疎開隊形の採用
1914年に第一次世界大戦が勃発し、機関銃の猛威や戦車・毒ガス・航空機等の新兵器の登場に加え大規模な塹壕戦など、戦闘に関することで変化した点は枚挙にいとまがない。
その中でも砲火が猛威を振るい、例えば戦傷について見ても英仏軍共に砲創が7割以上英軍:銃創25%/砲創75%
仏軍:銃創21%/砲創79%
軍陣外科学教程(昭和15)によるを占めている。
大戦後各国は戦争の教訓を基に新戦法世界大戦ノ戦術的観察 第3巻,p.124
(前略)十七年九月十日発布仏軍大本営教令ニ
歩兵半小隊ヲ以テ歩兵ノ最小戦闘単位トナシ
此ノ内ニ軽機関銃手ト小銃手ヲ編入シ
是等小単位ノ機宜ニ適スル敏活ナル運動並ニ
戦闘ニヨリ某小範囲ノ戦闘ヲ独力ニテ遂行セントスルニ至リ歩兵戦術ハ茲ニ根本的ニ変化スルニ至リタルナリの導入や軍の整備を行う事となる。もちろん日本陸軍も例外ではなく、列強に遅れまいと何とかして軍の整備を行うのだが、当然のこととしてそれに合わせて歩兵操典も改正する必要が生まれる。
大正9年(1920)歩兵操典草案発布
明治42年歩兵操典と比べると変更修正加除された点は多い。その詳細については参考文献を参照して欲しい。
参考文献を読んでもらえば基本的に全部分かるので、ここではいくつか比較的大きな改正点を挙げたい。
・編成の変化
連隊に歩兵砲隊と通信班が附属、連隊にあった機関銃中隊が大隊の編成に入った。
また、散開時の各兵の間隔が4歩大正9年歩兵操典草案
第百二十八
散開スルトキ各散兵ノ間隔ハ
状況ニ依リ之ヲ定ムヘキモノトス
而シテ別命ナケレハ約四歩トスとなった。
また、散開時の各兵の間隔が4歩大正9年歩兵操典草案
第百二十八
散開スルトキ各散兵ノ間隔ハ
状況ニ依リ之ヲ定ムヘキモノトス
而シテ別命ナケレハ約四歩トスとなった。
・ 『第二章 中隊教練』の密集と散開の間に「疎開」の節が新たに設けられた。
内容は疎開隊形大正9年歩兵操典草案
第百十一
疎開隊形ハ砲火ノ損害ヲ減少シテ
敵ニ近接スル為用フルモノニシテ
敏捷ニ之ヲ実用シ得ルヲ以テ足レリトスに関すること。
今までは密集隊形で運動し、敵の銃火を受ける前に散開隊形に移って戦闘を行うという形式を採っていたが、砲火の精度と威力が増したことにより、密集隊形での運動の時点で砲撃を受ければ最悪の場合、全滅もあり得るようになった。
そのため、砲火の損害を減少するための隊形である疎開隊形が密集隊形と散開隊形の間に新しく登場することとなった。
第百十一
疎開隊形ハ砲火ノ損害ヲ減少シテ
敵ニ近接スル為用フルモノニシテ
敏捷ニ之ヲ実用シ得ルヲ以テ足レリトスに関すること。
今までは密集隊形で運動し、敵の銃火を受ける前に散開隊形に移って戦闘を行うという形式を採っていたが、砲火の精度と威力が増したことにより、密集隊形での運動の時点で砲撃を受ければ最悪の場合、全滅もあり得るようになった。
そのため、砲火の損害を減少するための隊形である疎開隊形が密集隊形と散開隊形の間に新しく登場することとなった。
・ 附録として軽機関銃が配属された場合の用法が掲載された
大正9年の時点ではまだ軽機関銃は採用されていない。将来採用・配備されることを見越しての記載。
大正9年歩兵操典草案の発布後、大正11年に十一年式軽機関銃
送信者 道は六百八拾里 |
この大正12年の草案から昭和12年(1937年)の歩兵操典草案発布までの間、日本陸軍は日本軍独特の戦闘方式とも言える「疎開戦闘」を歩兵の主要な戦闘方式として、草案及び操典を基に教育・訓練等を行うこととなる。
次は大正12年の草案と昭和3年の歩兵操典の「疎開戦闘」について⇒近代の歩兵戦法(三)
参考文献
・陸軍省 編 『歩兵操典草案』(兵用図書,1920)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962169
・河村正彦 著『改正歩兵操典草案の説明』(小林川流堂,1921)
・河村正彦 著『改正歩兵操典草案の説明』(小林川流堂,1921)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941960
・本城嘉守 著『歩兵操典草案之研究.第1巻』(陸軍歩兵学校将校集会所,1921)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942256
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