五、安田部隊を視て
金 言 中 佐
◯◯に安田部隊が居る。
貴官ハ◯隊ヲ編成シ◯◯橋ト◯◯橋トノ確保ニ任スヘシ
此れは◯◯地方が一時不穏になった本年五月下旬◯◯部隊長が安田部隊長に与へた作戦命令の一節である。◯◯の一角、仰げば日章旗翩翻とはためく建物に『安田部隊』と墨痕鮮かな縦六尺幅二尺の大看板が懸っている、其の門前には戦時武装の歩哨が厳然と直立して居る、衛兵所には司令以下数名の衛兵が控へて居る、広い中庭には射撃予行演習と各個教練とを行っている数群の兵が居る、隊長室で部隊の状況を聞いて居ると突如非常呼集の喇叭号音が響き渡った、一しきり中庭に靴音が高かったが暫くにして止んだ、すると一将校が隊長室に入って来た、週番肩章を懸けた日直士官だ。
『全員整列を終りました』
隊長は軍刀を提げて中庭に降り立った。
整列した部隊は一斉に隊長に敬礼する、其の緊張せる顔よ、その人員の多さよ、裕に一千名はあるであろう、そしてよく見ると整列人員中の将校以下の襟章は緋、萌黄、鳶、青、藍等々、色取りどりである、隊長は軍容を閲して一場の精神訓話を行った。
以上が安田部隊の外観である。
出動兵員の性病を根治せよ、病毒を内地に移入せしむる勿れ、部隊帰還に際し性病患者は之を残置して加療せよ、再発の虞あるものは其の市町村長に之を報じ治療を徹底せしめよ、野戦衛生長官は性病の内地汚染を警戒されて以上の指示を発せられた。
安田部隊は打てば響いて凛々と建ち上ったのである。
此処は部隊長の室である、新入院患者を前にして
『一時の迷ひが今日の破滅を招いたのだ、御奉公に事を欠いた罪を何として御詫びするか、家族の顔を思ひ出せよ、駅頭で聞いた万歳の叫びと歓送された旗の波とを何とする、然し病気は病気だ、専心療養に尽して戦線復帰後は二人前の働きをせよ、此の病院は看板の通り『隊』である『病院』とは書いてない、病症の許(※原典は印刷ミスで脱字、文脈から予想)す者は戦闘部隊の訓練を行ふ。』
隊長は切々たる訓示を与へる。性病患者は概して其の素質が不良である、特に軍紀風紀の振作は最も必要とする所である、部隊長は部隊自からの精神作与を以て患者に対する範を示すに決心した、将校以下衛生兵全員に対し剣道を稽古せしめたのも実に是に因由するのである。教官たる飯島軍医中尉は四段であり村上補助衛生兵は五段である、其の他有段者が数名居る、真剣を以てする大日本剣道型は無言の大教訓を参列者に彫み附ける、大和魂が沸々と漲るを感ぜしめる、二十数名の剣道試合皇国日本を更に深く想起せしめる。
性病の治療は当部隊の使命である、開設以来二箇月にして二千名中八百名の治癒者を出したる精進さは正に敬服すべきものであらう、特に最近フライ氏アンチゲンを調製して其の検定を終へ直ちに鼠蹊淋巴肉芽腫症の治療に利用し着々実功を挙げつつあるのは戦地の治療機関にして尚研究を怠らざる点に於て極めて推奨すべきものであらうと思う。
隊長室の壁間には他の病院に見るを得ない壁書が一杯に貼られてある。
『一死報国、勇躍戦線に向ふ』
と書いた退院患者が自筆の宣誓書である、患者は隊長の入院時の訓示と軍隊式起居と節度ある治療との為に、愉快の裡に治癒を羸ち得てその退院を命ぜらるるや真に勇躍、鉄帽を負って原隊に復帰するのである、其の顔は御奉公を欠いた罪を謝する緊張で一杯である、一死報国は衷心から溯り出た血の叫びである。五月中旬から下旬に亙って展開された◯◯会戦には戦闘動作に妨げなき患者四百名を第一線に派遣して戦闘に参加せしめた、而し作戦後生命のある者は再度入院治療を完ふすることに此等将兵の所属隊長と協定が出来ている。安田部隊営庭内の教練も此の戦線復帰も共に刺戟後療法の一つとされているのである。◯隊を編成して二橋梁の確保を命ぜられたのも是に随伴した一戦況である。
私は思ふ、治療に精進して治癒を速かならしめ、一方戦力の恢復増強を促進し特に戦地に於ける自衛力の発揮に努むることは陸軍病院の真の姿でなければならない、之が為には殊に病院管理の適正を緊要とする、管理の適正を期する為には精神作与が其の第一要義であり其の基調を為すものであらうと。
長官閣下は安田部隊を視察せられていたく感激せられた、殊に精神教育の徹底に努力している状況を直視せられ、真剣な気分と長官の意図を所謂打てば響く式に具現されてる此の衛生部隊の偉容とに打たれて大いに之を賞賛せられた、部隊長に軍刀一振、剣道指導官に各々短刀を、出場衛生兵全員に自筆の賞牌を与へられたのも其の一つの表はれである。
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