ただし、精神教育の性質を帯びた書籍のように思えるので、読む際には注意が必要。
本書は、信頼性はどうかという点はひとまず置いておき、軍事に関する読み物としてはなかなか良い具合だと思う。
この書籍の各章末には、兵器や兵法等の概要的な説明がある。
古代や武士の時代はさて置き、明治以降の戦法や兵器等の概説部分を見てみよう。内容は非常に簡素、本当に概要を述べているだけだが、日本軍の近代戦法の変遷を見るのに良い資料となると思う。
(廿九) 兵学、武道等の概観
一、兵学
明治維新と共に本邦戦術は再び開発の曙光を発するに至った。明治三年十月二日の布告を以って陸軍は仏蘭西式を斟酌(しんしゃく)編成すべきを命ぜられて、本邦戦術始めて一途に帰した。明治五年十一月に徴兵令を布き、翌六年四月始めて之に因りて兵を徴し、歩、騎、砲、工、輜重の諸隊を作り全国六鎮台を置き主として仏国歩兵操典に基き練習せられた。之が我が国操典採用の嚆矢(こうし)である。此くして諸鎮台の兵を錬成しつつあった間に萩、佐賀の乱、台湾征討等の諸事件があったが、一部隊の出動で其の指揮官たる将校は維新前の戦法、即ち本邦の古戦法に拠って戦をなした。西南の役にありては、維新以来初めての国難であり、国家の全兵力を動かし、当時の日本に取って大戦争であった。
官軍の採用した戦法は千八百七十年戦前の仏国操典であって、実際戦闘を指揮した将校は古戦法を主とし、之に英、仏、蘭等の戦術の一端を学んだ所の士が多く、所謂短兵接戦を潔とする人達が勢力を有して居った。
賊軍は名に負う薩摩隼人で而も新兵器に乏しいので多くは切り込みを主とする戦闘手段であって、全般から見れば此の戦役は小銃と大砲とを持ち洋装をした鎮台兵と、刀槍小銃を主とする薩南健兒との接戦であった。
然し、賊軍が切り込みを主とするので官軍も結局抜刀隊を編成して之に当った。彼は薩南健兒、我は農民を主とする徴兵であるから、銃砲を以って遠くより敵を撃ち砕くを得策とし散開して敵に当り、特に包囲迂回を重んじ、先ず散兵を以って火戦に任じ、後方部隊が之に跟随(こんずい)して銃槍突撃を為し、砲兵は間接に援助するに過ぎなかった。然し乍(なが)ら地形の錯雑せると小部隊が各個に使用せられたので、結局此の戦役は古戦法の精神に洋式の着物を着けた様なものであった。
其の後、明治二十四年迄は日本に独仏の応聘武官来り、就中彼の有名な「メッケル」は明治十七年から同二十年に亙(わた)って大に我陸軍の編成や戦術の改良にあずかった。之は主として首脳部や大学校の間に行われたが、軍隊は尚仏式を脱却せず、戦場では散開に次ぐ密集部隊の突撃を以ってするのであった。
当時欧州に於いては無煙火薬が発明せられ、其の結果連発銃が採用せられて、歩兵戦術に一大革新を来し、従来の様に密集部隊は軽々に敵歩兵火の下に現出することは困難となった。
偶々(たまたま)普国陸軍は歩兵操典を発布したので、今迄主として仏式を範として採用し来った我が陸軍は普仏戦争勝敗の原因を研究し、又其の後独逸の国威隆々たるものあるを見、且つ彼の「メッケル」の精到該博な兵学に指導せられた結果、我が典型として独陸軍を選び、明治二十四年に至り歩兵操典を改正発布し、鋭意訓練を積みて日清戦争を迎えた。当時の戦法としては、先ず我が砲兵を以って敵砲兵を求めて射撃し、敵砲兵の沈黙するに及んで我が歩兵の攻撃の衝に当る敵歩兵を射撃した。歩兵は敵前概ね七、八百米乃至千五六百米位で散開し、概ね六百米乃至千米附近で射撃を開始し、歩兵は交互に掩護射撃をして前進し敵に接近するに従い、逐次後方密集部隊を前方に増加し、遂に二三百米附近より敵に向かって勇敢に突撃したものであった。
日清戦役の経験と、兵器の進歩と共に、明治三十一年に歩兵操典が改正発布せられたが、大体に於いて二十四年のものと大差無かった。
