分隊の兵員と編制
疎開戦闘方式期
昭和一桁年代の分隊の兵員は昭和3年歩兵操典にしっかりと記載されている。
第百二十八 ...其兵員は小銃分隊に在りては8乃至12名、軽機関銃分隊に在りては7名とす
小銃分隊の兵員に幅があるのは「中隊は通常先づ軽機関銃分隊の兵員を充足し次に爾余の兵員の多寡に応じ小銃分隊の数を定む」
(第128)ため。
ここで注意が必要なのが、本操典中の「兵員」という語句は二等兵、一等兵、上等兵のいわゆる「兵卒」のことを指しているらしく、操典の第2図(右図)を見てみると軽機関銃分隊の構成は射手1名・弾薬手6名となっていて、分隊長(下士官)を含んでいないことがわかる。(おそらく小銃分隊も同様)
当然、
分隊には分隊長が付くため、分隊長を含めれば軽機関銃分隊は
総員8名、小銃分隊の総員は
9~13名ということとなる。
(2023.5.31 追記)この時期はまだ擲弾筒分隊が存在しないため、歩兵操典上にこれに関する記述はない。ただし、後年に出された『擲弾筒教育仮規定』(教育総監部, 昭和9年)では「擲弾筒一筒を使用する為擲弾筒手三名(射手及第一、第二弾薬手)を以て擲弾筒班を編成す」(第2)とし、擲弾筒班2つ(射手1名・弾薬手2名)と「長」1名で擲弾筒部隊(※この時点ではまだ分隊として扱われていない上、同書にはこの擲弾筒の部隊を指す呼称も見当たらないため、ここでは便宜的に部隊と呼称した)を構成している。
つまり、この時期(昭和9~昭和12年頃まで)の擲弾筒部隊は総員7名が標準的であったものと思われる。
戦闘群戦法期導入期(昭和12~15年)
昭和11年12月から
歩兵操典草案(第5~7篇未収録)が配賦され始め、翌年昭和12年5月から完全版の
歩兵操典草案が配賦され、旧軍でも戦闘群戦法の導入が始まり、昭和15年2月に歩兵操典が改定されて戦闘群戦法が正式に導入される。
昭和3年歩兵操典には分隊の兵員に関する記述があったが、昭和11~12年歩兵操典草案以降は兵員に関する記述が削除されているため、歩兵操典から分隊の兵員を知るということはできなくなった。
編制表が閲覧できればあっという間に解決する話だが、ネット上には全く見当たらない。そのような状況なので資料不足感は否めないが、手の届く範囲内で調べた結果が以下。
「
歩兵操典草案編纂要旨の件」
(JACAR:Ref.C01004262600, 5画像目)では、昭和11、12年歩兵操典草案の(模範的な)小隊の編成は一般分隊(小銃及び軽機関銃を統合一体とせる分隊)3個、擲弾分隊(重擲弾筒4個を有する分隊)1個という編成を想定しているが、実際にはこの想定の通りとはいかなかったようで、歩兵操典草案配賦前の「昭和12年度陸軍動員計画令同細則の件(原本付属)」
(JACAR:Ref.C01007658600, 380-381画像目)の歩兵連隊(甲)を見ると昭和12年頃は中隊に軽機関銃と重擲弾筒が6丁/筒、つまり各小隊に軽機関銃と擲弾筒が2丁/筒ずつしか配備されていないことがわかる。(下図)
「
支那事変.大東亜戦争間 動員概史 1/7 昭12~20年」
(JACAR:Ref.C14010652500, 2画像目)には昭和15年以降の中隊の編制(下図)が掲載されているが、擲弾分隊は擲弾筒を3筒しか装備していない。
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JACAR:Ref.C14010652500, 2画像目 |
一般分隊と擲弾分隊に分けて少し掘り下げてみよう。
一般分隊
昭和11、12年歩兵操典草案から疎開戦闘方式の特徴であった小銃分隊と軽機関銃分隊の2種の分隊が統合されて一般分隊(戦闘群)となったが、すぐに全部隊の編制が行われたわけではなく、「昭和8年頃ヨリ...戦闘群戦法ノ研究ニ着手シ昭和15年頃迄ニ全陸軍ノ編制改正ヲ完了ス」
(JACAR:Ref.C14010652500, 2画像目)といった具合に、編制改正が完了するのは昭和15年頃となっている。
兵員に関しては、「
歩兵中隊教練ノ参考(総則 分隊) 第2巻」
(陸軍歩兵学校, 1938)中の挿図を見てみると一般分隊の兵員は
12名~8名のものが多い。昭和3年歩兵操典における小銃分隊の兵員が
12名~8名であること、後段で扱う昭和15年以降の一般分隊の兵員が
12名とされていることから考えると、昭和期旧軍の一般分隊は
分隊長を含めて13名というのが標準だったのではないかと考えられる。
擲弾分隊
歩兵操典草案配賦前の昭和11年発行「
兵語類解と参考図例集:附・軍隊符号」
(兵学研究社, 1936)では、昭和3年歩兵操典の編制(疎開戦闘方式の編制)で6筒の擲弾筒を装備した中隊の防御図が掲載されている。
歩兵操典草案配賦後の「
歩兵中隊教練ノ参考 (総則 分隊) 第2巻」
(陸軍歩兵学校, 1938)では、第6図のように2筒以上の編成も考慮されているが、これ以降のページでは1分隊2筒編成が基本となっている。
「
演習便覧」
(陸軍予科士官学校高等官集会所, 1939)上とほぼ同様。
「
