歩兵操典の綱領にこの様な文がある。
第十一 …歩兵ノ本領ハ地形及時期ノ如何ヲ問ハズ戦闘ヲ実行シ突撃ヲ以テ敵ヲ殲滅スルニ在リ…
突撃を重要視しているともとれるし、そもそも「突撃」自体が戦闘の一つの最終局面だからそれをここで明らかにしている。とも考えられる。
『歩兵は縦ひ他兵種の協同を欠くとも射撃を以て敵を制圧し、最後に於て銃剣を以て再三再四突撃を敢行して敵を殲滅するの意気がなくてはならぬ。是れ即ち歩兵の本領である。』
(齋藤市平 著,1941,『軍隊精神教育の参考』,p.114)
「意気がなくてはならぬ」というのは、操典の記述よりも若干緩められた表現ではあるが、旧軍が突撃をある種特別視していたというのは良く聞く話だろう。
それでは、その突撃は実際にどれくらい行われていたのだろうか?
軍隊がどれくらい突撃を行ったのか?ということを調査した話は聞かないし、調査は事実上不可能だろう。
そこでひとまず、資料は少ないが参考になるであろう戦傷者についての統計を見ていこう
まず、戦争における軍人の被害に関する有名な話として、第一次世界大戦から戦傷者の大多数が砲撃等による砲創である。というものがある。
『
軍陣外科学教程』
(陸軍軍医団,1940)によると、第一次世界大戦の戦傷の割合は、
英陸軍医務局長Goodwinの調査では、
銃創25%、砲創75%
仏陸軍軍医総監Mrgnonの調査では、
銃創21%、砲創79%
とある。これは恐らく銃創と砲創だけを取り上げて比較したものだと思われる。見ての通り、砲撃による創傷は8割近くを占めている。
同書には上記の統計と並んで、日本軍側の各戦争時の戦傷を種類で区分し、その割合を示した統計もある。
それによれば、
日清戦争は、
銃創88%、砲創9%、白兵創3%
北清事変は、
銃創91%、砲創8%、白兵創1%
日露戦争は、
銃創80%、砲創17%、白兵創1%、爆創(2%)、介達弾創2%
日独戦争は、
銃創37%、砲創51%、爆創6%、介達弾創6%
となっている。
※「介達弾創」とは、弾丸が当たったり、榴弾の爆発などによって飛散する物体(石や木片などなんでも)による傷。
また、日露戦争の野戦と要塞戦を分けた統計を見てみると、
野戦:
銃創84.4%、砲創14.2%、白兵創1%、爆創0.4%
要塞戦:
銃創67.7%、砲創23.5%、白兵創0.8%、爆創8%
国と時期によっては装備の状態などが大きく異なるので一概には言えないが、少なくとも日本軍では、年を経るごとに砲創による戦傷者が増えていることが分かる。(北清事変を除いて)
『
戦時衛生勤務研究録』
(陸軍軍医団,1927) にも、上と似たような統計が記載されている。
日露戦
日本軍(%)
銃創80%、砲創17%、その他3%
露軍(%)
銃砲創98.35%{銃丸75%、弾片14%、弾子11%}、その他1.65%{白兵創:斬創21%、刺創79%}
日独戦
日本軍(%)
銃創37%、砲創57%、その他6%
欧州大戦(第一次世界大戦)
仏軍
銃創23%、砲創75%、その他6% (1914年)
銃創11%、砲創56%、その他33% (1917年)
銃創15%、砲創54%、その他31% (1918年)
英軍
銃創20%、砲創75%、その他5% (Goodwin)
米軍
小銃13.31%、榴弾12.48%、榴霰弾23.68%、瓦斯49.85%、手榴弾0.68%
ハンガリー軍
小銃70-75%、榴弾8-10%、榴霰弾20-22% (セルビア戦場)
小銃22%、榴弾50%、榴霰弾28% (イタリア戦場)
日露戦争に関しては、"Weapons and Tactics" (初版は1943年)という書籍にこのような記述がある。
In the Russo-Japanese War of 1904 about two and a half per cent of the total casualties on both sides were caused by spears, swords and bayonets.