此の操典に拠って、我が曠古(こうこ)の大戦、日露戦争は実行せられた。其の戦法に基いて愈々戦闘開始すると我が砲兵が敵砲兵を、圧倒沈黙せしむることは砲数弾薬等の関係上不可能なるのみならず、爾後歩兵の前進を支援することも頗(すこぶ)る困難で、開戦後間もなく歩兵は砲兵の成果を待つことなく前進することとなり、砲兵は適時射撃を以って歩兵を支援する所謂歩砲協調の意味に変わって来た。
又歩兵は、敵前五、六百米で連発銃を以って射撃を開始すれば、敵は退却すると判断して居ったが、敵は名に負う防御力の強い露兵で二、三百米に迫っても容易に退かず、茲に頑強なる敵には最後の止めを刺す銃剣突撃を要したのであった。
又旅順は容易に陥落せぬので海岸の要塞から二十八糎榴弾砲を卸して、攻撃に使用してよく旅順の死命を制し、又彼の第一太平洋艦隊を全滅したのであった。
欧州第一次戦争当時、独逸軍が四十二糎の巨砲を使用して電撃一挙、白耳義(ベルギー)国境要塞を粉砕して敵の心胆を寒からしめたのと同様であった。
斯くの如く日露戦争は砲兵に関して大なる変化を見なかったが、要塞攻撃や堅固なる陣地攻撃にて巨砲の必要を痛切に感ぜしめ、又如何に兵器が進歩しても、結局勝敗は士気旺盛なる歩兵の剣尖で決せらるるものであることが、今更世界に証明せられた。
我が陸軍に於ては、日露戦争の経験に鑑み戦後間もなく三八式野砲、同加農、同榴弾砲を制定し、我が砲兵は茲に名実共に速射砲を有する事となった。次で小銃、機関銃も三八式が制定せられ、此の新兵器と戦後の経験とに由って、明治四十二年に歩兵操典が発布せられ、次いで騎兵、砲兵等の操典も改正せられ、茲に純然たる日本固有の戦法が定まった。即ち、軍の主兵は歩兵で白兵主義を採用し、戦闘は概ね散開隊形を以って終始するも、最後は肉弾と白兵に依る根本方針を定め、歩兵の運動は中隊毎に中隊長の号令を以ってすべきを定められ、歩兵連隊長は最後まで一部の兵を掌握し、軍旗と共に敵線に突入することを明示せられ、従って、歩兵の機関銃は至近の距離にて最も必要なる点に集中穿貫(せんかん)的効果を発揮し、肉弾の飛び込む穴を明けるを本旨とし、砲兵は先ず敵砲兵を求めて之を制圧撃滅に努め、歩兵が前進するに当たっては、歩兵に対する抵抗物を破砕するを主義となし、騎兵は大集団となりて会戦当初敵情捜索に任じ、彼我接近するに従い、両側(りょうそく)或いは一翼に退き、更に好機に乗じ、敵を脅威、急襲戦闘に参加し、或いは追撃に任じ、敵を殲滅し、或いは敵の追撃を拒止するを原則とし、工兵は諸般の技術工芸の進歩と共に築城に架橋に通信に運輸に、益々其の特色を発揮する様になった。
以上の如く、我が陸軍の戦法は日本独特に形式と内容とを完備し、各隊営々として訓練に従事しつつ、明治を過ぎ、大正の御代となり、遂に世界大戦の時期に移り入ったのである。
世界第一次欧州大戦に於ける欧州列強の陸軍は開戦当時、火砲は日本軍のものより幾分優れて居たが、小銃や機関銃等は凡優り劣りなく、飛行機の如きは極めて貧弱なものであった。日露戦争の日本軍と殆ど大差ない原則の下に戦争に入った。然し、戦争は西方に於いて間もなく陣地戦となり、軍人と云わず、学者と云わず、技術者と云わず、悉(ことごと)く脳漿を絞って敵に優る新兵器を発明し、昨の新も今の旧となり、夜を日に継いで偉力あるものを採用し、其の結果、戦争末期には歩兵は小銃より寧ろ軽機関銃を主兵器とし、之に加うるに重機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾等を以って自ら抵抗を排除し、遂に白兵を以って敵に最後の止めを刺さんとし、敵も亦同様の武装をして、彼処(あそこ)に一兵、此処に一銃と抵抗巣を設け、之を交通壕で彼我連絡して網状に編成し、其の中の要点々々に最も堅固なる拠点を作り、全陣地の奥行きは千米にも二千米にも及び、而も之が一帯でなく、本陣地の前方に警戒陣地あり、又後方には第二第三陣地帯があって、戦略的攻勢移転の拠点を形成するが如き、全くの面式陣地帯を構成するに至った。