

『皇軍史』による、旧軍の明治〜昭和の戦法・兵器概観

昭和18年(1943)発行の『皇軍史』(教育総監部 編)は、古代から現代(昭和18年)までの日本の軍隊に関することを概要的に記した書籍である。国民向けの書籍ではないためか、比較的淡々とした文調が続く。
ただし、精神教育の性質を帯びた書籍のように思えるので、読む際には注意が必要。

本書は、信頼性はどうかという点はひとまず置いておき、軍事に関する読み物としてはなかなか良い具合だと思う。
この書籍の各章末には、兵器や兵法等の概要的な説明がある。
古代や武士の時代はさて置き、明治以降の戦法や兵器等の概説部分を見てみよう。内容は非常に簡素、本当に概要を述べているだけだが、日本軍の近代戦法の変遷を見るのに良い資料となると思う。


(廿九) 兵学、武道等の概観
一、兵学

 明治維新と共に本邦戦術は再び開発の曙光を発するに至った。明治三年十月二日の布告を以って陸軍は仏蘭西式を斟酌(しんしゃく)編成すべきを命ぜられて、本邦戦術始めて一途に帰した。明治五年十一月に徴兵令を布き、翌六年四月始めて之に因りて兵を徴し、歩、騎、砲、工、輜重の諸隊を作り全国六鎮台を置き主として仏国歩兵操典に基き練習せられた。之が我が国操典採用の嚆矢(こうし)である。此くして諸鎮台の兵を錬成しつつあった間に萩、佐賀の乱、台湾征討等の諸事件があったが、一部隊の出動で其の指揮官たる将校は維新前の戦法、即ち本邦の古戦法に拠って戦をなした。西南の役にありては、維新以来初めての国難であり、国家の全兵力を動かし、当時の日本に取って大戦争であった。

 官軍の採用した戦法は千八百七十年戦前の仏国操典であって、実際戦闘を指揮した将校は古戦法を主とし、之に英、仏、蘭等の戦術の一端を学んだ所の士が多く、所謂短兵接戦を潔とする人達が勢力を有して居った。

 賊軍は名に負う薩摩隼人で而も新兵器に乏しいので多くは切り込みを主とする戦闘手段であって、全般から見れば此の戦役は小銃と大砲とを持ち洋装をした鎮台兵と、刀槍小銃を主とする薩南健兒との接戦であった。

 然し、賊軍が切り込みを主とするので官軍も結局抜刀隊を編成して之に当った。彼は薩南健兒、我は農民を主とする徴兵であるから、銃砲を以って遠くより敵を撃ち砕くを得策とし散開して敵に当り、特に包囲迂回を重んじ、先ず散兵を以って火戦に任じ、後方部隊が之に跟随(こんずい)して銃槍突撃を為し、砲兵は間接に援助するに過ぎなかった。然し乍(なが)ら地形の錯雑せると小部隊が各個に使用せられたので、結局此の戦役は古戦法の精神に洋式の着物を着けた様なものであった。

 其の後、明治二十四年迄は日本に独仏の応聘武官来り、就中彼の有名な「メッケル」は明治十七年から同二十年に亙(わた)って大に我陸軍の編成や戦術の改良にあずかった。之は主として首脳部や大学校の間に行われたが、軍隊は尚仏式を脱却せず、戦場では散開に次ぐ密集部隊の突撃を以ってするのであった。

 当時欧州に於いては無煙火薬が発明せられ、其の結果連発銃が採用せられて、歩兵戦術に一大革新を来し、従来の様に密集部隊は軽々に敵歩兵火の下に現出することは困難となった。

 偶々(たまたま)普国陸軍は歩兵操典を発布したので、今迄主として仏式を範として採用し来った我が陸軍は普仏戦争勝敗の原因を研究し、又其の後独逸の国威隆々たるものあるを見、且つ彼の「メッケル」の精到該博な兵学に指導せられた結果、我が典型として独陸軍を選び、明治二十四年に至り歩兵操典を改正発布し、鋭意訓練を積みて日清戦争を迎えた。当時の戦法としては、先ず我が砲兵を以って敵砲兵を求めて射撃し、敵砲兵の沈黙するに及んで我が歩兵の攻撃の衝に当る敵歩兵を射撃した。歩兵は敵前概ね七、八百米乃至千五六百米位で散開し、概ね六百米乃至千米附近で射撃を開始し、歩兵は交互に掩護射撃をして前進し敵に接近するに従い、逐次後方密集部隊を前方に増加し、遂に二三百米附近より敵に向かって勇敢に突撃したものであった。

