2014年12月29日月曜日

対砲兵戦に関する戦史的講話(一)

 昭和最初期の砲兵戦術講授録に記載されている、宝蔵寺砲兵少佐(当時)による『對砲兵戰ニ關スル戰史的講話』は、第一次世界大戦期の対砲兵戦の変遷について簡便にまとめられており、その方面の参考としては好適に思えるので、これを読みやすいようにカナをはひらがなに、旧字体は新字体に直し、句読点と一部の漢字には送り仮名を追加した。

以下、『對砲兵戰ニ關スル戰史的講話』本文


 抑々対砲兵戦に就いては主義上、従来各種の変遷を見たるものなり。日露戦争前及び同戦役に於いては、所謂砲兵の決闘可能なりとの信念と平時演習に於ける砲兵破壊の実験とに依り、戦闘は先ず砲兵の決戦に始まるものとせり。然るに日露戦争となるや露軍砲兵は遮蔽陣地を占領し、日本軍の考えし砲兵の決戦の如きは空想に終わりしは諸官の知る所の如し。

 日露戦争後、仏国砲兵界に於いても千九百十年頃の仏国砲兵監ペルサン氏は、「砲兵の勝敗は一般に決せず、強いて行わんとせば弾薬の浪費に終わる。故に攻撃に於いて、歩兵は砲兵戦の終了を俟(ま)つことなく前進し、其の前進に依り敵歩兵暴露すべきが故に、砲兵は之を制圧し、歩兵は更に前進す。此の間砲兵は少数の砲兵を以って成るべく多数の砲兵を操り、爾後の主力砲兵を以って敵歩兵に対す、之れ力の経済なり」との原則を唱導せり。防御に於いても又此の反作用あり。

 然るに、千九百十一年七月、ベルサン氏の予備となるや、少将エール氏は巴爾幹戦場視察の結果、「砲兵は適当の弾丸、飛行機を有すれば総ての目標を撲滅し得るの能力を有す、故に戦闘は砲兵の決闘を以って開始し、敵砲兵を撲滅せる後、歩兵の攻撃を行うべし」と主張せり。

 本邦においても大正六年(一九一七年)吾人の乙種学生時代に於いては、砲兵破壊は訓練の一要点なりしが如く、成し得る限り敵砲兵は破壊するを以って第一義とす。と教えられたり。

 飜って、世界大戦を観察するに、一九一四年九月シヤパーニユ秋季戦に於いて、仏軍が砲兵協力の飛行機を有するに拘らず、独軍砲兵の阻止射撃に会して失敗するや之に鑑みて、仏軍は万難を排し攻撃準備間に於ける砲兵破壊を企図すべきを強く主張せり。

  一五年二、三月シヤンパニユ冬季戦に於いては、春季戦の結論として莫大の砲弾を使用し砲兵決戦を実施せり。而かも尚其の攻撃の失敗するや、一部論者は仏国砲弾製造能力の僅少に其の因を帰するものありき

 是に於いてか砲兵戦は益々絶対的ならざるべからざるを主張するに至れり。該戦に於ける仏軍砲兵失敗の素因は独軍砲兵が周到に遮蔽し、仏軍歩兵の攻撃発進時のみ射撃せしを以って、独軍砲兵は毫も制圧せられぜ(ず?)。仏軍砲兵は之を現出せしめて、以って撲滅すべき企図を以って、数回の擬突撃をも実施せり。此の企図に基づく大砲兵の集団用法の為には、多数砲兵の試射に超長時日を要するが故に防者に対策の余裕を与えたり。

 此の余裕を与えざる為には結局、計算法(所謂無試射) の射撃を採用し、且つ精密射撃を捨てて地帯射撃に移らざるべからず。従って、愈々多くの砲弾シヤンパニユ秋季戦三日間十五万五千発)を要するに到れり。

 斯くて無人の境を行くが如く砲弾は略奪し、歩兵は散歩的に占領すべし。と想像せられし本戦闘は、独軍の残存機関銃、反対斜面陣地の為失敗の惨苦を嘗めたり。

 爾後、仏軍にては再度復興的の攻撃的準備射撃、徹底的鉄条網の破壊を主張するものを生じたりしが、仏国ペタン将軍は決勝終に期し難しと為し、所謂消耗戦目標攻略は問題に非ず。最大目的は兵員資材の枯渇に在り)を唱えたり。

続く

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