日露戦争時の攻撃陣地 |
明治後期の戦闘方式
明治期の戦闘は時期ごとに違いはあるものの、概ね密集隊形で運動し、敵火を受ける前に散開隊形に移り散兵線を作り、射撃を行いながら敵との距離を詰めていき、最終的には突撃でもって戦闘を終えるという流れである。以下、基本的に明治42年の歩兵操典を基に記述。第二 歩兵戦闘の主眼は射撃を以って敵を制圧し突撃を以って之を破摧するに在り
第百九 散開隊形は歩兵戦闘の主要なる制式にして之を以って火戦を行うのみならず多くの場合に於いて突撃も亦此の隊形を以って行うものとす…」 (明治42年 歩兵操典,綱領)
分隊の散開の一例(大正期の教本の挿図) |
「旧操典も亦我国の歩兵操典なりしことは疑うべからざるも其内容は他国が生血を注で得たる原則を網羅したるものにして実に独国歩兵操典に酷似せり」 (明治四十二年改正歩兵操典意解,1頁,横尾民蔵 編,明治43.5)
戦闘に関しては中隊が戦闘の中心。分隊と小隊は存在しているが分隊長も小隊長もその裁量権は小さいもので、例えば、
第百十六 小隊長は戦闘の指揮に関し中隊長を輔佐し其の意図を確実に其の小隊に実施せしむるを以って主要の任務とす……
第百十七 分隊長は小隊長を輔佐し号令普及を以って主要の任務とす……
といった具合で、特別な事情がなければ小隊や分隊が独自に動くことは無い。
というよりも、 部隊が横に散開して横一列になって前進していくので、分隊や小隊が横に移動しようにも隣の部隊が邪魔でほとんど移動が出来ない。
拡大すると地平線付近に黒点が見えるが、その手前にも少し密集した一文字に連なる黒点がある。
すぐ手前も人の集団のように見える。説明がどれのことを指しているのか分かりにくいが、とにかくこの時期の戦闘は横に並んで前進する形なので、中隊長以下では、それほど部隊指揮能力は要求されない。
その他、大隊は4個の中隊、中隊は3個小隊、小隊は若干の分隊からなり、分隊の兵員は4~8伍。散開時の各兵の間隔は約2歩が規定となっている。
(伍は小隊の兵員を前後に2列に並べた時の前後の兵2人組のこと。つまり4伍は8人。また、どうも分隊長はこの数に含まれていないようなので、4伍の場合、分隊長を含めると分隊の人員は9名になるのではないかと思われる)
以上、密集隊形から散開隊形へ移り戦闘を行う形式を旧軍では散開戦闘と呼んでいる。
散兵線戦法や散開戦法という呼び方もある。
次は大正期(大正9年)の歩兵操典⇒近代の歩兵戦法(二)
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