 日清戦役の経験と、兵器の進歩と共に、明治三十一年に歩兵操典が改正発布せられたが、大体に於いて二十四年のものと大差無かった。
 此の操典に拠って、我が曠古(こうこ)の大戦、日露戦争は実行せられた。其の戦法に基いて愈々戦闘開始すると我が砲兵が敵砲兵を、圧倒沈黙せしむることは砲数弾薬等の関係上不可能なるのみならず、爾後歩兵の前進を支援することも頗(すこぶ)る困難で、開戦後間もなく歩兵は砲兵の成果を待つことなく前進することとなり、砲兵は適時射撃を以って歩兵を支援する所謂歩砲協調の意味に変わって来た。

 又歩兵は、敵前五、六百米で連発銃を以って射撃を開始すれば、敵は退却すると判断して居ったが、敵は名に負う防御力の強い露兵で二、三百米に迫っても容易に退かず、茲に頑強なる敵には最後の止めを刺す銃剣突撃を要したのであった。

 又旅順は容易に陥落せぬので海岸の要塞から二十八糎榴弾砲を卸して、攻撃に使用してよく旅順の死命を制し、又彼の第一太平洋艦隊を全滅したのであった。

 欧州第一次戦争当時、独逸軍が四十二糎の巨砲を使用して電撃一挙、白耳義(ベルギー)国境要塞を粉砕して敵の心胆を寒からしめたのと同様であった。
 斯くの如く日露戦争は砲兵に関して大なる変化を見なかったが、要塞攻撃や堅固なる陣地攻撃にて巨砲の必要を痛切に感ぜしめ、又如何に兵器が進歩しても、結局勝敗は士気旺盛なる歩兵の剣尖で決せらるるものであることが、今更世界に証明せられた。

 我が陸軍に於ては、日露戦争の経験に鑑み戦後間もなく三八式野砲、同加農、同榴弾砲を制定し、我が砲兵は茲に名実共に速射砲を有する事となった。次で小銃、機関銃も三八式が制定せられ、此の新兵器と戦後の経験とに由って、明治四十二年に歩兵操典が発布せられ、次いで騎兵、砲兵等の操典も改正せられ、茲に純然たる日本固有の戦法が定まった。即ち、軍の主兵は歩兵で白兵主義を採用し、戦闘は概ね散開隊形を以って終始するも、最後は肉弾と白兵に依る根本方針を定め、歩兵の運動は中隊毎に中隊長の号令を以ってすべきを定められ、歩兵連隊長は最後まで一部の兵を掌握し、軍旗と共に敵線に突入することを明示せられ、従って、歩兵の機関銃は至近の距離にて最も必要なる点に集中穿貫(せんかん)的効果を発揮し、肉弾の飛び込む穴を明けるを本旨とし、砲兵は先ず敵砲兵を求めて之を制圧撃滅に努め、歩兵が前進するに当たっては、歩兵に対する抵抗物を破砕するを主義となし、騎兵は大集団となりて会戦当初敵情捜索に任じ、彼我接近するに従い、両側(りょうそく)或いは一翼に退き、更に好機に乗じ、敵を脅威、急襲戦闘に参加し、或いは追撃に任じ、敵を殲滅し、或いは敵の追撃を拒止するを原則とし、工兵は諸般の技術工芸の進歩と共に築城に架橋に通信に運輸に、益々其の特色を発揮する様になった。

 以上の如く、我が陸軍の戦法は日本独特に形式と内容とを完備し、各隊営々として訓練に従事しつつ、明治を過ぎ、大正の御代となり、遂に世界大戦の時期に移り入ったのである。