(Tom Wintringham, J.N. Blashford-snell,
Weapons and Tactics, pp.146-147. 1973)
"1904年の日露戦争では、双方の総死傷者の約2.5%が槍、剣、銃槍によって引き起こされた"
『
昭和十七年印刷 戦例集 全』には「世界大戦ニ於ケル戦傷兵」という戦傷者の割合等を表にしたものがある。
(第一次世界大戦の戦傷者統計(右)はフランス軍のもの)
これらを見ると、第一次世界大戦から「砲」が戦闘の中心となり、猛威を振るうようになったことが見てとれる。
※第一次世界大戦の統計で「その他」が2割3割を占めている。内訳が示されていないので判然としないが、少なくとも、この「その他」の内訳で高い割合を占めているのは、時期等から推察するに、おそらく毒ガスだろうと思われる。
第一次世界大戦の初期から中期、つまり陣地戦主体の期間は7割以上が砲創。
ドイツの1918年春季攻勢以降の運動戦主体の期間は砲創の割合が減るが、それでも銃創より優位である。
前後の戦争を見比べても、第一次世界大戦で大きく状況が変わったのは確かだろう。
いくつかの統計の数値を挙げ、まとめのような文章を書いたが、そもそも本投稿は白兵戦についての投稿なので今度は白兵創に注目して各統計を見て欲しい。
白兵創は軒並み一桁、多くても3%を超えていないことが分かる。
読んだ人も多いであろうデーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』でも取り上げられていたが、白兵戦による死傷者は一般に思われているよりも少ないということになる。
こうなってくるといよいよ問題になるのが日本軍である。
上掲の統計のほとんどは紛れも無い、日本軍で使っている資料から引っ張ってきたものである。『
戦時衛生勤務研究録』と『
軍陣外科学教程』は、軍医の為の書籍であるが、『
昭和十七年印刷 戦例集 全』は士官候補生辺りの参考書である。
つまり、少なくとも尉官程度なら近代の戦争では、突撃どころか白兵戦による戦果が非常に少ないことを知っている可能性はとても高いわけだ。佐官、将官ともなれば尚更だろう。
それではなぜ、日本軍は白兵戦(突撃)を重要視したのだろうか?
ひとまず二つの話を紹介しよう。
『最後に百米以内に接敵せば、敵の動揺を認めて突入するのであるが、突撃の号令を掛けたる後は全くの聾盲で、敵陣地の後端迄無我夢中に部下と競走するのみである。そして尖筆山の戦闘では陣地の後端に出る刹那、逃げ後れたる敵の一人を大袈裟に切り落して初めて夢覚め、眼前算を乱して敗走中の敵に対し、『止れ、急ぎ打かかれ』と号令し、確に其三四十を倒した筈だが、現場実査の結果は、僅に数個の屍を認めたに過ぎぬ。蓋し敵は我が追撃を緩めんため、若者に詐りの死を装ふたのであった。』
(陸軍少将 山田軍太郎、北清事変)