且つ又、戦場に於いては、毒瓦斯の放射、瓦斯弾の落下、或いは火炎放射器の猛火、飛行機よりする爆弾の投下等、真に此の世からの修羅場を現出した。遂に陸上戦艦とも称すべき戦車の出現を見るに至り、愈々隊形及び築城の疎開、交通の発達、軍制の革新等を来し、其の結果は戦略、戦術上に至大の影響を及ぼし、教訓と為す所尠(すくな)くなかった。
我が国も世界大戦に際し、青島の攻略や「チェッコ・スロバック」軍救護の為、一部の軍隊を大陸に出したが、大戦はなかった。そこで我が陸軍は、主として欧州大戦の経験に基づき、国軍戦術の改善を図った。茲に典範令は着々革新せられ、大正十二年正月、歩兵操典草案発布せられ、国軍をして従来に於ける散開戦闘方式の旧套(きゅうとう)を脱して、新たに改正せられたる編成装備に応ずる新戦闘方式の端緒を開き、爾後、幾多の実験研究を重ねた結果、大正十五年、戦闘要綱草案を編纂配賦して、大に国軍戦術の研究進歩を促した。
昭和の御代となって間もなく、従来研究せられつつあった操典草案も昭和三年に改正発布せられ、茲に遺憾なく国軍の特色を発揮し、国軍戦術上の要求に順応する諸兵種協同戦闘原則を確立し、翌四年に戦闘綱要の制定発布を見、尋(たずね?)て其の他の兵種の操典も逐次改正発布せらるるに至って、我が国軍の戦術上に一大進歩確立の礎石を築くに至り、最近更に作戦要務令を制定せられ、愈々茲に国軍兵学書としてその完璧ををなすに至った。
※参考:昭和3年歩兵操典から国軍の戦法が散兵線戦闘から疎開戦闘方式へと移行。昭和12年に歩兵操典草案が配賦され、戦闘群戦法への移行が始まり、昭和15年歩兵操典の改訂により、戦闘群戦法へ正式に移行。
(後略)
(三十) 兵器、築城、給養等の概観
明治維新の朝敵征討に従事する官軍諸藩の採用せし主なる兵器は、小銃に於いて施綫口装(※ライフリング有り、前装/先込め式)のエンピール銃(※エンフィールド銃)、底装のスナイドル銃等で、火砲に於いては口装青銅四斤の野山砲であった。其の後、エンピール銃を底装してスナイドル銃に改造し、交換支給するに至った。騎兵と砲卒にはスペンセル及びスターなる米国式底装騎銃を、歩兵工兵には、シャスポー銃(仏)を、騎兵、砲兵の馭者(ぎょしゃ)教育用として軍刀を支給せられた。
明治十年の西南役当時は、薩軍は洋式銃のエンピール銃を主とし、各自持ち寄りのものが最も多く、官軍はエンピールが数多く、スナイドル銃を相当持って居って、八百乃至五百米突で相当の効力があった。
火砲は仏国の四斤野山砲で、其の有効射程は二千米位であった。戸山学校教官 村田歩兵少佐、軍用銃視察の為欧米に派遣せられ、帰朝後、日本軍用銃を考案研究し、明治十三年に東京及び大阪に砲兵工廠成ると共に、此処にて日本軍用十三年式村田式銃の考案を完成した。底装金属薬筒を結束する尖頭鉛弾であって、十八年に一部改造して十八年式と称した。
明治十四年に太田砲兵少佐を仏、墺、伊三国に派遣し、十五年帰朝後、大阪砲兵工廠に伊太利砲兵将校を聘して、鋼成銅造兵の技を伝え、底装七珊野山砲を製造し、榴弾、榴霰弾、霰弾を使用し、当時列国砲兵に比し遜色がなかった。
科学の進歩は世界火薬の革命を起こし、無煙火薬現れ、列国競うて研究に従事した。我が国に於いても無煙火薬の研究を遂げ、連発銃考案成って、明治二十二年、遂に連発銃を製作し、銅製被甲の弾丸を金属薬筒に結束する弾薬筒十個を銃床弾倉に有する二十二年式村田連発銃を作った。