 世界第一次欧州大戦に於ける欧州列強の陸軍は開戦当時、火砲は日本軍のものより幾分優れて居たが、小銃や機関銃等は凡優り劣りなく、飛行機の如きは極めて貧弱なものであった。日露戦争の日本軍と殆ど大差ない原則の下に戦争に入った。然し、戦争は西方に於いて間もなく陣地戦となり、軍人と云わず、学者と云わず、技術者と云わず、悉(ことごと)く脳漿を絞って敵に優る新兵器を発明し、昨の新も今の旧となり、夜を日に継いで偉力あるものを採用し、其の結果、戦争末期には歩兵は小銃より寧ろ軽機関銃を主兵器とし、之に加うるに重機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾等を以って自ら抵抗を排除し、遂に白兵を以って敵に最後の止めを刺さんとし、敵も亦同様の武装をして、彼処(あそこ)に一兵、此処に一銃と抵抗巣を設け、之を交通壕で彼我連絡して網状に編成し、其の中の要点々々に最も堅固なる拠点を作り、全陣地の奥行きは千米にも二千米にも及び、而も之が一帯でなく、本陣地の前方に警戒陣地あり、又後方には第二第三陣地帯があって、戦略的攻勢移転の拠点を形成するが如き、全くの面式陣地帯を構成するに至った。且つ又、戦場に於いては、毒瓦斯の放射、瓦斯弾の落下、或いは火炎放射器の猛火、飛行機よりする爆弾の投下等、真に此の世からの修羅場を現出した。遂に陸上戦艦とも称すべき戦車の出現を見るに至り、愈々隊形及び築城の疎開、交通の発達、軍制の革新等を来し、其の結果は戦略、戦術上に至大の影響を及ぼし、教訓と為す所尠(すくな)くなかった。

 我が国も世界大戦に際し、青島の攻略や「チェッコ・スロバック」軍救護の為、一部の軍隊を大陸に出したが、大戦はなかった。そこで我が陸軍は、主として欧州大戦の経験に基づき、国軍戦術の改善を図った。茲に典範令は着々革新せられ、大正十二年正月、歩兵操典草案発布せられ、国軍をして従来に於ける散開戦闘方式の旧套(きゅうとう)を脱して、新たに改正せられたる編成装備に応ずる新戦闘方式の端緒を開き、爾後、幾多の実験研究を重ねた結果、大正十五年、戦闘要綱草案を編纂配賦して、大に国軍戦術の研究進歩を促した。

 昭和の御代となって間もなく、従来研究せられつつあった操典草案も昭和三年に改正発布せられ、茲に遺憾なく国軍の特色を発揮し、国軍戦術上の要求に順応する諸兵種協同戦闘原則を確立し、翌四年に戦闘綱要の制定発布を見、尋(たずね?)て其の他の兵種の操典も逐次改正発布せらるるに至って、我が国軍の戦術上に一大進歩確立の礎石を築くに至り、最近更に作戦要務令を制定せられ、愈々茲に国軍兵学書としてその完璧ををなすに至った。

※参考:昭和3年歩兵操典から国軍の戦法が散兵線戦闘から疎開戦闘方式へと移行。昭和12年に歩兵操典草案が配賦され、戦闘群戦法への移行が始まり、昭和15年歩兵操典の改訂により、戦闘群戦法へ正式に移行。
(後略)


(三十) 兵器、築城、給養等の概観
一、兵器

 明治維新の朝敵征討に従事する官軍諸藩の採用せし主なる兵器は、小銃に於いて施綫口装(※ライフリング有り、前装/先込め式)エンピール銃(※エンフィールド銃)、底装のスナイドル銃等で、火砲に於いては口装青銅四斤の野山砲であった。其の後、エンピール銃を底装してスナイドル銃に改造し、交換支給するに至った。騎兵と砲卒にはスペンセル及びスターなる米国式底装騎銃を、歩兵工兵には、シャスポー銃(仏)を、騎兵、砲兵の馭者(ぎょしゃ)教育用として軍刀を支給せられた。

 明治十年の西南役当時は、薩軍は洋式銃のエンピール銃を主とし、各自持ち寄りのものが最も多く、官軍はエンピールが数多く、スナイドル銃を相当持って居って、八百乃至五百米突で相当の効力があった。

 火砲は仏国の四斤野山砲で、其の有効射程は二千米位であった。戸山学校教官 村田歩兵少佐、軍用銃視察の為欧米に派遣せられ、帰朝後、日本軍用銃を考案研究し、明治十三年に東京及び大阪に砲兵工廠成ると共に、此処にて日本軍用十三年式村田式銃の考案を完成した。底装金属薬筒を結束する尖頭鉛弾であって、十八年に一部改造して十八年式と称した。

 明治十四年に太田砲兵少佐を仏、墺、伊三国に派遣し、十五年帰朝後、大阪砲兵工廠に伊太利砲兵将校を聘して、鋼成銅造兵の技を伝え、底装七珊野山砲を製造し、榴弾、榴霰弾、霰弾を使用し、当時列国砲兵に比し遜色がなかった。