歩兵操典草案編纂要旨の件」では擲弾筒4個を有する分隊、「
支那事変.大東亜戦争間 動員概史 1/7 昭12~20年」
(JACAR:Ref.C14010652500)では、擲弾分隊は擲弾筒3筒、小銃手9名の計12名編成とされていた擲弾分隊だが、昭和12年歩兵操典草案の頃に出された各種参考書では、擲弾分隊は
2筒編成として解説されている事が多く、その兵員も
6名(
分隊長を含めると7名)としている挿図がほとんどだが、後段の昭和15年以降の擲弾分隊が12名編成であったことから考えるとこの時期の擲弾分隊の人員は9名であった可能性もある。
(2023.5.31 追記)前述『擲弾筒教育仮規定』(教育総監部, 昭和9年)の擲弾筒部隊がそのまま分隊として格上げ?されたのであれば、総員7名か。
戦闘群戦法期(昭和15~19年)
「
昭和16年度 陸軍動員計画令細則附録(甲)其1、其2 諸部隊兵器表(1)」(JACAR:Ref.C14010662200, 26画像目)の歩兵連隊(甲)の兵器表を見ると中隊に軽機関銃と擲弾筒が9丁/筒ずつ、つまり各小隊に3丁の軽機関銃と3筒の擲弾筒が配備されており、「
支那事変.大東亜戦争間 動員概史 1/7 昭12~20年」
(JACAR:Ref.C14010652500, 2画像目)の編制(下図)と一致する。
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(JACAR:Ref.C14010652500, 2画像目) |
さて、この編制は面倒なことに2通りの解釈ができてしまう。
1つ目は昭和3年の歩兵操典と同様に、一般分隊と擲弾分隊の数字はどちらも「兵員」を示したもので、両分隊は分隊長を含めると総員13名というもの。
2つ目はこの編制表の一般分隊と擲弾分隊は共に分隊長を含んだ「総員」を示しているというもので、こちらの場合は両分隊は共に12名ということになる。
それでは一体どちらの解釈のほうが正しいのだろうか。
ネット上で唯一(?)閲覧が可能な旧陸軍の編制表が掲載されている「
昭和19年度 陸軍動員計画令(軍令甲第83号) 昭18.8.30」
(JACAR:Ref.C14010672300)の歩兵連隊(丙)の編制表の備考欄をみてみると...
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JACAR:Ref.C14010672300, 5画像目 |
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JACAR:Ref.C14010672300, 6画像目 |
一般分隊は
分隊長を含めて13名(分隊長1、軽機1、小銃11)、擲弾分隊は
分隊長を含めて12名(擲弾筒3、小銃9)となっており、「
支那事変.大東亜戦争間 動員概史 1/7 昭12~20年」の編制表が一般分隊は分隊長を含まず、擲弾分隊は分隊長を含んでいるという変則的な表記となっていることがわかる。(擲弾分隊の分隊長は小銃手として扱われているものと思われる)
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昭和18年『野戦築城教範 総則及第一部』附表第三 其ノ二 |
(2023.10.20 追記)昭和18年『野戦築城教範 総則及第一部』附表第3 其の2(右画像参照)では、歩兵分隊(一般分隊)の陣地の人員を13名としている。
(追記ここまで)
※昭和15年以降の擲弾分隊に関しては「
歩兵教練ノ参考 第二巻」
(陸軍歩兵学校, 1940)を見ると、その構成が分隊長と3班(各班3名)の10名として図示されており、上掲の2つの資料と異なる。
省略されているのか、実際には10名編成が多かったのか、現状詳細は不明だが、編制表では擲弾分隊は12名ということになっているため、模範的な擲弾分隊は12名編成であったと考えていいだろう。
(2023.10.20 追記)
組戦法期(昭和20年)
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歩兵戦闘教練 第一部 挿図 |
昭和20年に入ると、「昭和十五年歩兵操典発布後の経験特に大東亜戦争の戦訓に基き現下に於ける歩兵部隊の戦闘及訓練に関し歩兵操典活用上必要なる事項を研究編纂せるもの」
(歩兵戦闘教練 第一部, 1945, 緒言1)として、『歩兵戦闘教練』が教育総監部から出されている。
本書によって旧軍はいわゆる「
組戦法」
(※リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービス利用コンテンツのためログイン必須)を公式的に導入し、一般分隊は軽機・狙撃・小銃(場合により擲弾筒)の”組”によって構成されることとなる。
とはいえ、分隊の人員には手が加えられていないようで、挿図(右画像)を見るに、相変わらず分隊長を含めて13名が標準のようである。
擲弾分隊の兵員にも変化はないと思うが、記述や挿図が無いため詳細は不明としておく。
(追記ここまで)