『…午後七時頃になると、第四師団方面から一人の下士か兵卒かが、銃の先に日章旗を掲げ、づんづん敵線を乗り切て進む者がある。第一線の我々之れを望見するや、将校も兵卒も期せずして起て突撃を起し、隣師団の者に名を成さしてなるものかと猛然として進んだのである。所が直前の敵は、我れが近づくや、散兵壕より出て諸所にばらばらと退却を始めた。其数は一中隊正面に僅か五六名位のものであろう。中隊は之れを目撃し、益々勇気百倍して、遂に第一の散兵壕に突入したのである。
見ると此の線を守備して居た敵は、目の前に逃げた数名丈であって、余の者は皆散兵壕の中に枕を並べて死で居るのである。中隊は尚も進んで第二第三の散兵壕を占領したが、何れも敵兵の死屍を以て埋められている。斯くて山上を占領し、部隊を集結して、同夜は敵陣地内に露営した。』
(TH生、日露戦争)
この二つの話は、偕行社発行の『
初陣の戦場心理』に集録された話の一部である。
どちらもおそらく指揮官の立場だが、前者は、突撃について「部下と競走」と言っている。一人は斬り殺したようだが、最終的には数人が死んでいる程度だったという話。
※しかもこの倒した敵兵の死因が射撃なのか白兵なのかははっきりとは分からない。
後者は、突撃してみたら既にほとんどの敵が(おそらく突撃の前の射撃で)死んでいたという話だ。
この二つの話は『
初陣の戦場心理』に集録されている話の中では特に白兵戦が不調だった話である。むしろ、他の話では普通に「敵を刺殺」といった話は出てくる。
例えば同書の「
南嶺戦闘の回顧」
(陸軍歩兵中尉 佐々木榮三郎,満州事変)では、
『…時に正午を過ぐる数分、再び斬る、刺す、撃つの三巴の白兵戦が、演ぜられた。「アイヤア アイヤア」と叫ぶ悲鳴、屍山、血河、実に惨たる修羅場となる。…かく格闘の後、午後二時頃には全く占領した。…敵の遺棄した死体約二百、傷者を数ふべくもなかったが、少くとも三、四百を下らなかった事だらう…。』
「
初年兵の突撃戦」
(陸軍歩兵少佐 佐々木慶雄,満州事変)では、
『…(10) 第一小隊の一分隊は(イ)土壁を底部より突入し、将に逃げんとせし敵兵六名を刺殺す。第一小隊長猪瀬少尉亦土壁北側に於て敗残兵二名を斬る。
…1. 両小隊は直に部落北側に進出し、逃げ後れたるものを刺殺し、…』
この書籍に限らず、軍が発行した書籍には突撃や白兵戦に関する事柄が掲載されていることが多い。
軍としては突撃、白兵戦を重要視している訳だから、当然積極的に取り上げるだろう。
針小棒大に書き立てているとか、実際には殆ど白兵戦は起こっていないにもかかわらず、報告や戦闘詳報では激烈な白兵戦を演じた。ということになっている可能性もあり得る。
数少ない事例でも拾い集めれば頻繁に発生していたように見えるというわけだ。
とはいえ、仮に白兵創の割合が1%だとすると100人に1人は白兵創ということになるので、考えようによっては案外多いような気がしないでもない。
他方、支那事変では敵の死傷の原因の6割が白兵傷という話もある。
「現に今次の支那事変では、敵の死傷原因の六割が白兵創であることでもその必要が判ります。」
(青木保 著,兵器読本,1937,p.15)
さすがにこれはあり得ないとは思うが、特に否定できる資料を持ち合わせていないのでなんとも言えない所ではあるが、6割とまでは行かないまでも、日中戦争においては白兵戦が多かった可能性はある。(数%程度?)