 科学の進歩は世界火薬の革命を起こし、無煙火薬現れ、列国競うて研究に従事した。我が国に於いても無煙火薬の研究を遂げ、連発銃考案成って、明治二十二年、遂に連発銃を製作し、銅製被甲の弾丸を金属薬筒に結束する弾薬筒十個を銃床弾倉に有する二十二年式村田連発銃を作った。

 日清戦役には、戦線の各隊は皆、村田歩兵銃を用い、兵站守備の後備部隊はスナイドル銃を、砲兵は七珊野山砲を用いた。

 其の後、村田連発銃は時代の要求に伴わざる疑ありて、製造を中止し、明治三十年、砲兵会議の審案の結果、三十年式歩兵銃並びに、三十一年式連射野山砲が現出した。銃は連発の最鋭なるもの、装脱式弾倉中に、ニッケル被甲の尖弾と無煙小銃薬を用うる弾薬筒五発を有し、列国と其の範を一にした。砲は列国と其の範式を異にして、其の威力を等しくした鋼砲で、榴弾、榴霰弾を用い、所謂有坂砲がそれであった。

 明治三十三年の北清事変の時が、三十年式銃三十一年式砲は製造中で、村田連発銃七珊野砲とを使用した。三十年式銃は、明治三十三年末、三十一年式砲は三十六年二月、普(あまね)く軍隊に交換支給された。

 日露戦争に於いては、主として三十年歩兵銃と三十一年式砲とを用いた。後備師団は止むを得ず、初め村田銃と七珊野山砲とを使用したが、弾薬補充困難の為、後で交換し、兵站守備の後備隊は村田単発銃を用いた。

 旅順攻囲の攻城砲は、新築の堡塁抵抗力を破壊する為に内地海岸砲台の廿八珊榴弾砲を撤して、攻囲砲兵に加え、其の巨弾を以って蟄伏(ちっぷく)艦船、堡塁を撃破し、彼の肝胆を寒からしめた。

 戦後、更らに優良なるものを得んとして、審査研究の結果制定せられたるものが即ち三八式歩兵銃及び三八式野砲であった。

 大正三年の日独戦役の青島攻撃には、主に三八式歩兵銃重機関銃三八式野砲並びに各種攻城砲及び飛行機を使用した。

 シベリヤ出兵以後には軽機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾、戦車等を採用するに至った。又、海に於いて航空母艦、潜水艦が発達して、愈々空、陸、水の立体菱形的兵器の現出を見るに至った。

 第一次世界大戦の結果、欧州列強は兵器の創造改良進歩を遂げ、重軽戦車を初め、水陸両用の戦車、航空機の進歩発達、高射砲、列車砲、長距離砲等の改良進次を初めとし、化学兵器に於いては毒瓦斯、焼夷剤、火炎放射器等の新兵器の現出を見るに至り、特に航空機の進歩発達著しく、偵察機はもとより戦闘機、爆撃機、雷撃機、特に其の魚雷爆雷の活用一層重要せられ、重要都市の軍事施設の爆破を初めとし、不沈(と)称せし大戦艦をも轟沈せしめ、大東亜戦争に至りては、陸海軍競うて其の威力を揚げ、特に航空機の活躍、其の成果は欧米人の胆を奪い、世界の驚異をなして居るのである。

2015年10月24日土曜日

部隊という名の病院

これは昭和13年5月30日発行の軍医団雑誌 第300号に掲載された時事である。

五、安田部隊を視て
金 言 中 佐

◯◯に安田部隊が居る。
貴官ハ◯隊ヲ編成シ◯◯橋ト◯◯橋トノ確保ニ任スヘシ
 此れは◯◯地方が一時不穏になった本年五月下旬◯◯部隊長が安田部隊長に与へた作戦命令の一節である。
 ◯◯の一角、仰げば日章旗翩翻とはためく建物に『安田部隊』と墨痕鮮かな縦六尺幅二尺の大看板が懸っている、其の門前には戦時武装の歩哨が厳然と直立して居る、衛兵所には司令以下数名の衛兵が控へて居る、広い中庭には射撃予行演習と各個教練とを行っている数群の兵が居る、隊長室で部隊の状況を聞いて居ると突如非常呼集の喇叭号音が響き渡った、一しきり中庭に靴音が高かったが暫くにして止んだ、すると一将校が隊長室に入って来た、週番肩章を懸けた日直士官だ。
『全員整列を終りました』

