2014年12月29日月曜日

対砲兵戦に関する戦史的講話(二)


 一九一六年二月、独軍がベルダン要塞に対し突如攻撃を開始し、「砲兵は最大限に活動し、歩兵は最小限に消耗す」との主義の下に、大巨砲を網羅せる独軍砲兵が射撃精度を第二義とし、簡略なる射撃修正(狭小なる夾叉〈※原文では夾又〉濶度)の下に地帯に対する集中射撃を実施するや、仏軍の驚愕極度に達し、将に独軍に戦勝の栄冠輝くかを思わしめたり。

 然るに、仏軍は之が対応策として歩兵の正面に野砲を以って阻止射撃を実施し、次いでベルダンに於いて仏軍攻勢を取るに至るや、茲に始めて移動弾幕射撃を創案実施し、攻撃成功せしを以って、該法は歩砲協同の最後の解決なりとの思想を抱くに到れり。

 一九一六年七月乃至十月ソンム会戦に於いて仏軍はベルダン戦の成果に基づき、徹底的移動弾幕射撃を行いしも、独軍は砲兵の破壊せらるるを避くる手段として、甚だしき分散、縦深、遮蔽の対策を講じつつ、仏軍歩兵の突撃開始と共に阻止射撃と逆襲とを以って仏軍の攻撃を挫折せしめたり。

 茲に於いて、仏軍は愈々以って「防御力中最重要なるは敵砲兵」なりとの結論の下に、砲兵戦敢行を高唱し、飛行機の発達と共に砲兵力信頼の思想は愈々高まり某師団の如き二百門の火砲を有するの実情を呈し、ソンム戦に於ける砲兵破壊の成績は良好なりしも、砲兵撲滅の問題は依然として疑問の裡に残されたり。此期、機関銃の採用と共に配属砲兵の尊重を見るに至りしも、配属砲兵数にも定限ありて、依然攻撃の成果は徹底的ならず。

 十七年四月エーヌ戦となるや、防者たる独軍に於いても防者砲兵の破壊制圧せらるること多きと、防御陣地の全正面に於いて阻止射撃を為すの困難なると、攻者移動弾幕射撃の成功とは、防御に於いても敵砲兵を事前に撲滅すべしとの対砲兵戦思想を再出し、之に依って積極的に防者歩兵の損害を軽減せんとするに到れり。

 而して、其の手段として瓦斯弾制圧射撃なる着意を生じたり。

 独軍は斯くの如く、瓦斯弾に依る砲兵撲滅と敵の攻撃開始切迫期に於ける〈※原文は於アル〉殲滅射撃突進時の阻止射撃とに依り攻者を覆滅せんとし、特に殲滅射撃には積極的最大重点を置き、此の場合には対砲兵戦の如きは第二義とすべしとせり。

 攻者仏軍に於いては、移動弾幕射撃と砲兵撲滅とに期待しありき。然れども、ソンム戦に於ける砲兵撲滅未遂の問題は対砲兵戦の時日を長くし(十日とす)、而も尚、防者砲兵の破壊不可なるときは、当日瓦斯弾を以って制圧することに依って解決せんとせり。

 斯くて、集め得たる砲数は毎一粁約六十七門、即ち一門にて約十八米に 相当するの比となり、尚其の欠を補う為、戦車亦多数を算するに到る。而も、移動弾幕射撃と之に触接すべき歩兵の前進とは、残存独軍機関銃の為分離せられ、砲弾は射ち尽くし、歩兵は志気阻喪し、仏軍砲兵の陣地変換は之亦独軍砲兵の好餌となり、対砲兵戦は天候不良の為、飛行機予期の如く活動せず(砲兵破壊数は第五軍正面24%)。終に哀れむべき失敗に終わり、総司令官ニヴエール其の他の将軍は罷免せられ、軍隊内には抗命的騒擾事件をも惹起せり。

 茲に後任総司令官ペタン将軍は「第一期消耗戦、第二期決戦」の方針を採用せり。

 然れども、仏歩兵の志気沮喪は愈々以って砲兵優勢の必要を叫ばるるに到れり。

続く

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