日清戦役には、戦線の各隊は皆、村田歩兵銃を用い、兵站守備の後備部隊はスナイドル銃を、砲兵は七珊野山砲を用いた。
其の後、村田連発銃は時代の要求に伴わざる疑ありて、製造を中止し、明治三十年、砲兵会議の審案の結果、三十年式歩兵銃並びに、三十一年式連射野山砲が現出した。銃は連発の最鋭なるもの、装脱式弾倉中に、ニッケル被甲の尖弾と無煙小銃薬を用うる弾薬筒五発を有し、列国と其の範を一にした。砲は列国と其の範式を異にして、其の威力を等しくした鋼砲で、榴弾、榴霰弾を用い、所謂有坂砲がそれであった。
明治三十三年の北清事変の時が、三十年式銃、三十一年式砲は製造中で、村田連発銃と七珊野砲とを使用した。三十年式銃は、明治三十三年末、三十一年式砲は三十六年二月、普(あまね)く軍隊に交換支給された。
日露戦争に於いては、主として三十年歩兵銃と三十一年式砲とを用いた。後備師団は止むを得ず、初め村田銃と七珊野山砲とを使用したが、弾薬補充困難の為、後で交換し、兵站守備の後備隊は村田単発銃を用いた。
旅順攻囲の攻城砲は、新築の堡塁抵抗力を破壊する為に内地海岸砲台の廿八珊榴弾砲を撤して、攻囲砲兵に加え、其の巨弾を以って蟄伏(ちっぷく)艦船、堡塁を撃破し、彼の肝胆を寒からしめた。
戦後、更らに優良なるものを得んとして、審査研究の結果制定せられたるものが即ち三八式歩兵銃及び三八式野砲であった。
大正三年の日独戦役の青島攻撃には、主に三八式歩兵銃、重機関銃、三八式野砲並びに各種攻城砲及び飛行機を使用した。
シベリヤ出兵以後には軽機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾、戦車等を採用するに至った。又、海に於いて航空母艦、潜水艦が発達して、愈々空、陸、水の立体菱形的兵器の現出を見るに至った。
第一次世界大戦の結果、欧州列強は兵器の創造改良進歩を遂げ、重軽戦車を初め、水陸両用の戦車、航空機の進歩発達、高射砲、列車砲、長距離砲等の改良進次を初めとし、化学兵器に於いては毒瓦斯、焼夷剤、火炎放射器等の新兵器の現出を見るに至り、特に航空機の進歩発達著しく、偵察機はもとより戦闘機、爆撃機、雷撃機、特に其の魚雷爆雷の活用一層重要せられ、重要都市の軍事施設の爆破を初めとし、不沈(と)称せし大戦艦をも轟沈せしめ、大東亜戦争に至りては、陸海軍競うて其の威力を揚げ、特に航空機の活躍、其の成果は欧米人の胆を奪い、世界の驚異をなして居るのである。
我が陸軍に於ては、日露戦争の経験に鑑み戦後間もなく三八式野砲、同加農、同榴弾砲を制定し、我が砲兵は茲に名実共に速射砲を有する事となった。次で小銃、機関銃も三八式が制定せられ、此の新兵器と戦後の経験とに由って、明治四十二年に歩兵操典が発布せられ、次いで騎兵、砲兵等の操典も改正せられ、茲に純然たる日本固有の戦法が定まった。即ち、軍の主兵は歩兵で白兵主義を採用し、戦闘は概ね散開隊形を以って終始するも、最後は肉弾と白兵に依る根本方針を定め、歩兵の運動は中隊毎に中隊長の号令を以ってすべきを定められ、歩兵連隊長は最後まで一部の兵を掌握し、軍旗と共に敵線に突入することを明示せられ、従って、歩兵の機関銃は至近の距離にて最も必要なる点に集中穿貫(せんかん)的効果を発揮し、肉弾の飛び込む穴を明けるを本旨とし、砲兵は先ず敵砲兵を求めて之を制圧撃滅に努め、歩兵が前進するに当たっては、歩兵に対する抵抗物を破砕するを主義となし、騎兵は大集団となりて会戦当初敵情捜索に任じ、彼我接近するに従い、両側(りょうそく)或いは一翼に退き、更に好機に乗じ、敵を脅威、急襲戦闘に参加し、或いは追撃に任じ、敵を殲滅し、或いは敵の追撃を拒止するを原則とし、工兵は諸般の技術工芸の進歩と共に築城に架橋に通信に運輸に、益々其の特色を発揮する様になった。