白兵戦までの道のり
ここで白兵戦が起こり得る状況というものを考えてみよう。
当然のことだが白兵戦を行うには、格闘ができる距離まで近づく必要がある。
その距離に到達するまでは射撃が行われるはずなのでから、上の「TH生」の話のように突撃前の火力戦で敵をほとんど殺してしまうといったことも起こるわけだ。
また、このようなこともあるだろう。
『わが分隊は既に数個の榴弾を撃ち込み、小隊に追随して進む。約一時間後、我々は汗にまみれ、銃剣を構え村落に突入した。敵は姿を消し、鎮まりかえった無人村落がそこに横たわるだけであった。』
(朝香進一 著,1982,『初年兵日記』,p.172)
著者の朝香氏は擲弾筒分隊なので、先陣を切って突撃を行うわけではないが、突入したら敵が退却していて、もぬけの殻だったというパターンである。
日本軍に限らず、どこの国でも火戦(射撃)→白兵戦というのがマニュアル的な流れとなっている。
歩兵同士の戦闘が始まる前に砲兵や迫撃砲などの砲撃や航空機による攻撃が行われて守備側の兵力が減り、その後の歩兵の射撃によって守備側の兵力はさらに減る。
この段階で守備側が戦意を喪失したり、現状の戦力で攻撃側を撃退できる公算が小さいと判断すれば撤退、後退することになる。(独ソや日本のように死守命令があったり、島嶼戦でそもそも撤退できないといった場合を除き)
仮に守備側が攻撃側を撃退できないほど兵力が減った状態で白兵戦が行われたとしても、双方(特に守備側)兵力が減った状態で行われるから、おのずと白兵創の数は少なくなる。
また、それとは逆に守備側に攻撃側の前進を止めることが出来る程度に充分な兵力や強力な火器等が残っていた場合は、特に攻撃側が無理矢理白兵戦へと持っていけるくらい強大な戦力を持っていない限り、攻撃側は白兵戦に移行出来ず戦闘は火戦のまま硬直してしまう。
デーヴ・グロスマンが取り上げたような心理的な原因による白兵戦の忌避を一切排除して、白兵戦が少ない理由というものを考えた場合、下記のような要素が考えられる。
⒈白兵戦は戦闘の最後に行われるため、火戦で終わるか止まるかした場合は白兵戦自体が発生しない。
また、攻撃側と守備側の戦力や装備の質等に差があるとそれだけ白兵戦の可能性が減る。
⒉基本的に火戦を経てから白兵戦が行われる関係上、火力戦の際に兵力が減るため、そもそも「白兵創を受けるかもしれない兵」の数自体が少ない。
特に攻撃側の火力が大きければ大きいほど守備側の兵力が減りやすくなり、白兵戦の可能性と白兵戦が行われた際に「白兵創を受けるかもしれない兵」の数が減る。
⒊守備側が必ずしも白兵戦を行うとは限らず、むしろ状況が許せば後退を選ぶ可能性がある。白兵戦に自信があれば白兵戦を選択するかもしれないが...
Wikipediaなら「独自研究」タグのオンパレードになるような個人の妄想に過ぎないので、上の話は間違い等、多々あるだろうが、少なくとも統計上の白兵創の少なさから見ても、近代の戦争においては白兵戦自体の発生が少ないというのは容易に推察できる。
一方的な白兵戦
そもそも白兵戦自体が少ないことは何となく分かったので、今度は「白兵戦が起こり得る状況」を考えてみる。
前掲の『
初陣の戦場心理』の話の内、2つは逃げた・逃げ遅れた敵を白兵でもって殺している。
仮に敵が突撃前に逃げたとしても、追い付くか、あるいは逃げ遅れた敵は白兵で殺傷できるということになる。
ただし、この場合は逃げる敵に追いつかなければならず、逃げ遅れた敵に戦意がない場合は捕虜になってしまう。
結局、(不謹慎な話ではあるが)色々な効率を考えた時、距離や規模によっては逃げる敵を見たらその場で一時的に止まって、射撃をしたほうが、追いかけて刺突するよりもはるかに楽だし、戦果も上がりそうなものである。
実際、「
初年兵の突撃戦」では射撃でもって逃げた敵を殲滅している。
『1.両小隊は直に部落北側に進出し、逃げ後れたるものを刺殺し、二三百米前方を潰走しつつある敵に対し、猛烈なる追撃射撃をなす。其の斃るる状況?(さんずいに句)に痛快なり。
…6.敵を殆ど殲滅するを得、北方に五、六名、東北方に四、五名、西北方に四、五名逃げたるをみたるのみ。』
とはいえ、逃げた敵を(一方的な)白兵戦で殺傷するという状況は(不謹慎な話ではあるが)その白兵創者の数こそ稼げないものの、戦争を通してもっとも頻繁に発生してもおかしくない白兵戦のパターンではないだろうか?
なにしろ、この白兵戦が発生する条件は、「突撃後、逃げ遅れた敵兵がいる」だけでのである。
マニュアルの通りだが最悪なパターン
では、一方的でなく、彼我ともに白兵戦(格闘)を行うような状態になるのはどういった状況だろうか?