 隊長は軍刀を提げて中庭に降り立った。
整列した部隊は一斉に隊長に敬礼する、其の緊張せる顔よ、その人員の多さよ、裕に一千名はあるであろう、そしてよく見ると整列人員中の将校以下の襟章は緋、萌黄、鳶、青、藍等々、色取りどりである、隊長は軍容を閲して一場の精神訓話を行った。
 以上が安田部隊の外観である。



 出動兵員の性病を根治せよ、病毒を内地に移入せしむる勿れ、部隊帰還に際し性病患者は之を残置して加療せよ、再発の虞あるものは其の市町村長に之を報じ治療を徹底せしめよ、野戦衛生長官は性病の内地汚染を警戒されて以上の指示を発せられた。
安田部隊は打てば響いて凛々と建ち上ったのである。



 此処は部隊長の室である、新入院患者を前にして
『一時の迷ひが今日の破滅を招いたのだ、御奉公に事を欠いた罪を何として御詫びするか、家族の顔を思ひ出せよ、駅頭で聞いた万歳の叫びと歓送された旗の波とを何とする、然し病気は病気だ、専心療養に尽して戦線復帰後は二人前の働きをせよ、此の病院は看板の通り『隊』である『病院』とは書いてない、病症の許(※原典は印刷ミスで脱字、文脈から予想)す者は戦闘部隊の訓練を行ふ。』
隊長は切々たる訓示を与へる。



 性病患者は概して其の素質が不良である、特に軍紀風紀の振作は最も必要とする所である、部隊長は部隊自からの精神作与を以て患者に対する範を示すに決心した、将校以下衛生兵全員に対し剣道を稽古せしめたのも実に是に因由するのである。教官たる飯島軍医中尉は四段であり村上補助衛生兵は五段である、其の他有段者が数名居る、真剣を以てする大日本剣道型は無言の大教訓を参列者に彫み附ける、大和魂が沸々と漲るを感ぜしめる、二十数名の剣道試合皇国日本を更に深く想起せしめる。



 性病の治療は当部隊の使命である、開設以来二箇月にして二千名中八百名の治癒者を出したる精進さは正に敬服すべきものであらう、特に最近フライ氏アンチゲンを調製して其の検定を終へ直ちに鼠蹊淋巴肉芽腫症の治療に利用し着々実功を挙げつつあるのは戦地の治療機関にして尚研究を怠らざる点に於て極めて推奨すべきものであらうと思う。



 隊長室の壁間には他の病院に見るを得ない壁書が一杯に貼られてある。
『一死報国、勇躍戦線に向ふ』
と書いた退院患者が自筆の宣誓書である、患者は隊長の入院時の訓示と軍隊式起居と節度ある治療との為に、愉快の裡に治癒を羸ち得てその退院を命ぜらるるや真に勇躍、鉄帽を負って原隊に復帰するのである、其の顔は御奉公を欠いた罪を謝する緊張で一杯である、一死報国は衷心から溯り出た血の叫びである。
 五月中旬から下旬に亙って展開された◯◯会戦には戦闘動作に妨げなき患者四百名を第一線に派遣して戦闘に参加せしめた、而し作戦後生命のある者は再度入院治療を完ふすることに此等将兵の所属隊長と協定が出来ている。安田部隊営庭内の教練も此の戦線復帰も共に刺戟後療法の一つとされているのである。◯隊を編成して二橋梁の確保を命ぜられたのも是に随伴した一戦況である。



 私は思ふ、治療に精進して治癒を速かならしめ、一方戦力の恢復増強を促進し特に戦地に於ける自衛力の発揮に努むることは陸軍病院の真の姿でなければならない、之が為には殊に病院管理の適正を緊要とする、管理の適正を期する為には精神作与が其の第一要義であり其の基調を為すものであらうと。
 長官閣下は安田部隊を視察せられていたく感激せられた、殊に精神教育の徹底に努力している状況を直視せられ、真剣な気分と長官の意図を所謂打てば響く式に具現されてる此の衛生部隊の偉容とに打たれて大いに之を賞賛せられた、部隊長に軍刀一振、剣道指導官に各々短刀を、出場衛生兵全員に自筆の賞牌を与へられたのも其の一つの表はれである。