以上の如く、我が陸軍の戦法は日本独特に形式と内容とを完備し、各隊営々として訓練に従事しつつ、明治を過ぎ、大正の御代となり、遂に世界大戦の時期に移り入ったのである。
世界第一次欧州大戦に於ける欧州列強の陸軍は開戦当時、火砲は日本軍のものより幾分優れて居たが、小銃や機関銃等は凡優り劣りなく、飛行機の如きは極めて貧弱なものであった。日露戦争の日本軍と殆ど大差ない原則の下に戦争に入った。然し、戦争は西方に於いて間もなく陣地戦となり、軍人と云わず、学者と云わず、技術者と云わず、悉(ことごと)く脳漿を絞って敵に優る新兵器を発明し、昨の新も今の旧となり、夜を日に継いで偉力あるものを採用し、其の結果、戦争末期には歩兵は小銃より寧ろ軽機関銃を主兵器とし、之に加うるに重機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾等を以って自ら抵抗を排除し、遂に白兵を以って敵に最後の止めを刺さんとし、敵も亦同様の武装をして、彼処(あそこ)に一兵、此処に一銃と抵抗巣を設け、之を交通壕で彼我連絡して網状に編成し、其の中の要点々々に最も堅固なる拠点を作り、全陣地の奥行きは千米にも二千米にも及び、而も之が一帯でなく、本陣地の前方に警戒陣地あり、又後方には第二第三陣地帯があって、戦略的攻勢移転の拠点を形成するが如き、全くの面式陣地帯を構成するに至った。且つ又、戦場に於いては、毒瓦斯の放射、瓦斯弾の落下、或いは火炎放射器の猛火、飛行機よりする爆弾の投下等、真に此の世からの修羅場を現出した。遂に陸上戦艦とも称すべき戦車の出現を見るに至り、愈々隊形及び築城の疎開、交通の発達、軍制の革新等を来し、其の結果は戦略、戦術上に至大の影響を及ぼし、教訓と為す所尠(すくな)くなかった。
我が国も世界大戦に際し、青島の攻略や「チェッコ・スロバック」軍救護の為、一部の軍隊を大陸に出したが、大戦はなかった。そこで我が陸軍は、主として欧州大戦の経験に基づき、国軍戦術の改善を図った。茲に典範令は着々革新せられ、大正十二年正月、歩兵操典草案発布せられ、国軍をして従来に於ける散開戦闘方式の旧套(きゅうとう)を脱して、新たに改正せられたる編成装備に応ずる新戦闘方式の端緒を開き、爾後、幾多の実験研究を重ねた結果、大正十五年、戦闘要綱草案を編纂配賦して、大に国軍戦術の研究進歩を促した。
昭和の御代となって間もなく、従来研究せられつつあった操典草案も昭和三年に改正発布せられ、茲に遺憾なく国軍の特色を発揮し、国軍戦術上の要求に順応する諸兵種協同戦闘原則を確立し、翌四年に戦闘綱要の制定発布を見、尋(たずね?)て其の他の兵種の操典も逐次改正発布せらるるに至って、我が国軍の戦術上に一大進歩確立の礎石を築くに至り、最近更に作戦要務令を制定せられ、愈々茲に国軍兵学書としてその完璧ををなすに至った。
※参考:昭和3年歩兵操典から国軍の戦法が散兵線戦闘から疎開戦闘方式へと移行。昭和12年に歩兵操典草案が配賦され、戦闘群戦法への移行が始まり、昭和15年歩兵操典の改訂により、戦闘群戦法へ正式に移行。
(後略)
(三十) 兵器、築城、給養等の概観
一、兵器
明治維新の朝敵征討に従事する官軍諸藩の採用せし主なる兵器は、小銃に於いて施綫口装(※ライフリング有り、前装/先込め式)のエンピール銃(※エンフィールド銃)、底装のスナイドル銃等で、火砲に於いては口装青銅四斤の野山砲であった。其の後、エンピール銃を底装してスナイドル銃に改造し、交換支給するに至った。騎兵と砲卒にはスペンセル及びスターなる米国式底装騎銃を、歩兵工兵には、シャスポー銃(仏)を、騎兵、砲兵の馭者(ぎょしゃ)教育用として軍刀を支給せられた。