まず考えられるのが、守備側が頑強に抵抗している場合だろう。
『
小戦例集』から二つ、抜粋してみる。
『
小戦例集 第一輯 第二十一』
『…二、 十一月九日十九時三十分敵約三百 本道上より突撃し来る中隊は陣前約五十米に近接するを待ち突如射撃を開始す路上は忽ち敵の屍を以て充満せしが敵は後続隊を合し新手を代へて屡々突入し来る
中隊は断乎として戦闘し火力及白兵を併用し翌払暁に及び遂に敵の大部を撃滅せり
…二、 敵は主として本道上より(不利)数団となり腰ダメ射撃を行ひつつ突入し来る
敵は刺突を行はざるも組付くものあり…
三、 銃剣術は一人対数人の格闘をも顧慮し演練するを必要とす』
『
小戦例集 第二輯 第六』
『…六、 之より先RiA TiA biA MG及協力砲兵は一斉に射撃を開始し一時全く煙と砂塵とに包まれたる中に勇敢なる喊声を聞くのみなりき
暫くして煙霽るるや各所に白兵戦を演じ十四時三十分第一線中隊たる第十二、第九中隊は「クリーク」西岸の陣地を占領す
…八、 大隊長は続いて21、22陣地に対する突撃準備を命ず此のとき林家宅21の陣地先づ動揺の色ありと見るや機を失せず第十二中隊は独断突撃に移り接戦格闘の後之を占領し同時に第九中隊も亦22陣地に突入之を占領す時に十五時なり
大隊長「クリーク」西岸陣地に進出し歸家?
(行の中に其)の敵亦動揺の色あるを見第十二中隊に突撃準備を命ずる間既に一部は歸家?東南角に突入し敵兵を刺殺しつつあり該中隊は独断同陣地に突入し十六時頃同地を完全に占領す
…十、 本戦闘に於ける敵の遺棄死体は第一線のみにて約三百五十を越えたり其の一部は二人乃至三人毎に手足を鉄鎖又は針金を以て縛り後退を不可能ならしめありたり如何に頑強に抵抗せしめたるやを察知するを得べし』
上の戦例は少し特殊な状況を含んでいるが、前者は日本軍が守備、中国軍が攻撃。
後者は日本軍が攻撃、中国側が守備を採っている戦例である。
攻撃側が突撃やそのまま白兵戦に移行できるような距離まで接近した時に攻撃側が白兵戦に持ち込もうと考えた場合や、なんらかの事情で後退ができない場合等、状況によっては攻撃側が突撃や白兵戦に移行、あるいは無理やり突撃や白兵戦に持ち込む可能性がある。
この時、守備側が射撃で撃退できず、かつ守備側がその場に残り、逃げようとせずに積極的に応戦すれば白兵戦になるわけだ。
攻撃側と守備側の双方に後退出来ない理由があったり、そもそも後退が許されていない場合や、双方共に攻撃意欲に溢れている等、ぼちぼちこのような状況が発生することは考えられる。
「
支那兵ノ一部ハ頗ル頑強二抵抗シ最後ノ格闘迄逃ケサリキ」という評があったり、日本軍と中国軍の兵士がそれぞれ銃剣と青龍刀(柳葉刀)で白兵戦を行い、中国兵は日本兵の面を打って、日本兵は刺突を行って相打ちとなったが、結局日本兵側が鉄帽を被っていた為、日本兵は瘤を生じただけで済んだから鉄帽は被れ。という話もある。
日中戦争は列強同士の戦争とは少し毛色が違うため、一緒くたにはできないが、射撃から白兵戦という戦闘の流れはむしろ
マニュアル通りである。
置かれているであろう状況等から考えると、この火戦→白兵戦という流れは、戦闘の流れとしては最悪なものなのかもしれない。
奇襲時の白兵戦
このほか、白兵戦へと移行する確率が高い行動は奇襲だろう。例えば、
『
小戦例集 第二輯 第十二』
『一、第十一中隊諏訪少尉は兵八名を率い四時三十分?(ウ冠に如)越口を出発し規口前に向ひ前進す途中敵約五十名?越口に向ひ前進し来るを発見す彼我の距離約五十米なり茲に於て小隊長は敵に察知せられざる如く其の背後に廻り之に突入し潰乱せしむ』
そもそも奇襲や不意打ちは射撃だけに留まらず、戦術・戦略的にも効果が高い。
奇襲を受けた敵は、狼狽したりしてまともに対応がとれないことが多いようで、突撃の成功例も多い。
上の戦例では格闘が行われたか定かではないが、中国軍側には四名の遺棄死体があるので、突入の際の刺突によって四名が死亡し、他の兵は驚いて潰走したのだと思われる。
似たようなものだと、至近距離でばったり出会ってそのまま格闘という場合もある。日露戦争でも高粱畑でそういった戦闘が発生し、『
殆ど各幹部の独断により辛うじて敵を撃退するを得たり』
(舟橋茂 著,『歩兵初級幹部指揮必携』,1938)という戦例がある。
敵味方どちらにとっても不意の戦いになるので、ある意味フェアな戦闘。
濃霧や塹壕内、見通しが悪い地形、市街戦等、不意に敵と至近距離で遭遇するような環境の場合はそのまま白兵戦に移行しやすいようだ。
日本軍の白兵戦
世界的には白兵創は非常に少ない。そのような状況のなかで日本軍は白兵戦を強調した。
ここまで見てきた白兵戦の戦例を見ると、日中戦争においては、白兵戦が意外と発生しており、しかも日本軍の突撃と格闘、つまり白兵戦が戦果を挙げているように見える。
元々は工業力等の不足を補う為の精神主義への傾倒が始まりで、白兵戦重要視もその一要素だったわけだが、実際にこれを運用してみたら、案外戦果を挙げたのかもしれない。
『
◇銃剣術特に白兵の使用に慣熟せしむるを要す
今回の事変(※第1次上海事変)に於て我軍が常に寡を以て衆を破り到る所勇戦奮闘し其攻防何れを問はず時に或は弾薬尽き時に 不意に敵襲を受けたること枚挙に遑あらざるも此間常に数倍乃至十数倍の敵に対し泰然として敵を至近の距離に引き寄せ最後は銃剣に信頼し遂に之を撃破し敵に大打撃を与へ得たる所以のものは実に我軍に白兵使用の自信を有するに反し敵軍に於ては白兵使用する自信なかりしに依るべし之れ実に敵軍に対し我軍の優越を発揮する所以にして将来益々此等の点を鼓吹し愈々其長所を発揮する如く奨励するを要するものと認む。』
(『偕行社記事第六百九十七号附録』,1932,p.8)
とはいっても、日中戦争で白兵戦は多かったのか?という話に関して、多い少ないを直接的に証明出来る資料(戦死傷者の原因の統計等)を少なくとも私は持っていないので、日中戦争の白兵戦の多少に関してはあくまで妄想の域を出ない。
途中でも触れたように、旧軍の方針的には突撃を過剰に持ち上げている可能性が大いにあるので、近代の戦争における白兵戦による被害者は一般的には数%程度という情報以外は話半分に見てもらうと良いと思う。
長々と書いてきてここで触れるのは少し遅い気がするが、ここでは白兵戦と突撃は一応別物として扱っている。
『典範令用語ノ解〔作戦要務令ノ部〕』では、「突撃」を以下のように説明している。
「肉弾を以て敵に衝突し銃剣にて格闘して最後の勝敗を決する動作をいう。就中騎兵が馬上白兵を揮って格闘するを襲撃という。」
一方の「白兵戦」はこのような説明となっている。
「彼我両軍が互に白兵即ち銃剣、刀、槍を以て、接戦格闘するをいう。」
この投稿では銃剣を構えて敵に向かって走るという行動+格闘を「突撃」、単純な格闘は「白兵戦」と呼んでいる。