明治十年の西南役当時は、薩軍は洋式銃のエンピール銃を主とし、各自持ち寄りのものが最も多く、官軍はエンピールが数多く、スナイドル銃を相当持って居って、八百乃至五百米突で相当の効力があった。
火砲は仏国の四斤野山砲で、其の有効射程は二千米位であった。戸山学校教官 村田歩兵少佐、軍用銃視察の為欧米に派遣せられ、帰朝後、日本軍用銃を考案研究し、明治十三年に東京及び大阪に砲兵工廠成ると共に、此処にて日本軍用十三年式村田式銃の考案を完成した。底装金属薬筒を結束する尖頭鉛弾であって、十八年に一部改造して十八年式と称した。
明治十四年に太田砲兵少佐を仏、墺、伊三国に派遣し、十五年帰朝後、大阪砲兵工廠に伊太利砲兵将校を聘して、鋼成銅造兵の技を伝え、底装七珊野山砲を製造し、榴弾、榴霰弾、霰弾を使用し、当時列国砲兵に比し遜色がなかった。
科学の進歩は世界火薬の革命を起こし、無煙火薬現れ、列国競うて研究に従事した。我が国に於いても無煙火薬の研究を遂げ、連発銃考案成って、明治二十二年、遂に連発銃を製作し、銅製被甲の弾丸を金属薬筒に結束する弾薬筒十個を銃床弾倉に有する二十二年式村田連発銃を作った。
日清戦役には、戦線の各隊は皆、村田歩兵銃を用い、兵站守備の後備部隊はスナイドル銃を、砲兵は七珊野山砲を用いた。
其の後、村田連発銃は時代の要求に伴わざる疑ありて、製造を中止し、明治三十年、砲兵会議の審案の結果、三十年式歩兵銃並びに、三十一年式連射野山砲が現出した。銃は連発の最鋭なるもの、装脱式弾倉中に、ニッケル被甲の尖弾と無煙小銃薬を用うる弾薬筒五発を有し、列国と其の範を一にした。砲は列国と其の範式を異にして、其の威力を等しくした鋼砲で、榴弾、榴霰弾を用い、所謂有坂砲がそれであった。
明治三十三年の北清事変の時が、三十年式銃、三十一年式砲は製造中で、村田連発銃と七珊野砲とを使用した。三十年式銃は、明治三十三年末、三十一年式砲は三十六年二月、普(あまね)く軍隊に交換支給された。
日露戦争に於いては、主として三十年歩兵銃と三十一年式砲とを用いた。後備師団は止むを得ず、初め村田銃と七珊野山砲とを使用したが、弾薬補充困難の為、後で交換し、兵站守備の後備隊は村田単発銃を用いた。
旅順攻囲の攻城砲は、新築の堡塁抵抗力を破壊する為に内地海岸砲台の廿八珊榴弾砲を撤して、攻囲砲兵に加え、其の巨弾を以って蟄伏(ちっぷく)艦船、堡塁を撃破し、彼の肝胆を寒からしめた。
戦後、更らに優良なるものを得んとして、審査研究の結果制定せられたるものが即ち三八式歩兵銃及び三八式野砲であった。
大正三年の日独戦役の青島攻撃には、主に三八式歩兵銃、重機関銃、三八式野砲並びに各種攻城砲及び飛行機を使用した。
シベリヤ出兵以後には軽機関銃、歩兵砲、銃榴弾、手榴弾、戦車等を採用するに至った。又、海に於いて航空母艦、潜水艦が発達して、愈々空、陸、水の立体菱形的兵器の現出を見るに至った。
第一次世界大戦の結果、欧州列強は兵器の創造改良進歩を遂げ、重軽戦車を初め、水陸両用の戦車、航空機の進歩発達、高射砲、列車砲、長距離砲等の改良進次を初めとし、化学兵器に於いては毒瓦斯、焼夷剤、火炎放射器等の新兵器の現出を見るに至り、特に航空機の進歩発達著しく、偵察機はもとより戦闘機、爆撃機、雷撃機、特に其の魚雷爆雷の活用一層重要せられ、重要都市の軍事施設の爆破を初めとし、不沈(と)称せし大戦艦をも轟沈せしめ、大東亜戦争に至りては、陸海軍競うて其の威力を揚げ、特に航空機の活躍、其の成果は欧米人の胆を奪い、世界の驚異をなして居るのである。
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